白い廊下と黒い噂
から揚げ——それはただの揚げ物ではない。
この施設では、栄誉の象徴。勝者だけが口にできる夢の味。
そして僕は、その“夢”を逃した。
落ちた順位、深夜面会、不安定な地位。
「次は、から揚げをもらえる子になるんだ」
けれど、それは感情を捨てるということ。
黒い噂が流れる白い廊下を、今日も僕は歩く。
## 第二章:白い廊下と黒い噂
『もし我慢していたら、から揚げがもらえました』
あの言葉が、繰り返し頭にこだまする。から揚げ。それはただの揚げ物じゃない。ここでは栄誉の象徴。存在そのものが報酬であり、勝者の証だ。しかも12歳以上じゃないと食べられない。五歳で食べられるなんて偉業だよ!
僕はそれを逃した! 成績は下がり、昼組の枠を失い、深夜面会という落第通知を受けた。
なんて失態!
こんなときに、廊下を全速力で走り回ると気持ちいいんだろうな…………ああ、廊下を走る子どもってこんな感覚なのかな?
朝のチャイムと同時に部屋の全員が起床。僕は30秒で服を着ていた。ベッドを素早く整え、誰より早く廊下の水道に早足で向かう。僕が顔を洗っている間に、ここが人だかりになって待たなきゃいけなくなる。顔を洗って、積み上げられているプラスチックのコップに水を一杯汲む。流し台のそばのドアから外に出て、中庭で歯磨き。中庭の水道でうがいをして、コップをカゴに置く。部屋に戻り、手鏡で髪を整え、服を確認して、教室への廊下に出る。廊下のフットランプがまだぼんやりと灯っている時間帯。
誰もいない廊下は、広い。
誰より早く教室に向かい、一番前のデスクにかける。授業の用意をして、昨日の復習をしていると、どんどん子どもたちが入ってくる。席順は決まっていないので、着席は早い者順。なのに、わざわざ一番うしろの席に座る子どもがいる。前が空いているのに。
以前、検査時間がズレたために授業に遅刻したことがあった。後ろの方の席に座らざるを得なかったけど、先生の声が凄く聞こえづらかった。黒板も遠い。子どもの席は階段状になっているとはいえ、ノートを取るのも大変な距離。
教室の階段は30段ぐらいあるのかな? いつも一番前に座るから考えたことなかったな。
この席、授業を受けていることになるのか?
周りの子どもたちも隣とひそひそ話していたり、俯いて……あれ、寝てるだろ?
頭、頭、頭、坊主頭の後頭部の向こうに教卓と先生と黒板。
最前列にいると、先生の声しか聞こえないけど、ここは、ひそひそ声のほうが大きい。授業に集中なんてできるわけがない。
その日も明は一番うしろの窓側の席に座っていた。
窓を見てる? なぜ?
明のやることは本当にわからない。
でも、理解する必要はない。彼は最下位なのだから。
民主主義では少数意見も大事にするけど、絶対多数の絶対幸福。少数意見は聞くけど、無視。
ここでは、成績が良いことが最大幸福なのだから、成績が悪いやつに関わる必要はない。
ああそうだ。
関わる必要がないから、突き飛ばす必要もなかったんだ。
僕が、明に「なにかしてやる」必要なんて無いんだから。
でも、明の一撃で僕が死ぬぐらい、彼が強かったら?
だから、突き飛ばすのではなく「逃げる」なんだよ。明の拳を避ける。それでいいんだ。そうだ、「あの場から逃げる」と考えたから「廊下を走るのは違反」がでてくるんだ。「明の暴力からだけ逃げる」なら、殴ったり蹴ったりしてくるその攻撃だけを良ければいい。立ち去る必要はないんだ。だから、走ることもない。
だから、次に似たようなことがあるなら、…………相手の攻撃を考える。その攻撃の矛先から最小限の動きで逃げるための、僕の動作を考える。
これだな。
うっかり走って、階段から転げ落ちるとか、他の人にぶつかるとかの危険性が確実に下がる。だって、「今僕が立っている足場」は頑丈なのだから。
授業が終わって廊下に出る。次の教室に最短で最速で歩く。向こうからも似たようなのが来た。
カツヤだ。僕より少し背が高くて、口数が少ない。
彼も、僕と同じように、先に先に先に動いて、待機時間を極力カットしている。
「先に発生する待機時間」ほど無駄なものはない。
例えば、水道へ群がる群れ。先に水道にたどり着けばすぐに水道を離れられる。そして、先に教室に入れば、席を自分で決められる。教室での待機時間は「あとに発生する待機時間」だ。これは読書ができる。でも水道の待機時間は読書なんてできない。同じ20分の待機時間でも、あとにするか先にするかで勉強時間が20分も増える。
カツヤの成績は僕のすぐ下。
前期の成績公開で二番だった。
彼は僕をちらっと見ただけで、すぐ前を向いた。
前は会釈してくれていたのに。
……もう、僕のほうが下だと思ってる。
咄嗟に拳を握っていた自分を感じて深呼吸した。ゆっくりと手のひらを開閉しながら歩く。
明と同じ轍は踏まない。
今度は、我慢。
絶対、感情で動いちゃいけない。
…………あれ? 僕は今、カツヤを殴ろうと思ったの?
ああ、そう。
緊張したんだ。
順位が下がったことをカツヤの態度で突きつけられて、緊張したんだ。
カツヤの無言が突きつける“敗北”。
次第に清麻呂の中で芽生えるのは、焦りか、怒りか、それとも……恐怖か。
「感情制御」が求められる世界で、「殴りたくなる気持ち」とどう向き合うのか。
次回、揺れる心の行き着く先に、新たな試練が待ち受ける。