↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~  作者: 四谷軒
第十六部 決戦の地
PR
85/88

85 「石水混じり」の雨

 簗田政綱(やなだまさつな)と木綿藤吉は、政綱が今川の忍びの者を全て始末して、忍び小屋に隠したのち、言ったとおり、野伏(のぶ)せりのように、あるいは野の獣のように、森を、林を、茂みを走り、ついに今川軍の側面の叢(くさむら)に潜むことに成功した。

 政綱はそっと、その草と草の隙間から、今川軍をうかがう。


「……どうやら、進軍を止めるようだ」


「ですな。先手(さきて)が出たようなので、戻ったらまた」


「いや」


 政綱は空を指差した。

 時折、稲光が走る黒雲がうごめいている。


「もうすぐ雨だ。それにそなえて、どこぞに急ごしらえの陣でもかまえるやもしれぬ」


「……と、なると」


 木綿は考える。

 その、考える木綿を、政綱は黙って見守っている。

 実は、政綱はこのい(・)く(・)さ(・)が終わったら、一線から退(しりぞ)こうと思っている。

 自分の心身の最高潮はこのあたりだ、という自覚があったからである。

 人間は年を取る。

 衰えるのは、やむを得ない。

 幸い、忍び働きについては、蜂須賀小六がいる。

 だが、謀臣としては、この木綿藤吉が一番、見所(みどころ)がある。

 過日、それを信長に申し出ると、「そのとおりである」と賛意を示され、こたびのい(・)く(・)さ(・)には、必ず木綿を連れて行き、その謀(はかりごと)の術(すべ)を伝えよと念を押された。


