80 前夜 後編
織田信長は「寝る」と言って、奥へ行ってしまった。
残された群臣諸将の中には「運の末には、知恵の鏡も曇る」と言い出す者もいた。
さらに、中でも事情通を称する者は「いや、実は武衛(斯波義銀)さまを狙っておるのじゃ」とまことしやかに語る。
「武衛さま? 何故じゃ?」
「分からんか。こたびの今川の狙いは、武衛さまを尾張守護に、国主に戻す、という名目で来ておるのよ」
ほうほうとうなずいていたその小者は、仔細ありげに「ちょっと用事を思い出して」と言って、去って行った。
そしてまことしやかに語っていた男――蜂須賀小六は、脇にいた小一郎に「尾行ろ」と耳打ちした。
すぐ戻って来た小一郎が「間者でした」と言うと、小六は「やはりな」とにやりと笑った。
「よし、いいぞ。この調子で怪しげな奴にはじゃんじゃん今の話をしてやれ」
「……そんなにうまくいくでしょうか」
「まあ、五分五分だな。だが、今の話には真実味がある」
「……実際、真実でしたからな」
「そうよ。なればこそ、今川をかき乱すには、うってつけではないか」
信長の一の謀臣・簗田政綱が沓掛城付近に出払っている今、蜂須賀小六が政綱に成り代わって、このような工作に邁進していた。
……これには津々木蔵人も情報の錯綜と混乱に戸惑いを禁じえなかった。
思い余った彼は、そのまま今川義元にその話を報告すると、義元はちょっとびっくりしたような顔をした。
そして「成る程、そのような手もあったか」と言ったが、すぐに「だがその斯波義銀も、今は封じられておる……可哀想にの」と笑った。
むろん、可哀想なのは斯波義銀ではなく、織田信長である。
*
簗田政綱は木綿藤吉と共に沓掛城に潜入した。
といっても、城に入った今川義元自身が、周辺の農民も招いての大宴会を催しており、潜入といえるほど立派なものではなかった。
ともあれ、政綱と木綿は首尾よく城の内奥にまで至り、気分良く呑んでいた松井宗信という武将と遭遇する。
「おやおや……こんなところまで来てしまったのか? この奥はやめておけ。怖いぞ」
おどけるような宗信だが、目が笑っていない。
これ以上は、義元の近く。
侵入は許さないという気構えである。
「いやいや――よいではないか、よいではないか」
ところが、その宗信のうしろから、当の義元が青竹の杖をついて、足を引きずりながら現れた。
「ささ、酒を一献一献」
もしかしたらしゃれのつもりかもしれない。
それぐらい、今川義元は上機嫌だった。
日中の「変貌」のことなど、毛ほども感じさせないくらいに。
「ふはは。呑め。騒げ」
間者も農民も、あわせて皆酔ってしまえという策であろうかというくらい、酒が振る舞われた。
そして酔いが強まり、その場に寝る者が多くなった頃――。
「松平元康、これより大高城に兵糧をお届け申す」
三河の松平元康が出陣した。
鷲津砦と丸根砦にそのことを伝えるべきだろうが、今の簗田政綱と木綿藤吉にそんな余裕はない。
沓掛城外の忍び小屋にいる前田利家と毛利新介も同様だろう。
利家らは、万一の際に、すぐに信長の許に駆けつけられるよう、すでに近くの林に馬を隠していた。
その利家らも松平軍が夜陰を進むのを見たが、やはり動かなかった。
「どちらにしろ、丸根砦には佐久間大学がいる。大学なら――察して動けよう」
佐久間大学。
佐久間盛重が本名であり、かつて、稲生の戦いの際に、名塚の砦を守り抜いたという実績がある。
「新介どののおっしゃるとおり」
利家は新介の意見に同意を示し、当初打ち合わせたとおり、城に入った政綱と木綿を待つことにした。
もしここで、利家と新介が松平軍を追っていたら、彼ら自身の運命、そしてこれからの尾張、あるいはこの国の運命も変わったかもしれない。
そういう意味では、目立たないが、かなり重要な分岐点であった。
「……おや、誰か来た」
「長秀どの? 新介どの、長秀どのでござる」
……ちょうどそこへ、毛利長秀が忍び小屋に至った。
*
その丸根砦の佐久間大学盛重は、大高城への松平元康入城をただ黙って見ていたわけではない。
同じく大高城を囲む、鷲津砦の織田秀敏(織田信秀の叔父)と連絡を取り合っていた。
秀敏は、織田一族の長老的な立場で、かつては斎藤道三から、織田一族内の調整を(信長を有利にするよう)依頼されているほどの人物である。
何と、その織田秀敏当人が、この深夜、「信長から知らせが来た」と丸根へやって来たのである。
「大学よ、清州からの知らせによると、大高城はそのままで良い、とのこと」
「……それは、なにゆえ」
「これを見よ」
秀敏は懐中から書状を取り出す。
そしてある一文字を指し示す。
「これ……輿の字でござるか?」
「さよう」
