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帰り道、私は考える。
彼女の悩みとは、一体なんであろうか。
一つは委員長が話していた、親友との仲違い。
これは確実であろう。
しかし委員長は『幾つもの』とこぼしていた。つまり他にも色々とあるに違いない。
そうして考えたが……そうか、朝のあの一件だ。
痴漢を喜んで受けるような女子高生はそうはいまい。
少なくとも男の精神を持つ私でさえ、あれだけの恐怖を感じたのだから。
彼女がどれほど心細いかは想像に難くない。
これで二つ、さて他には……なんだろう。
色々と考えながら電車に乗り、降り、駅を出て、自宅へと辿り着いた。
家の鍵を回し、扉を開ける。私は
「ただいま」
ととりあえずの挨拶をするも、家の中からの返答はなかった。朝と変わらず静かで、灯りの一つもついておらず、暗いままであった。
彼女が帰宅後にどうしていたかは分からない。だがとりあえずのことをしておこうか、と思ったので、制服から私服へと着替えて最低限の家事でもしておくか、と思った。
私服だが……何をどうすればよいのか、少し迷う。
とりあえず着替えが入っているであろう箪笥を開けて、自身のどのような服がどこに入っているかを確認する。
彼女の私服の傾向も含めて、今後違和感のないようにしたいものだ。
またこうして日々少しずつ刺激を与えて、この環境に慣れていかなければとも思った。
童貞男性ムーブをいつまでも引きずっていてはならない。
そうでなくては自分の部屋ですら落ち着かなくなってしまう。
というわけで調べたのだが……結果、彼女の私服は偏っていた。
モノトーンに。ほぼ黒の服、そして他の色も白系の服を少ししか持っていない。
彼女はオシャレをしないのか。女子高生が街中できゃっきゃうふふしているようなカワイイ服を着ないのか。
そう思ったりもしたが、今日委員長から聞かされた彼女の一つとして、あるいは今日一日の学校の周りの人達から察するに。
彼女は、かなり交友関係を絞っている。
あるいは、そこまで友達を作る、ということをしないタイプなのかもしれない。
そうすると、友達ときゃっきゃうふふしたりなどしないし、オシャレにもそこまで頓着していないのかも、という推測も成り立つ。
……それにしてはきちんと女子高生らしい可愛い部屋だよなぁと思ったものが、そう言えば確かにピンクがそこまである訳でもなく、どちらかといえばユニセックス的な部屋に落ち着いてるのに気付いた。
だが、ちょこちょこ女性らしいアイテムもあるので、もしかしたら友人からの貰い物かもしれない、とアタリをつける。
そういう意味では、彼女も可愛らしい人物なのかもしれないな、と思った。
さて話を戻して、今は彼女の着替えに関する問題だ。
どうせ自宅で過ごすのだし、簡単なものでいいだろう、誰かに見られる訳もなし。
そう思って、ラフにTシャツと短パンにする。ちょっと大きめのTシャツと、中々に際の鋭い短パンである。
……これ、短パンが見えなくなってTシャツだけに見えなくもないな、と鏡を見て思ったが、別にいいやと気にしない。
外に出る訳でもないので、自分が過ごしやすい恰好でいるのが一番である。
そして脱いだ制服はハンガーに掛けて、下着、というかガーターセットは脱いで……とりあえずベッドの上に。
この手の下着類はそのまま洗濯してはいけない気がする。レース系の下着とかはなんかネットとか使っていた気がする。母親が。
だがよく知らないので後で調べてみることにしよう。
さて着替えを終えたので次は夜の準備だ。基本は食事とお風呂ということである。
台所に行ってご飯を炊き、そして浴室に向かって風呂掃除をしてお風呂を沸かす。
それからいよいよ、重要項目である夕食の調理だ。
残念ながら引きこもり男なので何をそこまで出来ることもない。しかし今はインターネットを検索すれば様々な調理法が、それもコツを含めたものが山のように出てくる。そこで私は、私でも出来そうなラインナップを探しては試してみることにした。
