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さて、鞄に今日一日で必要そうなものをしまう。
だが教科書などは全て準備されていた。鞄の中は空だが、これも全て机の上に綺麗に並べられていた。
一体彼女はどこまで完璧超人なのであろうか。自分の高校時代を思い出しても、こんなことは生まれ変わっても出来そうにない。
……いや、今ならもしかしたら出来る……かもしれない。
勿論心までも入れ替える必要があるだろうが。
とりとめもないことを考えながら、それらを鞄に詰める。鞄はよくある紺色の布の学生鞄か、はたまたナップザックのようなものか……と思ったが、まさかの革の古めかしいタイプの学生鞄であった。
お嬢様学校は制服は替えても鞄は替えなかったらしい。俺も、この鞄を両手で持ってしゃなりと歩くイメージが頭の中で浮かんだ。
しかし、俺は今からそれをして、それにならねばならぬのだ。
そう思うと、また自分に緊張が走る。
俺は、俺であって、俺でないのだ。
……そうだ、この喋り方も、変えなければならない。
思わずうっかり『俺』なんて口にしてしまえば、その場の空気が凍ること請け合いだ。
……『私』。私なら問題あるまい。
今度から心の中でも『私』と喋ることにしよう。
これで、問題のない女子高生の日常を送れる……だろうか。
そう思って再度姿見を確認し、鞄の中もチェックして、持ち物の忘れも無いであろう。
赤穂浪士のような面持ちで、私は玄関へと向かう。
玄関には既に確認したように、可愛らしくローファーがちょこんと並んでおり、私の到着を待っていた。
私はそのローファーへと足を通し、コンコンと玄関の床を爪先で軽く叩いて、革靴を足にフィットさせる。
これでもって、いよいよ女子高生登校仕様、の私が完成した。
玄関の鍵は、机に置いてあったキーホルダーと共に既に手の中にある。
私は、ゆっくりと玄関の扉を開けた。
がちゃりという大きな音と共に、ゆっくりと扉が開かれてゆく。
眩しい朝日を眼に受けると、私は思わず眼をしばたいた。
そしてそっと、自らの意思で身体を廊下側へと押しやる。
自分の肉体が、女になって、女子高生の服を着て、外出する。
ここまでの不思議が他にあるだろうか。
私はこの上なく、どきどきしていた。
これは興奮なのか、羞恥心なのか、高揚感なのか、はたまた。
私の足は、今まで感じたことのない外気の風を存分に浴びていた。
私はくるりと振り返り、玄関の鍵をかける。
ここからはもう、彼女としての、『私』としての時間だ。
出来る限り自分を消して、彼女として違和感を出さないようにしたい。
もっとも、私に出来ることなどたかが知れているが。
舞台に上がる役者のように自分を奮い立たせて、私は一歩を踏み出そうとしていた。
それから廊下を通り過ぎ、エレベーターに乗り込み、一階へと降りてエントランスへと向かう。
そこには自動ドアとオートロックのあるエントランスが私を出迎えてくれた。
ここはセキュリティのしっかりしているマンションのようだ。
室内も綺麗であったし、きっとそれなりにお高いのだろう。
流石はお嬢様学校に通う女子高生である。家も中々ということか。
エントランスの自動ドアを通り、私はいよいよ外へと繰り出す。
さて、ここからはスマホの出番だ。
彼女のスマホにパスワードがかかっていたらどうしようか、と思っていたのだが、指紋認証でロックを解除することが出来た。文明利器さまさまである。
私は彼女が向かうべき月夜見女学院を地図アプリで検索し、現在地の情報とリンクさせて、ルートナビを使うことにした。
すると自宅から数分の所に駅があり、そこからは電車に乗って一本、特に乗り換える必要もなく最寄り駅に到着するらしい。最寄り駅からはまた徒歩だが、どうやら駅の北側は殆ど学校の敷地内のように街路樹に囲まれた道路が広がっているらしい。
詳しくは知らなかったが、なるほどお嬢様学校としての貫禄は十分のようだ。
私はスマホに表示されるルートに従って、てくてくとコツコツと、歩みを進めた。
下半身に身に付けたスカートが、一歩一歩足を前に進める度に翻り、それがストッキングに包まれた足に当たる。そしてその合間に、スースーと風が下半身のデルタ部へと滑り込んでくる。
これがスカートを穿く、ということか。
私は生まれてはじめてのスカートの感覚を噛み締めていた。男の身分ではついぞ縁の無かった衣服だが、よもやこのような感覚であろうとは。
しかし、これは危険だ。
女性は皆そうなのか、それともこの彼女の肉体だけなのか、はたまた私の男の精神がそうさせるのか、余りにも感じすぎる。
なんというか、こう……ぞわぞわするのだ。
布の生地と風が、足と股間を撫でるだけなのに、どうしてこうも落ち着かない気分にさせられるのか。
まさか、こんなエッチな下着を身に付けているからではないのか!?
