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53 浮野の戦い 前編

 駿河。

 藤枝。

 そ(・)の(・)屋(・)敷(・)に、尾張で津々木蔵人と呼ばれた者は来ていた。

 屋敷には百舌鳥(もず)狩(がり)用の百舌鳥の鳥小屋があった。

 蔵人はその簡素な屋敷に挨拶も告げずに入り、ずかずかと奥の間まで進んだ。

 進んだ先に。

 一人の男が、床に臥(ふ)せっていた。


「父上」


 父上と呼ばれた男は返事をしない。いや、返事ができないくらいに弱っていた。

 舌打ちをする蔵人。

 だがそれをとがめる者がいた。


「よしたがいい、蔵人。お父上の体に障(さわ)るぞ」


「……これはご無礼を」


 水の入った桶を持って、奥から出て来たのは今川義元だった。

 蔵人は桶を受け取って、父親の額におかれた布を濡らし、しぼり、そしてまた額の上に置いた。


「……それで」


 義元はそれだけ聞いた。

 蔵人も心得たもので、淡々と織田信行の「末路」とその際の脱出を語った。


「……以上により、織田信長をある程度立(・)ち(・)往(・)生(・)させることはできましたが、それだけでござりまする、伯(・)父(・)上(・)」


「そうか」


 伯父と呼ばれた義元は、ふと、床に臥せる弟を――今川氏豊を見た。

 今川氏豊。

 かつて、尾張那古野城の城主にして、今川義元の弟である。

 寺に入れられた義元とちがって、「生まれが良い」との理由で、那古野城の城主に据えられた。ただし、その後、織田信秀という英雄にその城を狙われ、盗られている。

 信秀は氏豊を追放するにとどめた。氏豊は恥じたのか、駿河には戻らず、京へ上った。母の生まれである公家を頼ったのだ。

 しかし当時の――戦国時代の公家の財力など、知れたものである。

 氏豊は氏豊で、母の実家の厚意に甘んじることなく、幕府の役人や他の公家の知人に百舌鳥狩や連歌を教えるなどして、口に糊したが――それも限界を迎えた。


「――やむを得ん。駿河に帰ろう」


 当時、氏豊の妻は身ごもっており、貧窮のままでは、母子ともに危ういと思ったのだ。

 こうして、天文五年、氏豊は身重の妻を伴って、駿河への帰途についた。

 ただし、当時の駿河は戦乱――花倉の乱という、今川家三男・今川良真(いまがわながさね)と四男・今川義元の家督争いの真っ最中であった(長男と次男は死亡している。そのための家督争い)。

 末弟の氏豊は何も考えずに、三男・良真の方を頼ってしまう。これは、良真の祖父である福島越前守(くしまえちぜんのかみ)(つまり良真から見て外戚(がいせき))が遠江に勢力を張っていたことが大きい。

 その時、良真は義元によって追い込まれており、末弟と名乗る氏豊の登場に、何かの策略かと疑い、迎え入れるふ(・)り(・)をして、毒殺を試みた。


「氏豊? 氏豊!」


 義元が良真の居城・花倉城を落とした時、昏倒した氏豊と、その横で泣きわめく氏豊の妻を発見した。

 氏豊は口がき(・)け(・)な(・)い(・)、動けない……そういう状態になっていた。

 氏豊の妻は絶望し、蔵人を生んでそのまま死んでしまう。


「……その節は、伯父上に感謝しております」


「何の、兄として弟を助けられなかったは、予の不徳。礼には及ばぬ」


 義元は氏豊を藤枝に移し、家僕等を置いて世話をさせた。

 残された子である蔵人は、義元の師である太原雪斎に預け、「将来はその子の望むままに。なりたいものになるようにしてくれ」と頼んだ。

 雪斎としては僧侶として育てようと思っていたが、ある日、蔵人の前に「亡霊」が現れた。

 その「亡霊」の名は福島越前守(くしまえちぜんのかみ)といった。

 実際には越前守は生きており、彼は「亡霊」を名乗って言葉巧みに蔵人を扇動した。

 いわく、蔵人の父・氏豊は本来、尾張那古野城主である。

 いわく、城を取り戻せば、今川家の一門衆へと舞い戻れる。

 いわく、氏豊に毒を盛ったのは伯父の……。


「喝!」


 雪斎が気づき、越前守は捕らえられたが、その呪詛は残った。蔵人の為人(ひととなり)に。

 ならば仕方あるまいと、雪斎は蔵人に謀略を教えた。義元もちょうど、尾張への大望を抱いていたため、蔵人につきあってもらうことにして、蔵人自身の「望むままに」、尾張へと潜入させた。