墨痕鮮やかなその書状は、信長自らの筆跡だった。
そしてその書状の「輿」の字が、より力強く、際立って見えた。
「もしや……」
「察しのとおりだ、大学」
「……輿をおびき出すため、でござるか」
「うむ」
秀敏はそこで、灯明の火に書状を近づけ、燃やしてしまう。
「今、輿の上に誰が乗ったかは、知っていようの?」
「それは」
簗田政綱の手下の者から、丸根砦の佐久間盛重と鷲津砦の織田秀敏も、当然、報告を受けている。
「今川、義元……彼奴をこのあたりで討つ、と」
「うむ。そのためにこの丸根と鷲津、戦って時を稼ぐ必要があるようじゃ」
「信長さまが至るまでの時……ですか、おっしゃるとおり。ですが」
「そう。命がけになる」
そこで秀敏は、ふっと笑った。
「どうやらわれら、語り草となるべきいくさをするべき時が、来たようじゃ」
盛重はうなった。
信長の描いた策だけではない。
秀敏の、その策のためのいくさ、そのために死ぬかもしれないそのいくさを、語り草と言ってのける態度にもだ。
さすがに、長年戦いつづけて来ただけの男は、年季がちがうなと思った。
「さて大学。わしは死んでもかまわんと思うが……おぬしはどうだ?」
「むろん」
この佐久間盛重、覚悟を決めているとうなずいた。
織田秀敏は笑った。
おそらくそういうのも込みで、信長は書状を送ったのであろう――と。
「では戻る。実は、今川軍の朝比奈や井伊が、早速大高城に向かったとの報があった」
「………」
そういう報を、先に教えておくべきだろうに、秀敏は敢えて最後にした。
それを言ってしまうと、もう出陣せねばならなくなる。
だがその前にと。
秀敏は、盛重との別れを惜しんだのだ。
「許せ」
「いえ」
「ではの。おそらくこれが今生の別れじゃ」
「はい……」
そして秀敏はある唄を唄いながら去っていた。
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ……」
*
「丸根と鷲津の砦が、攻められております」
近侍がそう伝えて来た。
清州城。
信長の寝所。
深夜。
信長は、帰蝶が「お寝みになられます」と言ったので、本当に寝たのだ。
何もせず、寝る。
死んだにも等しい状態だが、そうでもしていないと、これからのことに対処できない。
隣にいた帰蝶は、緊張して寝られなかったと言う。
「……信長さまは、ほんに図太い」
そういうものかな、と思うが、「いくさの前は、ただ寝る。それに限る」と父・信秀が言っていたのを思い出した。
その教えが今、生きたのだろうと感じた。
近侍の足音で目が覚めるぐらいは、信長も緊張していたが。
「……さて」
そう呟いて、信長は立ち上がった。
帰蝶も立ち上がった。
「……舞いを一指し」
「……ええ」
信長は城主の間に向かう。
うしろを歩く帰蝶に言う。
「秀敏の大叔父と佐久間大学は、たぶん、死ぬと思う」
「ええ」
「他の者も、死ぬと思う」
「ええ」
「そして、これからも……」
「ええ……」
武士とは、将とは、人に死ねと命じなければならないこともある。
それが務めだからだ。
つらい務めだ。
だが、だからこそ。
「のちの語り草となるような、そんな……」
「皆までおっしゃいますな」
帰蝶がうしろから、そっと信長の背を抱く。
信長の表情は見えない。
だが、心音は聞こえる。
安らいでいる気がする。
「……舞おう」
「ええ」
城主の間に入る。
誰もいない。
こんな時間にこんなところにいる方がどうかしている。
帰蝶は手ずから灯明をつけて回り、最後に、鼓を取った。
信長は、気が向いたらいつも舞う。
だから、鼓はいつも置いてあるのだ。
信長が、扇を手に持つ。
「……いざ」
「はい」
信長と帰蝶のふたり。
ふたりだけの空間。
その空間で。
灯明が揺らめく中で。
信長が唄い、舞う。
「人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
一度生を得て
滅せぬ者のあるべきか」
朗々たる信長の声。
切々たる帰蝶の鼓。
幸若舞、「敦盛」の一節である。
信長はよくこれを好み、舞った。
「…………」
信長が舞いの最後の型のまま、残心。
帰蝶も鼓をかまえたまま、残心。
まるで、余韻にひたるような、残心。
しかし、その間を振り切るように、信長は告げた。
「出陣の用意を」
「……征かれるのですね」
帰蝶が鼓を下ろしながら言う。
「ああ」
「信長さま、わたしも」
信長は無表情だった。
しかし、諭すように言った。
「……死ぬぞ」
「信長さまが死んだら、同じです」
「……で、あるか」
永禄三年五月十九日。
世にいう「桶狭間の戦い」が、今、始まる。




