第一章:千人の子と一人の母 後編
清麻呂、5歳。夢は“文官”になること。
なぜなら、文官は「お母さん」に褒められる“最高のいい子”だから。
成績は常にトップ。模範的な態度。優等生の鑑。
——だが、ある夜、深夜2時の面会指令が届く。
それは“ご褒美”ではなく、世界のバグが始まる合図だった。
甘く優しい母性の仮面の下に潜む、制御された教育と支配。
君はまだ、「優しさが何か」を知らない。
# ## 第一章:千人の子と一人の母 後編
僕は反射的に笑顔を作った。この顔が僕の武器。過去にそれで三回、昇格した実績がある。
大人に会ったら笑顔で会釈。
大人に廊下の真ん中を譲る。
大人に声をかけられたら元気に「はい」と返事して、まっすぐ大人の顔を見てニコッと笑う。
逃げない、隠れない、どもらない。
ただそれだけなのに、できない子どもが多い。
大人に声をかけられると緊張するんだって。怖いんだって。そりゃそうだろうな。成績がそれだけ悪ければ、叱られてばかりだから大人は怖いよな。
成績が良ければ、大人は俺の味方。
成績を上げればいいのに、勉強もせずぼんやりしてる。退屈だと喚いている。意味がわからない。
お母さんが僕の頬に触れてくれた。指先、温かい。
「今週もいい子にしていましたね。算数のテストでトップをとりましたね。お絵描きも優秀賞でしたね。席を譲ったり、お友達に道具を揃えてあげたり……なんて優しい、いい子でしょう。清麻呂くんは私の自慢の息子ですよ」
お母さんの手が僕の頭を撫でる。温かくてふわふわして、まるで布団の中に顔をうずめたみたいな感触。きっと、雲の上に乗ったらこんな感じ。しあわせ。
「でもね、明くんと喧嘩をしましたね?」
「あれは、明が殴りかかってきたんだよ。僕は殴り返してません」
「ええ、殴り返さなかったあなたは素晴らしいわ。でも、突き飛ばしてしまったのですね。明くんは壁にぶつかって怪我をしました」
「……怖かったんです…………殺されると思ったから…………」
こう言えば、きっと、抱きしめてもらえる。ほら…………ギュッとして、頭を撫でてくれた。
あたたかい……
でも本当に、あのとき、怖かったんだ。殺されるって、思ったんだ。
だって僕は悪くない。廊下の右側を歩いていたら、走ってきたアキラが大人に注意されて振り返って、その腕がぼくに当たったんだ。「痛い!」と僕は大きな声を出した。だって、そこに大人がいたから。僕は百%被害者です! 守ってください! そう、思った。
廊下を走るだけでも厳罰なのに、その上に僕を殴ったように見えただろう。もともと、ナニカうるさいと思ったら彼が怒鳴っていることがよくあった。成績も最下位争いをしていると噂で聞いたことがあった。
「てめぇ! 清麻呂! そんな痛いわけあるか! いつもいつもすかしやがって! 大人の犬が!」
アキラが、右手を振り上げた。その先で、手のひらが拳に……
え?
僕を殴る?
どうして?
彼と喋ったこともないのに、今僕がぶつかられたのに、どうして僕が殴られるの?
絶対痛い。痛いよね?
「やめて!」
叫んだ瞬間、僕は両手を伸ばしていた。
僕ってこんな早く動けるんだな、と驚いたよ。
アキラが、僕の手に突き飛ばされて向こうに吹っ飛んだのは、見た。
壁にぶつかって、倒れた。
頭がぶつかった壁に、赤い飛沫。
床に倒れたアキラの頭の下から、赤い……液体が……
「子どもが二人倒れてる! 担架! 早く!」
大人の声が聞こえていた。倒れたのアキラだけのハズなのに………………あれ? 太もものうらが、冷たい…………そうか、僕も倒れてるのか……
闇だ。
気づいたら、医療室のベッドだった。
たくさん検査をして、僕の部屋に帰ってきたのは3日後だ。どれだけ授業をサボったことになるのだろう。うんざりする。宿題が山積みされていたのですぐ片付けた。
その翌日の夜が、今だ。
検査をする大人は子どもと喋らない。そもそも、大人は顔にマスクをつけているから顔が見えない。個体識別はネームプレートと体格だけ。何も状況を聞けていない。
大人で顔が見えるのはお母さんだけ。
優しいお母さんだけ。
アキラはどうなったんだろう?
ふっかりしていたお母さんから体をゆっくりと押し離された。もっと抱いていてほしいのに。
「もし我慢していたら、から揚げがもらえました」
えっ。
「から揚げ!? まだ僕、食べたことないです!」
僕は大きな声を出してしまった。嘘だろ!
から揚げは夢の食べ物。食堂で年に数回、12歳を過ぎたトップランカーだけがもらえる伝説のメニュー。僕の年齢でも貰えたの?!
