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だがそんな不安も、新たな恐怖には敵わなかった。
急に、私のお尻に生暖かい触感が包み込むのを感じた。
『ヒッ』
と私は声にならない声を発した。
お尻をさわさわ、そして時折ぎしりと揉むように掴むその手付きは、とても厭らしい。まるで今日ここまでに通行人から浴びてきた全ての厭らしい視線を全て凝縮したかのような変態度だ。その全てを集めた手は私のお尻をこれでもかと堪能している。
何か対処を、と咄嗟に思ったが、私の両手はどちらも埋まっている。そしてこの混雑した所では逃げ場も無い。
どうしようかと少し考えたが、それよりも身体が恐怖で硬直してしまっていた。
震える。震えが止まらない。
痴漢などその場で相手の手を掴んでしまえば終わりではないか、つい昨日までの傍観者としての私はそう考えていた。
だが、これはそういう類いのものではなかった。
熊とか、幽霊とか、殺人鬼とか、そういうものだ。
決して逆らってはいけない、絶対に勝てない『なにか』に背後を取られ、このまま無事に生き残りたかったらじっとしていることだな、と心の臓を握られているような印象。
私は、そう感じてしまっていた。
そんな硬直している私に、後ろにいる件の男は耳元にそっと顔を近付けてきて、こう言ったのだ。
『今日もオジサンが可愛がってあげるからね』
ぞわわわ、と全身が総毛立ったのが分かった。
無理。気持ち悪い。絶対に無理。
逃げたい。でも逃げられない。
助けて。おしっこ漏れそう。
体からは震えが止まらなかった。
私は、自分がこんなにも弱い人間だとは知らなかった。
だが、今日分かった。
分からさせられた。
自分は、弱い人間だと。
見ず知らずの女子高生になって、どこか浮かれていたと。
それを今、まざまざと思い知っているのだと。
世界には、女の子には、日常の中に恐怖が満ちているのだと。
それからも、この痴漢の魔の手は私を許してはくれなかった。
ずっとお尻を揉むどころか、スカートの中に手を入れ、下着を直に触られたり、かなり際どい所まで指を持ってきていたりと、やりたい放題だった。
その度に私は、恐怖に震える声をぐっと我慢することしか出来なかった。
やっと解放されたかと思えば、そこが私の降りる駅である学校への最寄り駅であった。
私は恐怖と解放感から崩れ落ちそうになりながらも、やっとの思いで電車から降りた。
こんな気持ちで学校など行ける訳がない。
私は一度、トイレに入ることにした。
トイレの個室で、心を落ち着かせたかったからだ。
私は泣きそうになるのをぐっと堪え、自分以外の全てをシャットダウンして、トイレの個室へと一目散に向かった。
そこに入って鍵をかけて便座に座り、ふぅ……と溜息を付いた後、さめざめと声を押し殺すように泣き出してしまった。
憎い、あの男が憎い。
相手の髪の毛を思いっきり引きちぎって、今後ヅラを手放せないような恥ずかしい髪型にしてやりたい。
股間をこの固いローファーで思いきり蹴飛ばして、二度と使えない状態にしてやりたい。
自分の中にこんな気持ちがあったんだと初めて気付かされるほどに、どす黒い怒りと憎しみの感情が私を包み込んでゆく。
でも何よりも一番腹が立つのは、あんなののあんな指くらいで、下着が少し湿っているほどに艶感を覚えた自分自身にだった。
もう、何もかもが情けなくて悔しくて、厭になる。
惨めという言葉が、今ほど似合うことも無いのではないだろうか。
頬に残った涙の後を拭きながら、綺麗な女も楽じゃないなぁと改めて思い知らされた。
股間と下着をありったけの紙で拭い、せめて気持ちだけでも綺麗にする。
それから使ってはいないけれどとりあえずレバーを下げて流し、スカートを整えてトイレから出る。
すると、正面に小便器が見えた。
え? と思う間もなく、個室が開くのを待っていた若い男性が物凄くびっくりした顔で、私を見ていた。
私だって、物凄くびっくりしている。
「えっ、あっ、すみません、間違えました」
私はぺこぺこと頭を下げて、慌てて男性用トイレから飛び出した。
そして勢いのまま飛び出したので、慌てて隣にある女性用トイレに入り、そこで手を洗った。
水道の音が聞こえるのに任せたまま、まだどきどきする呼吸を鏡の前で整える。
「はぁ……はぁ……びっくりした」
男性だった頃の癖だと思うが、無意識に男性用のトイレに入ってしまった。
流石に学院では女学校の為に女性用トイレが殆どであろう。
だが、これからもどこかでやらかす可能性は否定出来ない。
もっと自身の意識を女性にしておくことが必要だと再認識した。
