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検索では香りは届かない

作者: リセ

都会のコーヒーで社会に出たばかりの青年がさり気なく出会う物語、彼はネットネイティブの青年が、現代社会の人と街とどう付き合うか、果たして現代ツールは完璧なのか?そしてこれは淡い恋と呼ぶのか?

「古いガジェット」


雨が降りしきる夕方、喧騒の街並み、足早な人達。

彼はまだ社会の荒波に揉まれ始めたばかりの青年。真新しいリクルートスーツに身を包み、紺のネクタイを締め、少しばかり自由になったお金で、大人の世界をそっと覗き見ている。メンズショップを冷やかしたり、DOUTOR COFFEEで一息ついたりするのが、最近の彼のささやかな楽しみだった。

いつものようにDOUTOR COFFEEのカウンター席に座ると、視界の端にアナログな世界が飛び込んできた。分厚い手帳に、さらに別の手帳を差し込み、そこかしこからメモや付箋が顔を覗かせている。使い込まれた鉛筆とボールペンが、無造作に机の上に転がっていた。

(今時、こんなアナログ人間がいるんだ!)

思わず顔を上げると、印象的なタレ目が彼を捉えた。目尻には、涙のように物憂げなホクロ。への字に結ばれた口元、顎に添えられた手、そしてストローを指先で弄ぶ仕草。目が合った瞬間、彼女はハッとしたように姿勢を正した。

それ以来、彼は何度もそのカフェに通うようになった。正直に言えば、彼女がいる時間帯を狙って。

女性の造形に心を奪われたのは初めてだった。もしかしてワンレンだろうか?優美な眉、優しげな眼差し、そして何よりもあのタレ目!目尻の泣きボクロが、彼女の憂いを帯びた美しさを際立たせている。ナチュラルメイクに、鮮やかな紅い口紅がよく似合う。会うたびに変わる彼女の装いは、まるで別世界の住人のようだ(自分とは全く違う)。年齢は…見当もつかない(おそらく年上だろう)。彼女はいつもカウンターの隅で、静かにコーヒーを飲んでいる。

彼は、彼女の見える場所に席を取ったり、思い切って隣のカウンターに座ってみたり、三つ隣、二つ隣へと、少しずつ距離を縮めてみる。カフェ・ラテを啜りながら、携帯でSNSを眺めるふりをして、彼女の姿をそっと盗み見た。

彼女を見つめる日々は、いつしか彼の中に、罪悪感にも似た、複雑な感情を育てていた。(もう、やめよう)そう決意したある日、彼は珍しく早いうちに店を訪れ、カウンター席に座った。

やがて、彼女が姿を現した。

「いらっしゃいませ」

お店の人の声に緊張が、レジ周りの空気を引き締める。

彼女はメニューを見ることもなく、淀みなく注文した。「アーモンドミルクのチャイラテ、蜂蜜で甘さ調整、カップは予熱済みで。」

店員の笑顔が、一瞬強張った。毎回違う注文をする、少し変わった常連客。

彼女は、いつもより早い時間に店にいる彼の顔を一瞥し、いつもの席に腰を下ろした。そして、まっすぐに彼に向き直り、背筋を伸ばし、両手を膝の上に置き、静かに問いかけた。「失礼だけど、私に興味ある?」

彼は狼狽した。「え!いえ、とんでもない、すいません……その、いつも違う注文だなと……。」

彼女は少し不満そうな表情で言った。「興味あるんじゃない。」

彼は翻弄され、視線が泳ぐ。「いえ、その、綺麗…いえ、その、注文が面白いなと思って、その、すいません。」

彼女は眉を下げたが、その目はどこか厳しい。「貴方はいつもカフェ・ラテね。この店には豆は6種類、炒り方3種類、抽出方法は2種類、フレーバーは4種類あるのよ。他のチェーンとは違うの。」

彼は完全にたじろいでいた。やっと話しかけられたのに、嬉しさのあまり舞い上がり、自分の知識不足を呪った。(あれ?僕の飲み物を知ってる?!)