「我慢した子供にはちゃんとご褒美がありますよ」
そうか。
怖いのを我慢せずに突き飛ばした、からか……
我慢できなかった僕は、ご褒美を逃したんだ。罰は受けなかったけれど、順位は下がった。から揚げは食べられなかった。成績表の『感情制御』の欄に、きっと赤いチェックが付いている。
でも、あの恐怖を抑えるなんて………………次は、頑張ろう。貝になれ。頭を覆ってうずくまればいいんだ。でも、大人がいなければ、暴力を受け放題になる。逃げると廊下を走ることになる。ソレはそれで罰則があるし……最初の一回蹴られただけで、重症になる可能性だってある。
あの時のアキラみたいに……
ああ、そうか。
「下がる」でいいんだ。
歩く速度で距離を取れば、走ったことにはならないし、逃げてることにもなる。でも、アキラが走ってきたら殴られるのは変わりない。でも、抵抗したり、殴り返したり、走って逃げるより、マシ……だろう。子どもが問題を起こすと、二分以内に大人が走ってくる。その二分、殺されるほどの暴力を受けなければいいんだ。
「アキラくんはどうなったの?」
「一か月、私と会えません。今は入院しています。退院したら再教育ですね。以前とは違うアキラくんになっているかもしれません」
おおっ! ちゃんと罰は与えられていたんだ。ざまあみろ。
いやいや、僕も一歩間違えば、同じ場所に行っていたかもしれない。我慢だ、絶えるんだ、逃げるんだ。暴力がわに回ってはいけない。
「アキラくんかわいそうっ! 僕、仲よくするよ! お母さんに会えなくなるなんて、いやだ!」
お母さんが僕をまた抱きしめてくれる。さっきより強く。アキラにぶつかられた右肩も、じんわり温かくなって、痛くなくなる。
「あなたはとてもいい子です、清麻呂くん。来年の進級テストに合格すれば、文官学校に行けるでしょう」
「文官学校! 『エリート中のエリート』ですよね!」
夢にまで見た言葉。そうだ、僕のゴールはそこ。文官になって、お母さんを“独占”できる身分になること。そうすれば、他の誰かの匂いがする『お母さん』じゃなくて、本当に“僕だけの”お母さんが手に入るかもしれない。
「この施設には一万人ほどの子供たちがいます。その中で、文官学校に行けるのは、今年は52人。とても特別なことです」
「トクベツ! イイコト! イイコト大事!」
「その通り。イイコトが大事ですね。来週も、あなたのいいことをたくさん聞かせてくださいね? 清麻呂くん」
「はいっ!」
額にお母さんがキスをしてくれた。
面会が終わる合図。
お母さんからゆっくり離れて、一例。
ドアを振り返ると、空いてない。いつもはもう、次の子供が入ってくるのに。
もっとここにいたい。
でも、きっと、それは「違反行為」だ。
ドアまでの数メートルが、まるで永遠のように感じる。振り返るとお母さんがどんどん遠くある。
白くて、あたたかくて、甘くて、安心できるこの部屋を離れたくない。でも、僕の時間は終わった。
「言う事を聞く子ども」でないと、お母さんと会えない。
ドアを開けると、夜の冷気が頬を過ぎた。ずっと空けてるとお母さんが寒い。だから、廊下には誰も居ないのに、ドアを閉めた。
クッキーの香りは消え、代わりに廊下のホコリ臭さが鼻につく。
桜が窓の外で揺れていた。『次の子』が走ってくる。
夜中だから寝過ごしたんだ。
お母さんとの面会を寝過ごすなんて、なんて子どもだろう。僕は会釈したけど、彼女はドアだけ見て無視された。
僕のターンは、終わった。
足元ランプをたどって、廊下を戻る。三角座りしてうたた寝している子が二人。
さっきはいなかったのに……夜の面会とは言え、僕が一番先だったのかな?
彼らは僕と違って成績が悪くて、昼間に会えない子たち。彼らに抜かれないように、もっとがんばらなくちゃいけない。
いや、とにかく今は寝よう。早く寝ないと明日の朝、起きられない。朝起きられないと成績が下がる。よく眠れないと頭がぼんやりして成績が下がる。成績が下がると夜組にさせられる! 僕は昼組だ! 一生、昼組なんだ!
昼組。光の時間。から揚げ。文官。お母さん。
どれもこれも、僕の未来だ。
絶対に手放さない。
その晩、眠りは浅かった。何度も目を覚ましては、天井の暗がりを見上げ、また目を閉じる。布団の中は暖かいけれど、喉の奥には冷たい風が吹いていた。金属を舌の上でしゃぶっているように気持ち悪い。
から揚げ一つにすら「従順さ」を問われる世界。
清麻呂は、“イイコ”であることの正体に、少しずつ気づき始める。
次回、順位を守るための「本当の戦い」が始まる。
夢の文官学校、その先に待つのは……?
どうぞ、続きをお楽しみに。