無意識の部分を女性に変えなくては。
鏡を見て、少し髪を整える。
再度身だしなみをチェックして、まあよいだろうと思い、トイレを後にする。
改札を出る頃から、既に大きな人の流れが出来ていた。
皆、同じ制服を着ており、同じ方向へと歩いてゆく。
それらは全てが、私と同じ制服を身に着けていた。
そう、彼女達は皆、私と同じ月夜見女学院の生徒である。
私が家を出た時間が早かったのか、あるいはトイレに駆け込んでからそこまで時間が経過していなかったのか、まだ通学時間内であることには少しほっとした。
一人遅刻していけば、それはそれで目立つこと甚だしいからである。
流石に初日は大人しく普通に教室に入りたいな、と思いつつも私は少し気後れしていた。
なぜならお嬢様初日のような私ではなく、皆は生まれてから今日まで生粋のお嬢様なのである。全員がそうだとは思わないが、それでも確かこの学校は中高一貫校だった筈である。間違いなく数年のアドバンテージが私以外の皆にあるだろう。あるいは私だけハンデを受けていると表現してもよい。
そんな感じで私は少しどきどきしながらも、その人の流れに乗るようにして、学院までの通学路をてくてくと歩いた。
決して、人の視界に入らないように、目立たないように。
だが残念ながら、この容姿と美貌である。
そんなことはどだい不可能であった。
「御機嫌よう、お姉さま」
可愛らしい声に思わず振り向いてしまった。
その鈴のような声の持ち主は、茶髪の可愛らしい女の子であった。やはりお嬢様学校ともなれば、容姿も一流どころが揃っているのだろうか、と勝手ながら思ってしまう。
非常に可愛いらしくて少し時を止めてしまったが、彼女からは挨拶をされたのだ。こちらも挨拶しかえすのが妥当であろう。
「御機嫌よう」
生憎表情筋はまだ仕事をしてくれなかった。やはり先程の痴漢ショックからまだ立ち直れていなかったのだ。彼女には申し訳ないことをしたな……そう思っていたのだが。
効果は、劇的だった。
周りの制服を着ている女子生徒が、一斉に空気を変えたのが分かった。
あれ、私何か間違えたかな、と思ったのも束の間、私に声をかけてくれた茶髪彼女は私を見つめてぼーっとしてしまっていた。
「え、あれ? 今日はお返事して貰えるのですか? な、なんということでしょうか、今日は世界が輝いて見えますわ」
ぼそぼそとこんなことを言っているように聞こえる。
ん、挨拶ってそんなに凄いことなのか?
私は少し混乱するように彼女の瞳を覗き込む。すると彼女は照れたようにして、私からの視線を遮った。
「もう、そんなに見つめないで下さいまし。火照ってしまいます」
可愛らしい。彼女からは女の子としての美しさと可憐さが見事に同居している。
彼女と少し会話をしただけで、惚れてしまう男子は後を立たないのではないだろうか。
だが私はそれらの男性的目線からの雑念を取り払い、彼女に自分が感じた謎を正直にぶつけてみることにした。
「あの……」
「はい!?」
彼女はびっくりしている。私から声かけすること自体に驚きを覚えているようだ。
「私が挨拶するのって、そんなに変?」
「えっと……はい。今まではどれだけご挨拶をしても、『ん』とか無言で頭を下げたりとか、その程度でしたので」
そりゃあ、凄い。
そんな無口でコミュ障全開の美人先輩が、いきなり本来の挨拶を返してこれば、確かにフリーズの一つもするだろう。
なるほど、そうなのだな。
「でもなぜだか今日は、しっかり挨拶を返してくださって、私は天にも昇る気持ちですわ」
あらまあ、それは良かったですわね。
……などと悠長なことを言ってはいられない。何しろ私は今までの彼女と似たように接しなければいけないと思っているのだから。
どうしよう。
とは思ったものの、現状走り出してしまったものは仕方がない。
流石に今から彼女が言った通り、今までの無口無言である本人へと舵を切るにはどうにも無理がある。
というか彼女が可哀想だ。
もしも今まで塩対応していた人が急に声かけてきて、でも勘違いでしたーみたいな流れでまた塩対応してきたら、私だったら心がポッキリしてもおかしくない。
いや、場合によっては愛憎渦巻いた挙句に、私本体へと返り討ちしてくる可能性だってなくもない。
私は仕方がないので、今までの彼女のイメージを壊さないようにしつつ、『凄く無口キャラ』から『ちょっと無口キャラ』くらいの方向性に転換しようと、上手く言葉を紡いだ。
「今日は、ちょっと特別」
淡々と答える。すると彼女はにっこりと笑った。
「あらあら、まあまあ、それはとても嬉しいことですわ。では皆様も、是非」