「その、僕の定番、ご存知なのですね」と、彼は頭を掻いたが、彼女の口元が強張り、頬がほんのり赤くなるのを見逃していた。

気まずい沈黙が2人の間に落ちた。奥のレジ周りでは、銀のお盆を胸に抱えたり、背を丸めて口元をお盆で隠したりする店員たちが、こちらに注目しているのが分かった。



「待ち受け」



夕暮れの街、霧雨の街並み、足早の人達、いつものDOUTOR COFFEE、いつもの場所。

彼女との会話は、まるで知的好奇心の探求のようだった。彼がどんなキーワードを投げかけても、彼女は淀みなく答えた。「まるでチャットGPTみたいだ」と彼が屈託なく笑うと、彼女は不思議そうに眉を下げた。「何それ?」。

「そこは通じないのか!」彼は彼女の意外な一面に、ますます興味を惹かれた。

彼の携帯電話は、様々なアプリで埋め尽くされている。一方、彼女が持っているのは、Androidのハイエンドモデルでありながら、インストールされているアプリは検索、LINE、そして会議アプリだけだった。

彼女は手際よくメモを整理しながら、彼の素朴な質問に丁寧に答えてくれる。飲み終えたオリジナルのブレンドコーヒーのカップを手に、彼女はいつものように店を後にする。

指を4本だけを軽く動かす仕草、揺れる長い髪、「それじゃーね」というさりげない一言、少し膨らんだバッグ。彼が座るカウンターのすぐ後ろを通る時、微かに漂う香り。(なんだろう?香水?コロン?石鹸?ヘアスプレー?)何も特定できないけれど、どこか心地よい。いつも気さくに答えてくれる彼女は、まるで生きた百科事典のようだ。携帯でいくら調べても追いつけない情報量に、彼は内心で(あー、俺は無知だ〜)と顔を覆いたくなる。

レジで店員に軽く会釈する彼女。彼は思わず携帯のカメラを構えた。髪をかき上げ、半目で少し憂いを帯びた表情。シャッターを連写するしかなかった。(この写真は宝物……なのか?)。

彼は人見知りで、普段はあまり人と積極的に話すタイプではない。それでも、今の仕事は楽しいし、DOUTOR COFFEEに通う時間もまた、彼にとってかけがえのないものになりつつあった。

何でも調べることができ、何でも答えてくれる携帯電話。しかし、彼女はそれ以上に多くのことを教えてくれた。彼の曖昧な質問に対し、さらに問い返すことで、彼自身が見落としていた点に気づかせてくれる。

彼女は、彼の拙い話に肩を揺らしながら笑い、優しく眉を下げ、流し目を送ってくる。時折、右の口角だけを上げて、少し疑うような表情を見せる。話を聞いている間、指先でカップの縁をなぞったり、頷きながら彼の言葉に耳を傾けてくれる。(AIなんかより、ずっと人間らしい温かさがある)と、彼は心の中で叫んだ。

ところが、そんな博識な彼女も、最新のテクノロジーには疎いらしい。カフェごとに違うタブレットでの注文方法に戸惑ったり、エレベーターの押し間違えを直す方法を知らなかったりする。そんな時、彼は尊敬の眼差しを一身に浴びる。彼にとって、こんなにも饒舌に話せる相手は初めてだった。

彼は、携帯電話の待ち受け画面を、彼女がふと髪をかき上げる美しい横顔に変えた。会社の先輩に見つかり、からかわれたけれど、まだ二人の間には何も始まっていない。

日々のちょっとした疑問を調べ、DOUTOR COFFEEで彼女に話してみるのだが、彼女はそれを当然のように知っている。

昨晩、彼は必死に調べたうんちくを披露した。「DOUTOR COFFEEは、原宿に1号店を1980年にオープンしたんですよ。創業者は鳥羽博道さんなんですよ。」

彼女は、ボールペンの尻を顎に当てながら、付箋で太る手帳のiPadProの値段のリストと性能表に目を離さずに言った。「へえ、詳しいのね。原宿1号店は、間口4メートル、奥行き7メートル、9坪の小さなお店だったのね。」

彼「そ、そうなんですよ!」

彼女は続けた。「鳥羽さんは、ブラジルでコーヒー栽培を学んで、1962年にドトールコーヒーを創業したのよ。偉いわよね。ブラジルのコーヒーは、最初はエチオピア産だと言われているは。19世紀には、日本人の移民団が頑張って農地を開拓したの。当時の苦労は計り知れないわね。」