冷蔵庫の中を見て、賞味期限が早そうなものから、と思ったが、冷蔵庫の中身は綺麗に並んでいた。
奥のものも幾つか見てみたが、きちんと賞味期限が早いものが手前になっている。恐れ入った。
一度冷蔵庫を閉じて、落ち着く。どうしよう……何を作ろうか。
そう考えていると、キッチンの横のスペースにカレールーの箱が置かれていた。
もしかして、これは昨日に今日のご飯の用意をしていたということなのだろうか。
どれだけちゃんとしていたのだ、彼女は。
学業や部活を行いながら、自宅での料理や家事も完璧にこなしているではないか。
……本当に、私がそんな彼女の悩みを解決出来るのであろうか。
少し、不安になった。
さて、気を取り直して、夕食のカレー作りに取り掛かるとしよう。
私も普段そこまで料理をすることはないが、流石にカレーなら作れる……というまでの絶対の自信はないが、そこまで難しくはない……はずだ。
学校の課外授業みたいなやつでも作ったことあるし。
だが間違いなく記憶の彼方なので、ネットで作り方を調べながら、材料を冷蔵庫から出す。
まずじゃがいもは皮を剥いて、ざく切りにして水に浸す。人参や玉ねぎも同様に食べやすい感じで切っていく。
包丁使いなどは多少ぎこちないが、コンクールに出すものでもないし、多少のいびつさは気にしないことにする。
しかし手指だけは斬らないように。こんな綺麗な手に傷でも付けたら、私の方がいたたまれない。
そして鍋を用意して油を軽く投入、冷蔵庫から出した豚肉を入れて、それから野菜を投入。火が通ったら水を入れて煮込む。こんなもんかな、といちいち不安になりながらも、スマホの画面とにらめっこしながら作ってゆく。
その後にアクを取りつつ、少し火を落としてから十分程度煮込んで、一度火を止めてルーを投入。いい感じに溶けたら弱火でもう十分ほど煮込んで、これで一応完成だ。
一人で最初から最後まで作ったのは初めてだが、どうだろうか……と味見。
昔母親がやっていたように、小皿にちょこっと取ってみる。……うむ、まあ悪くはないかな。
丁度良くお風呂も沸いて、ご飯も炊けたようだ。
……両親は、帰ってこないのだろうか。
やはり私の推測通り、母はいない気がする。
そして父親も、朝が早く夜が遅い、激務のようだ。
私は仕方なく、一人でご飯とカレーを皿によそい、一人でまくまくと食事を始めた。
「いただきます」
思ったよりも美味しく出来たのが嬉しい。だがこれも私の力ではなく、彼女が元々持っていたスキルに頼ってはいないだろうか。
それならそれで楽なのかもしれないが、だが同時に彼女に対する申し訳なさも膨らんでくる。
いや、そんな彼女の悩みを私が解決すれば、それはそれで等価を払っていることにならないだろうか。
ならば今は悩み解決の報酬の前借りということにしておこう。
私はそう納得させておくことにした。
だがしかし、それはそれとして……一人での夕食というものは、なんとも寂しいものである。
これももしかしたら彼女の悩みの一つかもしれない。
あと、かつての自分と違って食事がびっくりするほど入らない。
これが男女の差なのか、それとも彼女が特別なのか。
おかわりしようと思っていたのに、最初の一杯を少し残してしまうほどだった。
仕方がないのでラップをして、明日の朝にでも食べるとしよう。
私は流しに残りの食器を置いて、そのまま洗い物をして、お風呂へと向かった。
……そういえば、彼女は寝間着として女性用の、割と普通のパジャマを着ていたはずだ。
脱衣所に向かい、幾つかの棚を漁る。するとそこに入っていたのはタオルだけであった。
つまり、下着と寝間着は自室だということだ。
私は一度自室に戻り、彼女の下着と寝間着を改めて探した。見つけたが……なんとも恥ずかしい。
というより彼女、えっちな下着多すぎないか? むしろ殆どがそれだぞ!?
