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Ⅰ 一方通行

 朝から、いい天気。

〝お天気おねえさん〟は、今日も全国的に真夏日でしょう、と言っていた。

 朝御飯を済ませてから家を出た時、外は既に暑かった。蝉の声があちこちから聞こえる。ここK市も、母が居るU市もきっと真夏日。

 じゃあね、と弟と祖父母が庭の向こうの浜へと足を向けた。泳ぎの得意な祖父と弟は海水浴だ。

 気を付けてね、と応じてから、琴巳(ことみ)は兄と、屋根の付いた古風な門をくぐる。砂利の敷かれた道を少し過ぎると、アスファルトの道になる。硬い地面に足をつけた途端、運動靴の底から熱気が立ち昇ってくるのが判った。

 琴巳は、二、三歩前を歩く灰色の野球帽を見る。帽子の下から、柔らかそうなハシバミ色の髪の毛がのぞいている。

「もう三十度あるかなぁ、お兄ちゃん」

「かもね」

 三つ年上の兄――琇那(しゅうな)は、短いけれどのんびりと返事をした。男の子なのに、綺麗な声。低くて張りのある祖父のモノや、甲高くてうるさい弟と違う。覚えている父の声とも違う。

 お兄ちゃんの本当のお父さんは、どんな声だったんだろう。

 海の方へやや強い風が吹いてきて、琴巳は麦わら帽子の両端を手で押さえつつ思う。

 琇那と初めて会ったのは二十日ほど前だ。身寄りを亡くした少年を、赤の他人ながら祖父母が養子にしたのだと母から聞いた。

 聞いた時は、その事だけ聞いて、それ以上を聞く気がしなかった。

 琴巳も、少し前に父を事故で亡くしていたから。父だけでなく母も居なくなってしまった話なんて、怖くて聞きたくなかった。

 アスファルトの道を逸れて雑木林に入ると、蝉の声が種類と音量を増す。代わりに、周りの温度がひんやりとしてくる。小さな林をつっきるのは図書館への近道だ。

 木陰の涼しさに、気分良く琴巳は口を開いた。

「課題図書ねぇ、面白かったよ」

「良かったな」

 琇那は歩みを緩め、帽子をちょいと浮かすと、手の甲で額を拭った。琴巳は横に並んで隣を見る。声以外も、兄は綺麗。

〝かーなりかっこいい〟と母から予め聞いていたものの、最初に彼を見た時は驚いた。混血なのか色素が薄い。身体が弱かったそうで、夏だのに白い肌。淡い茶色の髪。濃く淹れた紅茶のような色の目。琴巳は九年九ヵ月生きてきて、ここまで整った姿形の人を見たことが無かった。

 本当に生きている人なのかと初めは疑わしいくらいだった。兄は表情が殆ど無く、口数も少ないので。

 琴巳は当初、話しかけるのもおっかなびっくりだった。が、人見知りしない弟が簡単に兄と打ち解け、それにつられて、琴巳も臆せず話せるようになってきた。

 兄は本が好きで、映画が好きで、植物の名前、虫の名前、貝殻の名前、随分と知っている。ほっそりしているのに、祖父母を助けて重い物を軽々と運ぶ。

 そして何より、琴巳の話を聞いてくれる。くだらない内容を取りとめ無く話しても、彼は今のところ、あしらうということをしてこない。

「中学は読書感想文の宿題、出ないの?」

「出てるよ」

「あーあ、中学も感想文あるのかぁ」

 琴巳はちょっとげんなりした。感想文の宿題は苦手だ。心に響いたことを、言葉にするのが難しい。「本、すぐに借りれた?」

「うん。この前、返した」

「いいな。もう終わってるんだ、お兄ちゃん」

 こちらを見た琇那の目が、帽子のつばの下で微かに細められた気がする。ひょっとすると、笑み。

 兄はのんびりしているようでいて、何かと卒が無い。琴巳達が八月頭にここへ来た時には、夏休みの宿題はほぼ片づいていたように思える。

 だからこそ、にわか妹弟の面倒も見られるのだろう。

 琴巳としては嬉しかった。



 数日後の午後、いつにも増して蒸し蒸しした。

 残っていた宿題を粗方片づけた琴巳は、晩御飯の支度を手伝おうと、階下に降りて台所を覗いた。祖母が流しの前に立っている。

「お祖母ちゃん、お夕飯なぁに」

「あ、琴巳ちゃん、よかった」

 振り返った祖母は、ふっくらとした口元を綻ばせた。「お外、見て。雨降りそうなの」

 言われてみると、窓の向こうの空に黒々とした雲が群がっている。夕立になりそうだ。

「お洗濯物?」

 急いで踵を返しかけた琴巳に、あ――違うの、と祖母が慌てたように言った。

「シュウ君とコウ君に、植野さんの所へお使いを頼んでしまったの。傘を持ってないのよ」

「あたし、迎えに行くよ」

「よかった、琴巳ちゃんが居てくれて。車に気をつけてね」

 祖母の言葉に、はにかんで笑ってから、琴巳は傘を三本抱えて家を出た。

 K市の中心部は長い海岸がある所為か夏場の人出が凄いらしいが、この辺は長閑だ。店の数は少なく、一番近いコンビニには歩いて三十分以上かかる。図書館も、近道を抜けて一時間弱要する。