彼「あー、うー、そう……なんですか」と、ただカフェ・ラテを飲むばかりだった。

彼女は決して知識をひけらかすわけではない。ただ、話し出すと止まらないらしい。それでも、彼が疑問を持つこと、知ろうとすることの姿勢を凄く褒めてくれた。

さらに彼女は、彼の疑問に対して、その背景にある歴史や文化まで丁寧に説明してくれる。話しすぎたと気づくと、少し顔を赤らめ、俯いて「ごめんね、関係なかったわね」と謝る。そんな時、彼は何度も彼女の手に触れたいという衝動を抑えるのに必死だった。

彼女は再びメモの整理を始め、時折、空気を変えるみたいに小さく肩をすくめ、目をぎゅっと瞑ってから、いたずらっぽく笑った。「あれ?何か聞きたいことあるの?」パッと明るい笑顔を彼に向けた。

その時、机の上の彼の携帯電話がLINEの着信を知らせ、画面が灯った。待ち受け画面には、彼女の美しい横顔。彼は慌てて両手で携帯を覆い隠した。

彼女は左の眉を少し上げ、「LINE……確認しないの?」と問いかけた。

彼は冷や汗をかきながら、「別に業務連絡だし、大丈夫なんです」と答えるのが精一杯だった。

彼女は何も言わず、じっと彼を見つめている。

彼はしどろもどろで質問を試みるが、頭の中は真っ白で、何も覚えていなかった。

彼女は飲み終えたオリジナルのブレンドコーヒーのカップを手に取ると、いつものように「それじゃーね」と軽く手を上げて出口に向かう。

別れ際、彼は思わず立ち上がり、「また会いたいです」と頭を下げた。それは、社交辞令のように聞こえたかもしれない。

彼女は少し首を傾げ、「こんなおばさんに?いいけど、待ち受けの設定の仕方教えてね」とクスクス笑った。

(やはり、見られていた……)

(彼女は少し嬉しかった。足取りが軽い。可愛い彼が、私を待ち受けにするなんて、照れちゃうな)心のどこかが、じんわりと温かくなるのを感じていた。



「データー更新」


雨上がりの夕暮れ、濡れた路面が夕焼けを反射して、どこか暖かく感じられる。街の喧騒も、今日は少しばかり緩やかだ。

DOUTOR COFFEEのいつものカウンター席。彼女は一人、ダブルエスプレッソを静かに飲んでいる。まだカップに残るクレマが、時間の経過を物語る。入店する客一人ひとりに視線を向け、確認すると、再び開かれることのない手帳へと目を落とす。

「いらっしゃいませー」店員の明るい声が響く。

彼が店のドアを潜るのを確認すると、それまで無表情だった彼女の瞳に、微かな光が灯った。

だいぶ飲み進んだエスプレッソのカップを傾けながら、彼女は店員に指を4本だけ動かすいつもの仕草で告げた。「オリジナルブレンド、浅煎りで。」

いつもは一杯のコーヒーを飲み終えると店を出る彼女が、今日はもう一杯、オリジナルのコーヒーを注文した。そして、薄いハンドバッグを手に、席を立ってトイレへと向かった。

いつもの場所に彼女の姿が見当たらない。「今日は遅れたかな?もう帰ってしまっただろうか?せっかく、今の為替の話題を勉強してきたのに」彼は少し落胆した。

しかし、いつもの場所に彼女の独特の手帳と口の付いていないコーヒーが置かれているのを見つけ、彼は安堵の息をついた。彼女の二つ隣の席に腰を下ろし、カフェ・ラテと携帯電話を手に取った。