こんなの穿いて寝れるのか? ……正直、自信が無い。
と、とりあえず寝間着を持って、お風呂へと向かった。下着は保留である。
脱衣所で服を脱ぐ。相変わらずの美貌である。何度見ても慣れることはない。
こういうの、本人はどうなのだろうか。毎日鏡の前でポーズとか決めてたりするのだろうか。
……ちょっとやってみた。……めちゃくちゃ興奮したので危険だ。二度とやるまい。
そして風呂へ。心の中でだけかぽーんという音を鳴らしながら、鏡の前で小さな椅子に座り、身体を洗っていく。
……気持ちよすぎて変な声が出そうだ。なんだこの身体。ふしだらにも程があるぞ。
彼女は本当に、どのようにして日常を過ごしていたのか、大いに気になるところだ。
なんとか身体を洗い、そして髪を洗う。余り強く洗うのはよくないらしいので、そっと洗う。
男ならばシャンプーでゴシガシと洗えばよいのだが、女はそうもいくまい。
色々と種類あるし。シャンプーでこしこし洗って、それからリンスをもう一度髪にこしこしつけて、さーっと流す。
確かこれであってたような? リンスが後付けってのだけは知ってる。違ったらごめんなさい。
でも仕上がりがつやっつやのさらさらヘアーになったので、まあそこまで間違いではあるまい。
湯舟に浸かり、一日の疲れを流していく。
「ふーっ」
本当に、心の底からこの声が出る。今日一日は本当に大変であった。
まさしく激動である。激動の一日であった。
自分とは別の、見ず知らずの美人女子高生の肉体を借り、彼女の一日をトレースする。
言葉で書けば一行に過ぎないが、実際には想像を絶する苦労の連続であった。
着替え、通学、そして痴漢、知らないクラスメイトとの交流、進学校ならではの苦悩、そして、原因と悩みの解決。
これは明日からも大変だな、と思いながらお風呂を出る。湯はそのままで大丈夫だろうか。とりあえずお風呂には蓋をして、浴室から出た。
バスタオルで身体の水滴を拭う。このバスタオルもまた良い匂いがする。女子高生の匂いは男に毒だ。
結局下着を持ってこなかったので、直接寝間着を着る。なんだか不思議な感じだが、身体を締め付けるものが無いので、これは中々快適でもある。なんなら制服のスカートみたいなスースー感すら感じる。
そういえば洗濯機っていつ回しているのだろうか、と思ったけれども、今度から朝に回して帰宅と共に取り込めばよいかも、と思ったので今日はそのまま。
自室へと向かい、今日の復習を軽く行う。
学校の授業がどうにも難しかったので、彼女の過去のノートを見返しながら、現状の授業の進み具合などを確かめていく。
結果、自分が当時高校生だった頃と比べると、やはり中々に難易度の高いレベル、あるいは速度で学習していることが分かった。
どうしよう……。これは真剣に勉強する必要もあるみたいだ。
だからと言って今から猛烈に勉強するのも違う気がする。今日は流石に限界である。
明日から、学校での復習も含めて、もう少し効率的に過ごせるようにしたい。
とりあえず今日は、就寝。
……おっと折角なので、今までの彼女みたいに明日の服の準備もしておこうか。
明日身に着けるYシャツと、下着類。綺麗に畳んだものを、片付けた机の上へと並べてゆく。
なるほどこれは確かに、気分が良い。明日の準備が全て完璧である、という心構えにも繋がる。
もし自分が前の男の身体に戻った時も、少し試してみようか。
そんな気分にさせられて、今日は布団に潜った。
……もっとも、元に戻る日がくるかどうかは、私にはまるで分からないけれども。
自分の布団なのだがやはり良い匂いがする。例え興奮して眠れなくとも、気持ち良い気分は味わえるはずだ。そう思って布団の中でリラックスをしてゆく。
なんだかんだで疲れたし、このままもしかしたら眠れるだろうか……とまどろんでいると、唐突にスマホが鳴った。
こんな時間に一体誰だろうかと思って見てみると、またこいつだった。
差出人不明の男『エトワール』。
いや、男かどうかも良く分からないが。
一体どういう理屈でこの名前で登録したのであろうか、今の私に理解する術はない。
でも、もしかしたら彼女の、元の彼女の知り合いかもしれない。
大事な人かもしれない。
本名でないので、ハンドルネームとか、ネットの知り合いかもしれない。
あるいは、本名を誰かに知られたくなくて、偽名で登録しているのかもしれない。
……それが誰かは、今の私には分からないけれども。
そんな相手からの連絡。
とりあえずそのメールを、開いてみる。
そこには、たった一言。
『大丈夫?』
私は思わず、こう返した。
『何の話?』
この話は今朝の痴漢の事なのか、あるいはそれ以上の事か。
この相手は、一体私のことをどこまで知っているのだろうか?
