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輿乗(よじょう)の敵 ~ 新史 桶狭間 ~  作者: 四谷軒
第十四部 輿乗(よじょう)の敵
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75 海道を征く

 今川義元の描いた、「双頭の蛇」。

 それは今川義元自身をひとつの「頭」として海道を西へ征き、美濃の一色義龍をもうひとつの「頭」として、美濃から尾張へ南下。

 そしてまた「胴体」として、海路、今川氏真と北条氏康を進ませ、海から尾張を制圧するという、壮大な作戦である。

 斎藤道三は長良川の戦いの渦中にあって、その「双頭の蛇」を見抜いた。見抜いたからこそ、国譲り状を書き残し、それを織田信長と帰蝶に託した。

 託された信長と帰蝶は、やがて「双頭の蛇」に気づき、行動を開始する。

 特に美濃は――国譲り状を用いて。


*


「……以上により、美濃は封じられております」


 清州城。

 城主の間。

 斎藤道三の旧臣にして、今は織田の美濃方面の謀臣である蜂須賀小六が、手下を放って見聞きしたことや、竹中半兵衛や真田幸綱から知らされたことをまとめ、軍議の場で報告した。


「濃、でかした。ようやった」


 信長は褒めた。

 公的な場、軍議の場で褒めるとは、帰蝶を一流の将と認めている証である。


「いえ。しかし美濃については薄氷を履(ふ)むが如(ごと)し。いついかなるときにでも、何が起こるやもしれませぬ。たとえば、一色義龍が自棄(やけ)を起こしたとしたら、目も当てられませぬ」


「……まあ、今川義元が狙っていたのは、案外そ(・)れ(・)やもしれぬ。じゃが、濃のやったこと以上のこと、誰にもできぬ。重畳じゃ!」


「……ありがたき幸せ」


 場が和んできたが、帰蝶は雰囲気を引き締めるように、頭を下げた。

 それは、諸将らも思わず襟を正すくらい、きちんとした一礼だった。


「……うむ」


 帰蝶の気遣いにうなずいて応(こた)え、信長は脇に控えた太田又助信定を振り返る。

 太田又助信定。のち、牛一。

 かつては斯波家の家臣であったが、勇武と吏僚としての才を買われ、信長の近くにて仕えている。のちに太田牛一として「信長公記」を著す男である。


「これなるは太田又助。斯波家に仕えておった。おったがゆえに……こたびの、簗田政綱(やなだまさつな)の『輿(こし)』探しを手伝(てつど)うてもらっておる」


 又助は拝礼してから場に地図を出す。

 地図には、三河から尾張にかけてが描かれていた。


「又助。政綱から伝えられたことを申せ」


「はっ」


 又助は改めて一礼してから、信長の謀臣である簗田政綱からの報告を述べる。

 政綱は信長の命を受けて、輿を探すべく尾張と三河の国境に潜んでいる。

 そして今川義元の行軍が必ず立ち寄る地点として、尾張沓掛城と目しており、そこを中心に網を広げている。


「まずもって、今川軍の進み具合ですが、政綱どのが把握している時点では、池鯉鮒(ちりふ)まで来ています」


「池鯉鮒」


「もう、西三河ではないか」


「となると、松平元康も合流しているのでは」


 三河松平家本家、松平元康。

 今川義元の姪を娶り、今川一門衆として、三河忩劇(みかわそうげき)とそれにつづく混乱を制した手腕は、脅威として織田家中に認識されている。


「……松平元康のことは措(お)こう。それより、今は、輿だ」


 信長が話題の拡散を止め、逆に核心に迫る。


「……輿はどこにいる?」


「…………」


 場が、ねっとりした、粘っこい雰囲気に包まれる。

 それだけの執着、執念が、信長の問いには感じられた。


「……簗田政綱さまの曰(いわ)く」


 太田又助が、恐れ気(げ)もなく口を開く。

 又助には、こういう豪胆さがあった。


「曰(いわ)く……白馬に乗った今川義元のそ(・)ば(・)を行ったり来たり。あるいは見えず、あるいは現れ……たぶん、行き当たりばったりで、気まぐれで、今川軍をつかず離れず……といったところだろう、と」


「…………」


 おそらく、斯波義銀(しばよしかね)には、今川軍の中で、何らの役割も与えられていない。

 少なくとも、実務上の役割は与えられていない。

 要は、御輿(みこし)なのだ。文字通り。

 そんな立場の、しかも偉い位(くらい)の人間が軍中にいて、どうなるか。


「敬して遠ざける……そして義銀自身としても、軍の中などつまらないであろうから……そりゃあ軍から外(・)れ(・)る(・)。今川軍からしても、そんな奴に居られても困るであろうから……利害が一致したわけだな」