数分後、彼女は彼の後ろ姿を確認しながら、そっと席に戻ってきた。口紅が綺麗に引き直されていることに、彼は全く気づいていない。

偶然を装い、彼は落ち着いた声で話しかけた。「為替問題って、一体何が問題なんですかね?」挨拶もそこそこに、彼は一方的に話し始めた。

彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐににこりと笑い、彼の質問に丁寧に答えていく。

どうやら彼は、トランプ大統領に関する話題を持ち出したかったらしい。しかし彼女は、一人の政治家の頭の中身には、あまり興味を示さなかった。

やがて話題は日本の歴史へと移っていく。1859年の金銀交換比率の不公平さ、諸外国との軍事力の差、そして日本人の粘り強い努力。彼女は、淀みなく彼に語った。

小村寿太郎や陸奥宗光といった歴史上の人物の名前が、彼女の口からポンポンと飛び出し、彼はただ圧倒されるばかりだった。

彼は、自分がトランプ問題について多少の知識があるという顔をするつもりだったらしいが、結局口を開く機会さえなかった。

「ちなみに、日本で『為替』という言葉が生まれたのは鎌倉時代よ。世界の為替、つまり『Exchange』は諸説あって、調べると面白いわ。古代バビロニアとか8世紀という話もあるけど、13世紀に北イタリアがもっと近い形になるわね……あー、ごめん、喋りすぎた。こんな話をするつもりじゃなかったんだけど……」と、今度は右手で口元を抑え、目を丸くしている。

彼女は、反省の表情から一転して明るい笑顔になり、「それより、貴方の携帯の待ち受けの写真、変えてよ。あれは酷いわ、盗撮ー?アハハハ」と、大きな口を開けて笑った。

(可愛い人だなー。何の屈託もなく僕に話してくれる。最新ニュースには、あまり興味がないみたいだけど)

彼女はわざわざ自撮りの写真を用意してきていたが、データの受け渡し方法が分からなかった。

真ん中に一つ席を空けたものだから、二人は自然と体を傾け、寄り添うようにしてお互いの携帯電話の画面を覗き込んだ。彼の説明を聞きながら、彼女は操作を進めていく。

優しい香りが漂う中、携帯電話の光に照らされたお互いの顔。

まるで何か偉大な発見をしたかのように、二人の瞳はキラキラと輝き、口角が上がっている。

奥のカウンターでは、店員たちが銀のお盆で口元を隠しながら、ひそひそと噂話をしていた。

データ転送と待ち受け画面の設定方法を解説すると、彼女は上目遣いで彼の顔を見上げた。「彼女の知識には敵わないのに、こんなことには可愛い顔で頷いて、学ぼうとする姿勢はいつも感心させられる」彼は、ひどく照れていた。

彼の携帯電話の待ち受け画面は、彼女のお洒落をした全身写真。彼女の携帯電話に、胸元で小さくピースサインをする手と、いつもの手帳が写っている。優しい目尻、泣きボクロ、真っ赤な口紅、そして一度も見たことのないワンピースに、サンダルのようなヒールまで、完璧にフレームに収まっている。(こんな些細な、お金のかからない自撮りが、僕にとっての宝物なんだ……)

彼は思わず、「花王のフレグランスソープですよね」と、携帯電話の画面を見つめながら口を滑らせた。深い意味はなかった。

彼女は目を丸くして驚き、しばらく何も言わなかった。そしてようやく、「……残念、ラ・メゾン・ド・サボン・ド・マルセイユの石鹸よ……調べたんだー、私のこと、気になるのよね」と、彼の顔を覗き込んできた。

「ち、違いますよー、ただ、いい香りだから」と、彼は慌てて顔を背けてしまった。

(待ち受けの写真が私なのに、無理があるでしょ)彼女は優越感に浸り、自分の顔が緩んでいることに気づいていない。

コーヒーも飲み終え、目的も果たした。今日は二人揃って店を出る。出口で彼女は、地面を踵で軽く蹴りながら、「お教えて欲しいの」と言い出した。

「iPad Pro買ったんだけど、私、Androidしか使ったことなくて、最初からつまずいちゃって……教えてくれる?」と、髪をかき上げ、目線だけを彼に投げかけてくる。

「えぇー、喜んで!店も出てしまったので、公園でいいですか?」彼女のお願いなら何でも聞きたい彼。最新ガジェットの知識を見せつける絶好のチャンスに、心は躍っていた。



「暴漢」


雨上がりの佐々木広小路公園は、しっとりと濡れた空気が心地よかった。宿泊客で賑わう繁華街のすぐそばとは思えないほど静かで、等間隔に並ぶ街灯が、公園全体を優しく照らしている。先ほどまでいたDOUTOR COFFEE店よりも明るく感じられ、人通りもまばらだった。

彼の膝の上には、彼女の真新しいiPad Pro。彼女はまだホームボタンの操作に慣れていない様子で、インストールされているアプリもAndroidとは異なり、彼が簡単な操作とアプリの説明をするだけで、あっという間に時間が過ぎた。隣で、彼女は彼の膝に手を置き、熱心に頷いている。かすかに香るラ・メゾン・ド・サボン・ド・マルセイユの石鹸の香りが、彼の心をざわつかせた。もしかしたら、自分は誘われているのではないかという、淡い期待が頭をもたげ始める。