「さて木綿、おれと……信長さまの目(・)を、裏切ってくれるなよ」


「……何か申されましたか?」


「いや、ひとりごとよ。それより、どうか」


 どうか、と聞く内容は決まっている。

 このような状況下で、今川軍がどう、そしてどこへ陣をかまえるか、ということだ。


「雨天ゆえ、陣に水が溜まらぬよう、高所へ。それも、大高城や、その他の砦が見られるような高所へ」


「……そうだ」


 政綱は、彼らしくもなく涙を浮かべながら、木綿の肩を叩いた。

 ああ、やはり、自分の潮時は、この時だという感慨があったからかもしれない。


「……あ、政綱さま。敵、動き出しました」


「よし。つけるぞ。ただし、今川の陣の目星がついたら、離れる」


 時が流れている。

 今、陣の場所を確かめることに必要以上に拘っては、織田は負ける。


「松平なり、朝比奈なり……それが戻ることと、何より……海路を迫る、蛇(・)の(・)胴(・)体(・)ですな」


「そうだ」


 今川軍、特に今川義元の本陣を見極める。

 ただし、海路から迫る敵が侵掠をする前に。

 ……そういう、矛盾した命題に直面する織田軍であった。


*


 中嶋砦。

 織田信長は、寝てはいないが瞑目して、簗田政綱と木綿藤吉の到着を待っていた。

 前田利家らのもたらした情報により、今川軍の動向はある程度知れた。

 が、この雨の中、具体的にはどこに陣をかまえるのか。

 それを知らないことには、これからやろうとしていることができない。


「信長さま」


「何だ」


 信長は眉一つ動かさないが、政綱と木綿か、と言いたいことが、帰蝶にはわかった。


「……いえ、柴田勝家さま、この中嶋砦に着陣なさいました」


「……で、あるか」


 信長の態度は変わらない。

 常と変わらぬ態度だ。

 だがその目に、残念そうな色が帯びるのを、帰蝶は見た。


「……湯漬けでも作りましょうか?」


「……頼む」


 それを聞いて、森可成(もりよしなり)や河尻秀隆も、われもわれもと湯漬けをと言い出す。


「……お前ら」


 信長が失笑すると、帰蝶や皆も笑った。

 ちょうどそこへ、柴田勝家が砦の中のこの場へと入って来た。

 相も変わらず、渋い顔。

 皆とちがって、山賊や偸盗(どろぼう)の退治をさせられていたからか。

 誰もがそう思う中、勝家は黙然と歩を進めて、信長の前に来て、座して言った。


「信長さま」


「何だ」


「熱田より急報が。焼き討ちに遭っているとの由(よし)」


「で、あるか」


 湊から、つまり海路からの焼き討ちであろう。

 これまで散々、ささやかれていた、海路からの――双頭の蛇の残った胴体の――水軍の攻撃が始まったのだ。


「して、焼き討ちの主は」


「三つ鱗ではないとのことです」


 三つ鱗。

 北条家の家紋。

 つまり、このたびの海路から襲撃は、三つ鱗――北条家による大船団の水軍ではなく、やはり服部党。服部友貞によるものと推定されるとのことだった。


「ですがもはや――ことと次第によっては、三つ鱗も出張ってきましょう」


 今川としては、最終目的が何であれ天下であれ、少なくとも尾張を支配下に置くことが当面の目的である。

 その尾張で悪評を高めるのは、なるべくなら避けたいところである。

 服部党がやり過ぎれば、当然、掣肘するために、北条水軍が出よう。


「服部党・服部友貞は歯止めが効かないところがあるからな。さもありなん」


 信長は立ち上がった。

 ことここに至っては、是非もなし。

 今少し、今少し今川義元の居場所を突き止めたかったが、熱田が今、海から攻められている。

 熱田を取られれば、鳴海城、大高城と連携し、今、中嶋砦(ここ)にいる織田軍が孤立する。清州から切り離される。


「雨が」


 誰からともなく言ったその台詞に、信長は外を見た。

 外の雨は強く、もはや視界は遮られている。

 砦の屋根を叩くその音は、石でも降ってきているのかと言いたいぐらい、苛烈だ。

 信長公記に「石水混じり」と記される豪雨であり、もしかするとそれは雹(ひょう)だったかもしれない。

 だが仕方ない。

 田楽狭間か、桶狭間か。 

 どちらかあ(・)た(・)り(・)をつけて、征くしかない。


「いざ……」


 出陣、と言おうとした、その時だった。

 場に、帰蝶が現れた。

 いつの間にか、外に出ていたらしく、髪が、額が濡れている。


「信長さま」


「濃」


 帰蝶は無言で頭を下げた。

 そしてそのうしろから、何人かの影が。


「政綱? それに木綿か?」


「ただ今、戻りました」


「遅うなり申した」


 簗田政綱が毛利新介に抱えられ、木綿藤吉が前田利家に背負われて、場に登場した。

 帰蝶は、新介ら共に、砦の門前で、政綱らの到着を待っていたらしい。

 その当の政綱は、降る雨に濡らされ、が(・)ち(・)が(・)ち(・)と歯を鳴らすほど、寒がっているように見えた。

 だが実際の政綱は、寒がってなどいない。

 木綿の推測で、今川義元の本陣は、ある程度の目星がついた。

 ついたが、それを告げることが。

 そう、今川義元の居場所を告げることが。

 何か、空恐ろしいことのような気がしてならないのだ。

 そう、それは、沓掛城付近で輿の登場を待ちかまえていた時、感じたような。

 自分の目が、織田家という生き物、否、もっと大きな「何か」の目だと感じた、あの時のような。

 今の自分の口もまた、もっと大きな「何か」の口で、それをついぬ(・)る(・)り(・)と出してしまうと、それは天地を引っくり返す一大事を起こしてしまうような。

 ……そんな、気がするのだ。


「政綱」


 信長が語りかける。

 気がつけば、自分の肩に手を置いている。


「……大儀」


 ああ、自分は報われている。

 この人は、自分の働きをちゃんと見てくれている。

 そういう「大儀」だった。

 ……気がつけば、帰蝶もまた自分の肩に手を置いてくれている。

 そして自分の背にも、木綿のごつごつとした、それでいて力のある手が。


 ……言おう。

 政綱は口を開いて、それを告げた。

 この国の天地を引っくり返すことになる、それを。


「輿(こし)は……輿乗(よじょう)の敵は、今川は……桶狭間山にあり」


「で、あるか」


 信長の目が炯炯(けいけい)と輝く。

 ついに、この時が来た。

 信長は語った。

 何故かは知らないが、自分は生まれた時から、こうなることを知っていた、と。


「……そう、何か大きなこと、大きなものが、いずれ自分の前に現われ、そ(・)れ(・)を(・)ど(・)う(・)こ(・)う(・)す(・)る(・)時(・)が来る、と知っていた。それが何かは分からない……が」


 まだ幼かった信長がそう言うと、父・織田信秀は、ある男を連れて来た。


「お前にこの男をつける。学べ。教われ。さすれば……そ(・)う(・)な(・)っ(・)た(・)時(・)の助けとなろう」


 信秀は自分の隣に立つその男を、自分の知る限り最高の知と力と……勇気を持つ男だと言った。

 その男の名は平手政秀。

 以後、傅役(もりやく)として支え、見守り、死ぬまで信長を助けた硬骨漢である。


「もうこういうことは言うまいと思っていたが……敢えて言おう、親父殿、爺、義父上(ちちうえ)、見守っていてくれ」


 帰蝶がいつの間にか、隣に立っていた。

 もう、簗田政綱も木綿藤吉も、自らの足で立っている。

 それに毛利新介や前田利家もならび、そして毛利長秀や柴田勝家、気がつけば森可成や河尻秀隆らも、集まってきている。


「信長さま」


 一同を代表してか、帰蝶が言った。


「この石水混じりの雨の中ですが……」


「皆まで言うな」


 信長は笑った。

 それは、人によっては第六天の魔王の如き笑みだったかもしれない。

 だが、この場にいる誰もがそれを頼もしく思った。


「いざ……いざ、出陣!」


 織田信長、中嶋砦を出陣。

 折からの激しい風雨の中であるが、むしろそれを好機として出陣した。

 ……輿乗の敵を討つために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。