と言って、彼女は通学路を歩いていた他の生徒達にも声をかけていった。今日は私こと凍りの君が特別に挨拶をしてくだすったと。
すると周りの女生徒も俄かに色めきだち、池で餌を求めて群がる魚のように、私への包囲網を構築してきた。
もっとも、彼女達は曲がりなりにもお嬢様であるので、『ぐわっ』とか『ガバチョ』といった感じではなく『しずしず』と『じりじり』の上で『キリキリ』とさせてくるような感じだった。
もし彼らが兵隊であったならば、包囲殲滅戦においては極めて優秀な部類に入るだろう。
しかし彼らは、私を包囲した後に行うのは、殲滅という名の挨拶であった。
「御機嫌よう、お姉さま」
「御機嫌よう」
「御機嫌よう、お姉さま」
「御機嫌よう」
私は私に群がる女生徒たちの挨拶の弾幕を華麗にやり過ごした。
余り笑顔を作ることもなく、そこそこの仏頂面で。
それでも私が挨拶をする度に、彼女達はきゃあきゃあとはしゃぐ。
そんなにも私に挨拶されるのが嬉しいのか。あるいは元の彼女にそれほどの人気があったのだろうか。
しかしまあ、彼女の美貌を考えれば、それも納得だ。
私だって、もし自分が彼女と同じ学校で、彼女を遠くから見ていたのに、普段そっけない相手が今日はちゃんと挨拶してくれる、と思ったらそりゃあはしゃいでしまうのも無理はなかろうて。
「あれー、今日はご挨拶してくれるんですかー?」
新たに登場したその甘ったるい話し方の持ち主は、艶っつやの長い金髪を綺麗に流していた。そしてくりくりとした碧の瞳に、輝くような白い肌、そしてすらりとしながらも豊満さを強調するような体つき、足も黒いストッキングが包んでいたが、ほっそりとしてすらりと長く、申し分のない完全無欠の外国人美女であった。
どうして彼女のような人間がこの学校に通っているのだろうか。
確かにこの学校はお嬢様学校だが、彼女のような外国人にはインターナショナル系の学校が幾らでもあるだろうに、なぜここなのか。
いや待てよ、それにしては彼女の日本語は実に違和感無く、スムーズな発音だった気がする。
まあ何か理由があるのだろう。余り深く考えないことにした。
「御機嫌ようです、先輩」
金髪彼女ちゃんは私に挨拶を投げかけてくる。私もふつうに返した。
「御機嫌よう」
「わぁー、本当に返してくれましたー。いつもあんなに塩対応なのにー」
「今日だけ、今日だけだから」
「ふーん、あれ、でも今日はいつもと違いますね」
その言葉にドキッとする。
「そ、そう? いつもと変わらないけれど」
私の言葉に金髪彼女ちゃんは少し考える素振りをする。
「んー、上手くは言えませんけど、何というか、こう……まろやかな感じがします」
「まろやか……?」
「いつもの先輩はこうー、もっとシャープな感じー」
「ああ、それは少し分かりますわ」
茶髪彼女ちゃんも同意してきた。
「普段はもっとこう、誰も寄せ付けないような鋭さがありますもの。私、毎日挨拶するのも結構勇気がいりましてよ」
「そ、そうなの……ごめんなさい」
「そんな! お姉さまに謝っていただくことなど何も御座いませんわ! それよりも、また今日みたいにご挨拶を返していただけるだけでも幸せです」
茶髪彼女ちゃんにニコリと返されると、私も何も言えなくなってしまう。
おいこの身体の持ち主よ、もう少し周りを労わってやれ。
私はそんなことを考えながら彼女達と通学路を歩く。街路樹の立ち並ぶ木々達は一向に私達を覆い見守るのを止めず、そのまま校門を抜け、更にはその翠の景色の奥から、瀟洒な建物がぬっと姿を表した。
「あ、あの!」
茶髪彼女ちゃんはキッと思い詰めた表情をして、私に勢いよく声をかけてきた。
「何?」
「わ、私の学年はこちらの校舎ですので! お姉さまとはこちらでお別れですわ! 名残惜しいのですが……」
「私もー。またねー先輩」
「そう」
私は静かに二人に返答した。どうやら茶髪彼女ちゃんも金髪彼女ちゃんと同様に私の後輩だったらしい。
「お姉さまは二年ですから、そちらの下駄箱になりますわね」
「ええ」
茶髪彼女ちゃんは私が向かう必要のある下駄箱を無意識のうちに教えてくれた。
私も尋ねないと、と思っていたので、これは密かにありがたい。
そう思っていると、茶髪彼女ちゃんはぺこりと頭を下げた。
「では、またいずれ。楽しみにしてますわ」
「ええ」
そして彼女はニコリと笑顔を私に放って、しずしずと、いやルンルンと歩いていった。
足さばきは丁寧なのに、気持ちがしっかりのっているのが見てて微笑ましい。
大人っぽさよりも後輩としての可愛さが押し出されていたようで、好感度高しといったところか。
しかしこの学院には彼女のような子が沢山いるのかなぁと思うと、私の心も弾むようだった。