もしかしたら、私が入れ替わった原因に、この相手が関わっているのだろうか?
あるいはもっと別の何かを、知っているのだろうか……。
そう思いながら、返信を待つ。
すると、携帯が鳴る。
『今日、辛くなかった?』
『そんなことはないよ。確かに色々大変だったけど』
『そう』
この返事だけだと、エトワールが何のことを言っているのか意味が取れない。
折角なので、もう少し詳しく聞いてみることにしよう。
『私のこと、妙に詳しいんだね』
すると、エトワールはこんなメールを返してきた。
『教えてくれた』
『誰から?』
『貴方』
私が? ということは私とエトワールは知り合いか友人か親友か。とにかくある程度の交流関係を持つ相手らしい。
ならばこれ以上私から余計なことは言わずに、彼の話を素直に聞いておくべきだと思った。
とりあえず、彼ことエトワールには無難な返事をしておく。
『そうだね。ありがとう』
『今日の大変な話、教えて』
彼女はいつも日常のことを話していたのか。
私はどこまで話していいものか、と考えながら、でも自分のことを余りさらけ出すのもな、とも思い、違和感のないように返答をしておこうと思った。
『通学が混んでたりしてちょっと大変だったり、学校の勉強が難しくて大変だったり』
『痴漢は犯罪。許されない』
なんとエトワールは痴漢の件を知っていた。するとこの身体の持ち主は、少なくともクラスメイト以上にはこのエトワールのことを信用して色々と打ち明けていたことになるのかもしれない。
仲のいい友人だろうと親友だろうと、こういう話はそうそう出来るものでもない。
いじめなどと一緒で、親に言うと迷惑がかかってしまう、など本人が思って抱え込んでしまうことが多いからだ。
もっとも、抱え込んで最終的に解決出来なくなってどうこう、というのが最悪のパターンなので、悩みがあったら案外、誰かに打ち明けてしまうのは正解ともいえる。
実際に人に話すと、悩みが楽になるらしいからな。
私がそう思っている、と、エトワールがまたメールを送ってきた。
『悩み相談、受けるよ』
『ありがとう。また何かあったら連絡するね』
『うん。おやすみ』
そうしてエトワールとのメールは終わった。
多少淡泊だが、真に私の事を思ってくれているよう……な気がする。
顔も名前も分からない相手だが、少しは信じてもよいのかな、と思った。
本来ならば、もう少し警戒した方がよいのかもしれないけれども。
でも、このエトワールという相手は、そこまで悪い感じはしなかったのだ。
何故だか分からないが。
とにかく、明日からもこの身体の人生を、女子高生としての普通の日常を送る所存である。
頑張らなければ。
そして、彼女が抱えていた悩みを、一つずつ、少しずつでもよいから解決していこうと思う。
それが、彼女の為になるならば。
いや、勿論死にたくもないので自分の為でもあるのだけれども。
それでも、彼女の悩みは今の私の悩みでもあるのだ。
あんな痴漢に毎日襲われるなど、たまったものではない。
幾らこの身体を見て性的に興奮するからといって、性犯罪など許容出来るはずもないのだ。
だからこそ、明日から一層様々なことに対して真剣に取り組んでいく必要がある。
昨日までの代わり映えのしない、どうしようもない日常を生きてきた私にとっては、自分の心を入れ替えるいい機会なのかもしれない、と少し前向きにも捉えられるだろう。
そう考えると、やはりこの身体になれて、良かったのかもしれない。
この身体の持ち主が、今は心穏やかに過ごせていればいいのだが。
その辺も委員長の話では良く分からなかったのだけれど。
まあ、今の私が何を考えても仕方がないか。
明日に備えて、もう寝よう。
「おやすみ」
私は誰に伝えるでもなく、一人呟いて就寝した。
激動の一日は、ようやく終わりを告げた。