第35話:筋肉の向こう側、そして保険の行方
「ハァッ……ハァッ……! 師匠! 胸筋が、胸筋が喋りかけてきます! 『もっと負荷をくれ』って、俺の心臓より大きな声で叫んでるんです!」
学園の裏庭。全身から湯気を立ち昇らせ、一生懸命巨岩を担ごうとしているアリオスがいた。
元より勇者としての資質は努力の証。適性がないトレーニングでも真剣に向き合っていあ。
その瞳は濁り、しかし生命力の光に満ち溢れている。
「いいぞアリオス! 筋肉の声は魂の声だ! その叫びを聞き漏らすな!」
俺は腕組みをしながら、はち切れそうな大胸筋を誇らしげに揺らした。
勇者のバルクアップは順調だ。これで魔王が現れても、アリオスがワンパンで沈めてくれるに違いない。俺の隠居ライフはもう目の前だ。
「……ねぇ、ディエス様。ちょっといいですか」
背後から、極低温の氷を背筋に滑り込ませたような声がした。
振り向くと、従者のリナが、黒髪を逆立てんばかりの形相で立っていた。
彼女の手には、アリオスが先ほど「勢い余って」引きちぎった学園の鉄柵の請求書が握られている。
「はい、何かなリナ。俺の広背筋に何か付いているか?」
「付いているのは筋肉じゃなくて、膨大な損害賠償の山ですよ!! 貴方、前に『勇者を育てて将来を任せる保険にする』とか言ってましたけど、本気ですか!? あの純朴だった少年が、今や岩を担いで咆哮するだけの『人型ゴリラ』に変貌してますけど、これで本当に世界が救えるんですか!?」
リナが持つペンが、あまりの怒りにパキリと音を立てた。
「ガハハ! 何を言う。最強の武力こそが最大の抑止力だ。アリオスが筋肉の頂点に立てば、誰も争いなんて起こさなくなる。それが俺の考える平和維持だ!」
「維持じゃなくて更地にしてるだけでしょうが! 大体、聖女のクレアさんを見てください! さっきからずっと『アリオスくんが、なんだか四角くなった……』って震えながら祈ってるじゃないですか!」
見れば、クレアが噴水の陰でガタガタと震えながら、見たこともない複雑な神聖術式を展開していた。恐らく、アリオスの肥大化した筋肉を「腫瘍か何か」と勘違いして治療しようとしているのだろう。
「……ディエス様……。リナ、うるさい。……アリオスの大円筋……いい仕上がり。……私も、将来、安泰……」
横でエルザが、俺の二の腕に頬を寄せながら、うっとりとアリオスの訓練強度を記録していた。
「エルザさんまで諦めないで! ディエス様、もう一度聞きます。本当に、あの『筋肉の声が聞こえる』とか言い出した少年で、貴方のスローライフは守れるんですか!?」
リナの切実な問いに、俺はアリオスが岩を放り投げ、雄叫びと共にラットプルダウンを(何もない空間で)始める姿を見た。
「……リナ、安心しろ。筋肉は裏切らねぇ。だが……」
「だが?」
「もしあいつがダメでも、俺の隣には世界一の魔法を持つお前と、最強の剣を持つエルザがいる。これ以上の『保険』がどこにある?」
俺が分厚い手のひらでリナの頭をガシガシと撫でると、彼女は一瞬で顔を真っ赤にし、噴火した。
「なっ……! そ、そういうデリカシーのない物理攻撃はやめてくださいって言ってるでしょ! もう! 勇者の教育も、この後の始末も、全部私に丸投げする気なんだから!!」
リナは文句を言いながらも、アリオスの壊した地面を魔法で修復し始めた。
俺はそんな彼女の背中を見ながら、やはり「筋肉」と「信頼できる従者」こそが最高の資産だと確信するのであった。