そんな考えさえ浮かんでくる。
私が原因では決してない、と言い張りたいが為に。
おまけに、少し歩いただけなのに通りすがりの人がじろじろと私を見てくるのだ。
まるで、私がどこぞの不審者か、あるいはどこぞの有名人であるかのように。
そんなに私が目立っているのか。私はそこまで変な格好をしているだろうか。
それとも、私が心のうちで良からぬ快楽に身悶えしていることを、皆がさとっているのではないか。
通行人の不躾な視線が、余計に私の脳を火照らせてゆく。
普通の背広を着た、何の変哲もないサラリーマンの男性が、私を追い抜いていく際など、じろじろ見続けられて、本当に落ち着かない。
彼女はいつも、こんな感覚のままで、日常を過ごしているのか。
これが女の普通なのか。それとも……。
やっとの思いで駅に到着した。
定期券はスマホケースとセットになっていたので、スマホをタッチして改札の中へと向かう。
ホームへと向かい、回りの人と同様にして乗車口の列へと並ぶ。
朝のラッシュ時間帯にはよくある、ごくごく普通の風景だ。
だが、自分の格好が自分の知っている、認識出来る格好と違うことが、ここまで自分の感覚をおかしくさせてしまうとは、想定外だった。
……物凄く見られているのが分かる。
これが普段から、女性が男性から感じている『不躾な視線』というやつか、と今更ながら心の中で独りごちる。
胸、尻、足、髪。それぞれ女性らしさを強調する部位には特に強く、虫が這いずり回るような視線をぞわぞわと感じる。これが更に強烈なものに進化すると、いわゆるストーカーなどというやつになるのだろうか。
私は列に並んでいるだけなのに、疲労と軽い頭痛を覚えた。
やっとのことで、待ち望んでいた電車がやってくる。
私は一も二もなく乗車をした。通路の途中くらいまで入り込み、吊り革に掴まる。もう片方の手で通学鞄を前に持ち、スカートを隠すような形になった。
しかしというかやはりというか、朝の通勤通学の時間帯なのもあり、電車は非常に混雑している。
こちとらつい数時間前までは由緒正しい自宅警備員である。既に人の多さに軽い酔いすら感じていた。
そんな中、スマホが振動を覚える。
どうやらメールのようだ。
最近は友人や職場の人とも通話、連絡を取れるアプリが当たり前だと思っていたので、今更メールとは古風な……と思ったが。
送られてきた人の名前は『エトワール』の文字。
一体誰だ、と思いながらもメールを開いてみる。
流石にこの名前で迷惑メールは無いだろう、と思いながら。
文面は、たった一言だけ。
『きをつけて』
何を? 何に?
私はきょとん、としてしまった。
意味が分からない。
相手も、文面も。何もかも。
これは、もしかしたら私に送られたのではなく、彼女に送られたのではないだろうか?
きっとそうだ。それならば合点がいく。
……だが。
もしかして。
私が彼女と入れ替わっている、そのことを知っている誰か、だとするなら。
用心する必要がある。
なぜ、そしてどうやってそのことを知ったのか。
更には、どこまで知っているのか。
私自身に、大きな不安が持ち上がっていくのを感じた。
自分を引きずり込んでいく、底の見えない沼の中で、たった一呼吸すら許されない息苦しさで身悶えする自分を思い浮かべてぞっとした。