その時、繁華街の方から、不機嫌そうな顔をした酔っぱらいが、ふらつきながらこちらに近づいてくるのが見えた。

事なかれ主義の彼は、面倒なことに巻き込まれたくない一心で、酔っぱらいと目を合わせないように小さくなっていた。

泥酔した大柄なサラリーマンが、絡むように言った。「おぉ〜、こんな所でイチャつきやがって。」

頭にネクタイを巻いた痩せたサラリーマンも、呂律の回らない口で続けた。「案外可愛い女じゃん。そんな青二才ほっといて、僕らと、僕らと、飲みに、行きやっしょー。」

二人とも相当飲んでいるらしく、足元はふらつき、言葉は途切れ途切れ、顔は真っ赤に染まり、何よりも酒臭い。

彼はただ縮こまるばかりで、酔っぱらいが彼の肩に手を伸ばそうとした、その時だった。

それまで黙って様子を見ていた彼女が、毅然と立ち上がった。「辞めなさい。恥ずかしい。お酒を飲んで気が大きくなるんじゃありません。」と、酔っぱらい二人の前に立ちはだかった。

「なんだー、このアマ!」逆上した酔っぱらい二人は、いきなり掴みかかってきた。

彼女は小突かれ、よろめいたものの、すぐに鋭い眼光で二人を睨みつけた。履いていたヒールを素早く脱ぎ捨て、スカートの裾をつまみ、男達に向かって躊躇無く向かった。二人を相手に果敢に戦う彼女。多少殴られ、押される場面もあったが、それ以上に彼女は酔っぱらいを圧倒していた。騒ぎを聞きつけたのか、周囲から数人の人が集まってくる。

騒ぎが大きくなるにつれ、酔っぱらい二人は慌てて逃げ出してしまった。

彼女は息を切らし、チリを払い、スカートを直し髪を整えると振り返り、髪をかき上げながら、「大丈夫だった?いやねー、酔っぱらい」と、先ほどの険しい表情はどこへやら、いつもの優しい笑顔を彼に向けてくれた。集まった人達もちりじりに解散していく「凄かったなー男二人相手に。」と遠くで聞こえる。

彼は、彼女のiPadを胸に抱きかかえ、守っていた。しかし、彼は気づいていた。本当に守らなければいけないものは何だったのか。体が動かなかった自分を、ひどく情けなく思った。

「あ、あの、すいません。勇気がなくて……。」

彼女は拾い上げたヒールを手に持ち、首を横に振った。「うぅーん、いいの。心配しないで。こんな所に呼び出したのは私だし、色々教えてもらってるし、おあいこよ。気にしないで。」額に張り付くみだれ髪が印象的だった。

「あの、その……晩御飯、晩御飯を奢らせてください。」

「あら〜、それって、貴方が得じゃないの〜?」と、彼女は肩を揺らして明るく笑った。

何もかも、彼女には敵わない。

彼女は独身なのだろうか?結婚していた過去があるのだろうか?今、恋人はいるのだろうか?なぜ今、一人でいるのだろう。こんなにも知的で優しく、綺麗で、人を惹きつける魅力的な女性なのに。彼女のヘアスタイルは、20年前に流行したようなものだったが、服装は毎回センスが良く、それなのに口紅はいつも同じ赤色。何か重大な出来事があって、結婚しなかったのだろうか?

僕は、僕は彼女をどうしたいのだろう?何があっても彼女を守れるのだろうか?彼女に色々なことを聞いてもいいのだろうか?僕は、彼女から逃げ出したりしないだろうか……彼女は、僕のことをどう思ってくれているのだろう?