 祖母と仲の良い植野さんは雑貨屋を営んでいて、店は琇那の通う中学校の近くだ。単純な道のりで、コンビニに行くのと所要時間は大差無い。

 もわっとするアスファルトの道を歩き出してすぐ、薄灰色だった路面にばたばたと黒い染みが付き出した。傘を開くとぼんぼんと頭上に強い音が響く。琴巳は早足をいっそう速めた。

 瞬く間に激しくなった雨の中、ほぼ小走りに道半ばを過ぎた頃、前方に黒い大きな傘が一つ見えた。琴巳の速度と反対に、ゆったりと向かってくる。近づけば、二人で一つの傘をさしているのだと判った。兄と弟。運良く傘を借りて店を出たらしい。ほっとして駆け寄る。

「かっ、さ、持って来た、よ」

 息を切らして言いながら、琴巳は抱えていた傘の一本を開いた。七歳になったばかりの弟が、丸い目をくりっとさせて見上げてきた。大事そうに両手で抱えたレジ袋からキュウリとトウモロコシが覗いている。植野さんのお裾分けだろう。兄が横から手を出してレジ袋を取り、弟の手が空いたので、琴巳は傘を差し出す。

 ありがと、と弟は受け取りながら、普段は駄々と憎まれ口しか紡がない口でぼそぼそと言った。

「お姉ちゃん、ナンか凄いことになってるね……傘さしてるのに」

 紡がれた音に微かな申し訳無さが滲んでいる。意外さに瞬いた時、細かな雫が散った。次いで顎を水滴が伝い落ちる。あれっ、と手が追い、自分が随分とびしょ濡れだと知った。

「えー、あれぇ?」

「お姉ちゃん、こんなに降ってんのに走るからだよぅ」

「だって――う、わぁん、泥んこになってる」

 見やれば半ズボンやTシャツにまで泥水が跳ね跳んで、弟が言う通りの凄い有様だった。背面の泥跳ね状況を情けない気分で確かめていると、雨音に紛れて綺麗な声が笑み混じりに聞こえた。

「早く着替えた方がいいな」

 少し傾いだだけで、黒い傘から、きらきらと次々に雨粒が流れ落ちる。

 三人で横に並んで歩き出す。雨は土砂降りのままだ。

 弟が植野商店の駄菓子の話を始めた。U市の家の近くには売っていない類の物があったそうだ。ボクんチの近所には何で売ってないんだろう、とぼやく。

「コウが無駄遣いしないようにでしょ」

 兄越しに弟を見やろうとして、琴巳は気づいた。琇那の首筋が水をはじいて光っていると。華奢な肩が自分以上に濡れていた。シャツの半袖が、水を含んで重そうに細い腕に張り付いている。

 あれ――なんで、こんなに。

 そう口にする前に、弟が言い返してきた。

「ボク、無駄遣いなんてしないもん」

「へー」

 琴巳は色合いが増した髪から目を外し、抑揚無く応酬する。

 雨が弱まった頃、家に帰り着いた。おかえりなさい、と祖母がすぐに顔を出す。

「あらあら、三人共、風邪ひかないようにすぐ着替えてね」

 はぁい、と琴巳は殆どからりとした弟の両肩に手を乗せて階段へ向かう。琇那は、植野さんから、とレジ袋を祖母に渡していた。琴巳は兄の後ろ姿を振り返って、知らず唇が緩む。

 お兄ちゃんも、ナンか凄いことになってるね――傘さしてたのに。

 兄は右側面だけ、ずぶ濡れだった。


 着替えと手洗いうがいを済ませて台所に行ったら、既に小ざっぱりとした様子で兄は麦茶を飲んでいた。妹弟に気づくと、ささやかに目が笑む。

「虹が出てるよ」

 えっ、と歓声をあげ、琴巳は兄が示す窓へ走った。まだぱたりぱたりと降っていたが、夕立はほぼやんでいた。リビングの大きな窓の外、苔色の丘陵の上空、瑞々しくオレンジがかった辺りに淡い彩りの橋が浮かんでいる。U市では大抵、様々な建物に遮られて一部だけ見えるのに、ここではほぼ半円の状態だった。横に来た弟が、でっかい、と甲高い喜声をあげる。

 琴巳が言葉も無く見ていたら、いつの間にか祖父と兄も並んで窓外に目をやっていた。

「さっきは、もっとはっきり見えたんだけど」

 呟くように綺麗な声が告げて、低い笑い声がこぼれた。

「でも、これだけきちんとした虹は久しぶりに見れたな」

「そう」

「うん」

 満足そうな祖父と兄のやり取りが、耳に心地好かった。

 そろそろ晩御飯を作るわよー、と祖母が柔らかなハーモニーを奏でた。



 本が好きで、映画が好きで、植物の名前、虫の名前、貝殻の名前、随分と知っている。ほっそりしているのに、祖父母を助けて重い物を軽々と運ぶ。自分が濡れても小さな弟に傘をさす。周りに優しい景色を教えてくれる。


 うっすらと、心に響いていく。

 そうして、ひそやかに〝兄〟を感じた夏。

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