16
その日の放課後、校長室に呼ばれた。
私は委員長に断りを入れてから、一人で校長室に向かった。
校長室に入ると、手前には大きなソファーが二つ左右に向かい合っており、その間には美しい木目のテーブルが、またそれらのセットの奥には古めかしい木の執務机と、更にその奥に机とセットになっているであろう一人用の椅子があった。
どれも妙に高級感があり、お茶などこぼしてしまったらと思うと迂闊に手に取るのが怖い。
そして部屋には一人、一番奥の椅子に女性が鎮座していた。
その女性は妙齢の女性であり、女性用のスーツを着こなしていた。そのスーツの色合いは多少華美ながらも決してけばけばしいものではなく、上品さ、優雅さ、高級さなどのを兼ね備えた佇まいが印象的であった。
彼女は足を組みながらもゆったりとした姿勢で、尚且つ他者への圧というか、命令をするのを苦に感じない、極端な言い方かもしれないが、生まれながらの女王様のようなオーラを醸し出していたように感じた。
私は部屋に入ると、大きなソファーに促される。
そこに座ると、奥に座っていた妙齢の女性が奥の椅子から手前のソファーへと移動してきて私の向かいへと座り、先ほどまでの態度とは打って変わって私に頭を下げ始めた。
「この度は、本当に申し訳なかった」
私は思わずびっくりしてしまうが、よく考えればそうなるだろう。
恐らくこの女性が、ここの学院の校長なのだろうと推察される。
そして普段は他の教師や生徒よりも上の立場の為、あのようなオーラを醸し出しているのだが、今回の場合は事が事だ。私に対しては真摯に謝ってくれているらしい。
それだけでも私としてはありがたい。今回の事件でも教師の方が立場が上であることを利用したり、権力をかさに着て私の証言を握り潰す、などという可能性も考えれられるのだから。
「いえ」
私はこの後の校長の発言が、どのような方向に転がるか分からない為、余り余計なことを言わないようにしながら簡潔に返事をする。
「我が学院の教師、しかも教頭ともあろう者が、自らの学校の生徒達に痴漢を働いていたというのは誠に恥ずべき事態だ。私の管理不足でもある。どんなに謝っても足りないだろう」
校長の言葉は割と無難な形で、私に謝罪をしてくれている。
そのことは非常にありがたいのだが、しかしだからと言って簡単に許せるものではない。
何しろこの身体の持ち主は、このことを恐らくは苦痛に感じていただろうから。
元男の私でさえ、あれだけの恐怖を感じたのだ。彼女であればなおさらだろう。
そして恐らく、他にも被害は大勢いたようだ。
教頭がどれだけ長く学院に勤めていたかは知らないが、あの様子では短い期間ということはないだろう。
きっとこれから余罪も幾つか出てくるはずだ。
そんなことを思っていると、校長は少し方向性の違う言葉を紡いだ。
「おまけに相手が君ときたものだ」
「?」
私だと何かあったのだろうか。
よく分からない、という顔を示すと校長は余計なことを言ったかな、という表情になる。
「……いや、なんでもない。無論誰であっても許されないことだ」
校長の言葉にコクリと頷く。
「とりあえず、あの男は捕まってこれからしっかりと罪を償っていくだろう。私も懲戒免職処分とさせて貰うことにする。他の学校にも今回の事は通達しておくので、もう二度とあの男が教職に就くことはあるまい」
「それは良かったです」
「君には言い訳にしか聞こえないかもしれないが、上の位に立つとどうしても生徒達のことに疎くなってしまってね」
確かにそれは被害を受けた私からすれば、誠にもって言い訳にしか聞こえてこなかった。
だがその言い分も客観的に聞けば分からなくもない。会社の社長が全社員のことをいちいち気に留めて会社を運営出来るかと言えば、会社の規模が大きくなるほど難しい話だからだ。
そしてこの学院も、生徒が十人二十人という規模では決してないので、校長からすれば生徒の一人一人全ての状況を把握する、というのは確かに難しいことだろう。
私はそんな校長の気持ちも分かってしまったので、簡単ではあるが、とあるアイディアを伝えてみることにした。
「なら、この部屋から出てもっと生徒達と話をしてみるといいですよ。出来れば身分を偽って」
「なに?」
「生徒と仲良くなって愚痴の一つでも聞けるようになると、生徒にとってももう少しいい学院生活が送れるようになるかも」