 こんなものを利害と呼ぶのかどうかは、はなはだ疑問であるが、とにもかくにも信長は納得した。

 となるとやはり、斯波義銀が今川軍の中(・)に入るのは、敵地である尾張に入った頃、場所で言うと沓掛城のあたりであろう、ということも。


「思えば尾張にいた頃も、移り気なお方であった」


 場にいる一同も、うんうんとうなずく。

 思いつきで動き、動いた責任は取らない。

 それが、斯波義銀という男である。

 信長は苦笑する。

 

「きっと……さしもの今川義元も、扱いに困っているのではないか」


「ええ。その……もう輿から下りろ、とか言ってるかもしれませんね」


 帰蝶がそう言うと、皆、笑った。


*


 三河。

 池鯉鮒。

 津々木蔵人は、もう限界だと思った。

 今川義元の一(いち)の武者である、四宮左近(しのみやさこん)の忍耐が、である。


「津々木どの。何だ、あれは」


 左近はさすがに一の武者と称えられる男だけあって、新参者の蔵人を差別することは無かった。

 だが連日乱痴気騒ぎに興ずる斯波義銀に対しては、あからさまに軽蔑の意志を示した。


「われらい(・)く(・)さ(・)に参る身でござる。前祝いの一回や二回ならまだわかる……しかれども、こう連日や(・)ら(・)れ(・)る(・)と」


 煩(うるそ)うてかなわぬ、と左近は零(こぼ)した。

 古風な武士である左近は、い(・)く(・)さ(・)においても配下の将兵の掠奪や乱暴を禁じ、そのあたりも買われて、義元の身の回りを守る役割を負っている。

 その左近が迷惑そうな顔をしているということは、相当なものである。


「昨夜もお寝(やす)みの義元さまを起こせ、酒宴に付き合わせるのだ、と言って……」


 今川義元は、示威の目的もあって、行軍中も道々の人々に顔を見せ、「よしなに、よしなに」と今川の支配を浸透させることに務めていた。

 慣れぬ馬に乗って。

 そう、義元は当初、僧侶として修業し育てられていたため、武術や馬術等は、実は苦手である。

 だが、必要に応じて、特に馬は苦手でも無理して乗るようにしていた。


「……そういう事情でお疲れでお寝(やす)みだというのに」


 左近の愚痴るような口調に、蔵人は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 蔵人は蔵人で、その「酒宴」に女を呼べだの何だのいう無理難題をやめさせるのに必死で、疲労困憊していたのであるが。


「……終(しま)いには、こう呟いて去って行きおった」


 左近が声をひそめる。


 ――遊び女(め)の子のくせに、夜遊びせぬのか。


「それは」


 それまで黙って聞いていた蔵人が目を剥(む)いた。

 やはり、義銀はあ(・)の(・)こ(・)と(・)を知っている。

 今川義元の出(・)自(・)を知っている。


「……これがどれだけまずいということか、お(・)手(・)前(・)な(・)ら(・)わかってござろう」


 左近は蔵人が義元の甥だということを知っている。

 それが、身の回りの護衛をするということだ。

 護衛対象の義元のことについて、秘せられているところも、わきまえている。

 ……たとえそれが、義元自身の、しかも感情の深いところに触れる、身(・)の(・)上(・)だったとしても。


「……その、武衛さまの放言、義元さまには」


「幸いにもお寝(やす)みでござった。聞こえておらん」


 武衛とは、代々兵衛府の官職を名乗る斯波家当主の別称である。

 そして左近は義元が寝入ってから寝ることを身上としており、左近が寝ようとした時に、義銀が闖入(ちんにゅう)してきたという次第である。


「とにかく、蔵人どの」


「……承知つかまつった。もう、武衛さまを義元さまには近づけさせませぬ」


 また義銀が放言した時が、それを義元が聞いた時が、両者の決裂の時だ。

 それは避けねばならぬ。

 義元の尾張入りは、積年の大望(たいもう)であり、大略(たいりゃく)である。

 今さら止められぬ。


「……武衛さまには、それがしが日中、百舌鳥狩(もずがり)にでも誘いましょう。さすれば夜にはお疲れになる」


「ほう。百舌鳥狩とは珍しい」


「父が好きだったもので……」


 こうして斯波義銀ら尾張衆は、行軍から離れて百舌鳥狩に興ずることになった。

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