 そして今に至る――


*


「わが父は不心得者にございます。城を奪われた時、京に上らずに、駿河に戻れば……花倉の乱で、あのような不覚を取らずに済んだものを……いえ、むしろ城を奪われたこと自体が……」


「もうよい」


 その津々木蔵人の言葉は、実は今川義元にとっては「繰(く)り言(ごと)」である。

 蔵人はことあるごとにそれを言いつのり、義元が駿府にて政(まつりごと)なりい(・)く(・)さ(・)なりに務めるように言っても、「父の不心得を何とかしてから」と答えてくる。

 義元としては息子の氏真の側にでも仕えるか、あるいは松平元康のように将として活躍して欲しいのだが、蔵人の本来の性質ゆえか、このような陰謀家めいた真似をしている。

 だがそれももう終(しま)いかと思い、義元が駿府へ共に行くかというと、こう返してきた。


「まだです。まだでございます。以前に伯父上がおっしゃったように、織田の信長めは鉄砲が厄介。ゆえに、信長の鉄砲の師である、橋本一巴(はしもといっぱ)めをど(・)う(・)に(・)か(・)いたします」


 そういえば、以前に村木砦の戦いがあった時に、信長の「三段撃ち」の策を知り、厄介だなと零(こぼ)したことがあった。

 蔵人は律義にもそれを覚えていて、「対策」を打ったという。


「……しかれども蔵人よ」


「何でございましょう、伯父上」


「そ(・)れ(・)については、策を考えてある」


「さようでございますか?」


 蔵人はまた、何かの陰謀を聞かせてもらえる、教えてもらえるといったような表情をしてきた。

 これだ。

 これだから、この男は将には向かん。

 せめて、政(まつりごと)に……。

 そう思ったが、義元は首を振った。

 そのど(・)ち(・)ら(・)に(・)も(・)向かないと認めた氏真は、「なら向(・)く(・)方(・)にお任せします」と答えた。

 この男も、そういう発想を持たねば。


「……蔵人よ」


「はい」


「予の策を知りたいか」


「はい」


「……なら、その橋本一巴を斃す策とやら、己が立ち会ってみよ。そして帰って来た時に……教えてやろう」


「ありがたき幸せ」


 蔵人は父・氏豊に一瞥をくれると、早々に旅立っていった。

 あとに残された義元は、床に臥したままの弟に言った。


「せめて……い(・)く(・)さ(・)の場に身を置けば……多少は考えが変わるやもしれぬな……氏豊よ」


 床の氏豊は相変わらず返事をしないが、わずかにうなずいたような気がした。


*


 ……織田信長は行軍している。

 まだ、織田信行の「死」から、ほんのわずかな月日しか経っていない。

 そういう状況下で、岩倉織田家・織田信賢と、織田弾正忠家・織田信長の決戦、「浮野の戦い」が始まる。

 事実上の尾張統一戦であり、このい(・)く(・)さ(・)を制した者が、尾張の覇者と言えた。

 そしてこれまで、どちらかというと防衛というか「受け身」であった信長の戦いに比して、今回の戦いは岩倉織田家の内紛に乗じるという、積極性があった。


「……攻めねばならん」


 時を与えては、美濃の一色義龍が地固めを終えて、援軍を送ってくるかもしれない。

 そしてまた、三河の混乱――三河忩劇(みかわそうげき)を制した今川義元が、それこそ援軍ではなく自ら大軍を率いてやってくるかもしれない。


「せっかくの義父上(ちちうえ)の置き土産……これを活かすには、まずはこのい(・)く(・)さ(・)を制する」


 その義父――斎藤道三の置き土産、すなわち国譲り状の真(・)の(・)意(・)味(・)に気づいた信長は、同じくそれを理解した帰蝶と木綿藤吉に、蜂須賀小六を加えて、それへの「対策」を考えさせていた。

 そして自らは岩倉織田家を制さんと行軍している。


「だがまだ足りぬ。濃(帰蝶)と藤吉、そして小六だけでは……」


「お? 織田の殿サンやないか?」


 軽みのある関西弁。

 飄々とした態度。

 信長がふと目を上げると、少し離れたところで「おーい」と手を振る明智十兵衛の姿があった。


「じゅっ……十兵衛どの!」


「おわっ、何やその怪体(けったい)な声。そないな大きい声出さんでも、聞こえるわい」


 わざとらしく渋面を作る十兵衛に、思わず信長は笑ってしまった。

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