「私、震えてるの」


雨脚が強まる街、視界は雨に滲み、DOUTOR COFFEEの看板さえも悲しげに見えた。雨宿りをする客はまばらで、いつもの席にはいつもの彼女が一人、珍しく長いスカートの裾が雨に濡れている。

いつものように手帳を広げ、不機嫌そうな表情で何かメモを消している。注文したのは、氷少なめの冷たいハニーカフェオレだった。

肩についた雨粒を払いながら、彼が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ〜、今日は雨がひどいですね」外の荒れた天気とは裏腹に、店員の笑顔は明るい。

「……いつもの」濡れたリクルートスーツ、ストライプのネクタイ、足元はスニーカー。手には携帯電話と、自己啓発本だろうか?彼は遠くから彼女に小さく会釈した。

彼女のすぐ隣の席に腰を下ろすと、彼は意を決したように口を開いた。「先日は本当に申し訳ありませんでした。不甲斐ないです。もしよろしければ、何かお詫びをさせてください。何か食べに行きましょう。お金はあります。何でも仰ってください。」

彼女の表情は依然として冴えない。「本当にいいのよ。あの程度のこと。たまたま貴方がいただけだから。」

「ご馳走させてください」彼は真剣な眼差しだが、彼女の目を見ることができない。

「あら?デートに誘ってるの?」初めて彼女は眉を上げ、あの印象的なタレ目で彼を流し見た。そして、右の口角を少し上げ、左の頬に手を当て、値踏みをするような仕草を見せた。

「デート、デートしたいです。ダメですか?僕は、自分に素直になりたい。貴方に釣り合うなんて考えていません。あの時、何を置いても貴方を守るべきでした。彼氏は、彼氏はいるんですか?怖くて聞けない。でも、もう後回しにはできません。教えてください」(覚悟は決めた)彼は、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。

「……貴方、本気で言ってるの?20歳で何がわかるの?」彼女は、ずっと恐れていた問いを突きつけられたように感じた。

「私にだって憧れる人はいたは。でも皆、私を遠巻きに眺めて、誰も心をぶつけてこなかった。当時……、私も少女で、自分から動くことはできず、仕事に逃げ、心が赴くままに知識を貪り、気になる場所は何処へでも行って、この目で見て回ったわ。……気がついたら、誰も声をかけてくれない存在になってしまっていたの。馬鹿でしょ」初めて見る彼女の悲しそうな顔に、彼の胸は締め付けられた。

同時に、彼女が重い過去の話をするのではないかと身構えたが、話を聞いてみると、そんなことはなく、彼には理解できた。あまりにも孤高の美しさを持つ彼女に、誰もが声をかけるのを躊躇してしまっていたのだ。彼女は、恋に怯える一人の女性だった。

「私はもう30を過ぎて、この歳で人に騙されたら立ち直れないの。20歳の貴方に、私を愛せるの?もし遊びなら、やめて」彼女は自分の肩を抱きしめ、震えている。俯き、声が上ずっていた。

「私は怖いの!震えているの!」彼女は、大粒の涙を流して訴えた。隠そうとしない涙に、彼は彼女の剥き出しの心を見てしまった。

彼女は立ち上がり、何か言いたげに口は動くが声が出ない、「……私は」とようやく紡ぎ出した言葉も続かず、店を飛び出した。大雨の降る都会の雑踏の中に、彼女の姿は消えていった。

彼は、どこか躊躇してしまう程度の覚悟だったのだ。

店員さん達が拳を握り儚い表情で僕を見ている。

「……僕は……愛せるのか?年齢のことなど考えたこともなかった。彼女は恐れていたのか。気づいてあげられなかった……ただ、楽しいと感じていただけだった」彼は、またしても動けない自分を呪った。

店の店員が、一杯の水が入ったグラスを彼の前にそっと差し出し、「これを」と言って静かに立ち去った。

後ろ姿に、「……あ、ありがとう」と呟き、彼はグラスの水を見つめた。コースターには、殴り書きで「勇気を出して!!」と書かれていた。

彼の心は打ちのめされた。なんて無力なのだろう。啓発本も、携帯電話も、何も教えてくれない。心の空いた穴は、塞がらないままだった。



「君の名は」


不甲斐ないあの日から数日が経ち、午前中に降っていた雨は夕方には上がり、都会の埃を洗い流した空には、美しい夕焼けが広がっていた。雲の切れ間から覗く夕日が、赤く染まっている理由を、彼女が教えてくれたのを思い出す。

「人が泣くと目が赤くなるでしょ?太陽さんも悲しい時、泣いているんだよ。だから夕日は赤くなるんだって。えへへ」と、舌を出して笑う彼女の笑顔が、まぶたの裏に焼き付いている。

いつものDOUTOR COFFEE、いつもの場所。しかし、あの日から彼女は姿を消し、今日もいない。

店員さんが親指を立てて彼を迎えてくれる。彼は優しく微笑むが、言葉はない。390円をレジに置き、彼女のいつもの席の隣に座ると、携帯電話をテーブルに投げ出した。

あの日以来、ここで待ち続けた。街中のコーヒーショップを探し回ったが、彼女は見つからなかった。

初めて気づいた。彼女が、かけがえのない人だったと。

勘違いしていた。目の前に転がる携帯電話のように、いつも自分の身近に、当たり前のように存在する人だと。

馬鹿だった。あんなに楽しく話していたのに、彼女の名前さえ知らない。

コーヒーショップでは、立ち入ったことを聞くのは野暮だと思い、彼女の仕事も知らなかった。

愚かだった。あんなに一緒にいたのに、連絡先を交換していなかった。

自分の馬鹿さ加減に、彼は心の中で泣いた。もしもう一度会えたら、もう二度と離さないと誓おう。でも、彼女はどこにいる?どうすれば連絡を取れるんだ?

途方に暮れていると、店員さんがカフェ・ラテを彼のテーブルに運んできた。その時、携帯電話がLINEの着信を知らせ、画面が灯った。

店員さんが声をかける。「LINE……見ないんですか?」

「業務連絡ですよ。気にしなくていいです」力なくそう言うと、彼は携帯電話の画面を見つめた。待ち受け画面には、あの日にもらった彼女の写真……?

手に取ると、例の手帳にメモのようなものが写っている……!何か貼ってある?

彼は、おもむろに写真を拡大してみた。

連絡先と思われるメールアドレスが貼ってあった。明らかに、彼に見せるように。彼は一縷の願いを込めて、そのアドレスに連絡を取った。

彼女は電話に出た。そして、「私って馬鹿。待ち受け消してって連絡するのが怖くて……だから、写真……消して」と、震える声で言った。

「やだ。やだ。会いたい。会ってもう一度話したい。だって、連絡先のアドレス、変えなかったんだろう?待っていたんだろう?」彼は、上ずった声を必死に抑えながら訴えた。

彼女は「会いたい」と一言だけ呟き、その後は、ただ泣き声しか聞こえなかった。

奥のレジでは、店員たちがこちらを見ている。涙ぐんでいる店員もいる。銀のお盆を胸に抱き、小さく手を叩いた。音はさせないように。


数十分後彼女は現れた、ボサボサの髪、目は以前見た夕日のように赤く、泣きじゃくった事が伝わる、化粧をしない顔、泣きホクロが、泣いてることを強調している、いつものオシャレな装いは無く緩いコットンパーカー、大きめのセーター、初めて見せる裾の短いスカート、背負う小さなバッグ、内股に構える足には青いアザ、スニーカーを履いていた。レジで注文を聞かれずに店員さんが奥に背中を押す。


彼女はしきりに前髪を抑え、いつもの赤い口紅は無く、薄いピンクのリップが引かれた唇が震えていた。


彼が足の青いアザに注目すると、初めて彼女はアザを隠して「公園での喧嘩の時……できた」と俯いた。


彼は思わず彼女の頭を抱きしめた、又しても気が付いてあげられなかった、あの日以来長いスカートにしている理由に、でも下向かない、彼女には勝てない、学んでいくんだ、彼は「会いたかった」と一言彼女も彼の胸で「うん」とだけ。


「あの後、わかったんだ君が好きだ将来どうなるかんか誰も分からない、でも信じて欲しい、君以上に愛せる人はいない。」


「……私はずるい女、若い君に期待した愚か者、30過ぎてもう一度夢を見たの、貴方が私に気があるのは初めて会った時から気が付いていた、でも、でも、貴方の学ぼうとする姿勢に私は尊敬していたの、待ち受けに連絡を隠す馬鹿な女よ、いいの?こんな不器用な女、いいの?、愛してる?本当に?わかるの?私も教えてあげられないからね、いいの?。」


「私は……私は……愛してると言っていいの?」彼女の涙を隠さない癖は卑怯なほどずるく純粋だった。


(……愛おしい。)


2人は再び距離を取り両手を取って「そして教えて欲しい。」


「君の名は。」

一度、この物語は終わるが、ジェネレーションギャップ、情報とは、人を大事にするとは?


これを続ける?

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