私の意見に対し、校長は真剣に耳を傾けている。
「なるほど。確かにそうかもしれないな。別にここでふんぞり返っている必要は一つも無い訳だ」
校長は大きく頷いていた。
「しかし、身分を偽るとはどうしたものか」
「食堂のおばちゃんとか、用務員のおばさんとか、そういう仕事の人に変装する、というのはどうですか?」
「おお、面白そうだな」
校長はにやりと笑う。
「それに変装すれば、この面倒くさい書類仕事ともおさらばだ」
「仕事はきちんとしてください」
「むぅ」
校長は少し不満そうな顔をした。妙齢の女性で、おまけに女王様タイプな人だと思っていたが、中々どうしてコロコロと表情が変わり、愛嬌もそれなりにある人物だなと思った。このようなタイプならば、もしどこぞのおばちゃんに紛れ込んだとしても、上手に生徒達からの信頼を手に入れて、色々と話も聞けるのではないだろうか。
まあ、このオーラをどこまで引っ込められるかが肝かもしれないが。
「では今度からそういうこともやってみて、生徒達から色々と情報集めでもしてみるかな」
「仕事に支障が出ない程度にお願いします」
「分かった分かった。しかし、この度は誠に申し訳なかった。再度謝らせてくれ」
「いえ。分かりました。それと」
「ん?」
「痴漢をしていた教頭は、毎日女共になじられたり馬鹿にされたりして不満を溜め込んでいた、と言っていました。それは生徒かもしれないし、あるいは上司である貴方かもしれません」
私の言葉に、校長は自覚があったのかばつの悪い顔になった。
「なるほど確かにそうかもしれないな。彼は余り優秀な方ではなかったのでね。また何より彼と私は意見が違ってね、彼はもっと生徒を締め付けたがっていたが、私は生徒に淑女たる美しさがあれば、あとは割と放任主義でいたかったのだ。その辺も含めて、彼は不満を覚えていたのだろう」
なるほど。でもまあそれを生徒にあたられて、おまけに性犯罪を犯してしまうのは間違いなく教師として、そして人として間違っている。
その様に思う私の顔を見て校長も、何か少し思う所があったのかもしれない。
それからお互いに言葉も無く、一呼吸の時間が流れた。
だが、校長もそこまで暇ではないのだろう、話を切り上げにかかった。
「まあ、また何かあればここを自由に訪れてくれ。私は歓迎するよ。それなりに」
「……はい」
「話は以上だ。後は好きにしたまえ」
「分かりました。色々とありがとうございました」
私はソファーの席を立ち、頭を下げて、校長室を後にする。
校長もその場で立ち、私よりもしっかりと頭を下げてくれた。
あの校長なら今後も同じことはないだろうし、きっとこれからも色々と心を配ってくれるだろう。
私はほっとしている。これでずっと悩んでいた痴漢の件も解決したのだな、と改めて思えたからだ。
きっと元の身体の持ち主にも、このことが知れれば良いのだが。
彼女は今、どうしているのだろうか。
そんなことを少し思いながら、私は教室へと戻った。
教室に一度戻ってから荷物をまとめ、部室棟へと向かった。今日は陸上部の練習に出ようと思ったのだ。
それに手伝ってくれた皆にお礼もしたいし。
私が部室に向かうと、部長である汀は勿論のこと、皆が歓迎してくれた。
大丈夫だったか、心配したんだぞ、等々。
私はその度にありがとうと心を砕く。今までの、自分の申し訳なさと共に、皆に感謝の言葉を述べていく形で。
だが皆も私に対して申し訳なさの気持ちを提供してくれた。そんなことないよと。気付けなくてごめんねと。
ああ、私はここにいていいんだなと思えた。
私は、この身体の持ち主の居場所を守れたのだろうかと。
あるいは、私がこの身体の持ち主と共に、新たな居場所を作れたのかなと。
そう思うと、不意に涙がこぼれた。
周りの皆は唖然とし、また慌ててはいたけれども、私のこれはきっと、悲しい涙ではない。
嬉しい、ほっとした涙なのだ。
だから、少しくらいは泣かせて欲しい。
皆に、改めて万感の思いを込めて、言おう。
ありがとう、と。
部活を終えると私は帰宅し、食事と風呂と勉学と、といったいつもの流れをこなし終わった夜、エトワールにメールをした。
『今日はついに痴漢を撃退した。相手は教頭だったんだけど無事捕まったのでもう被害は起きないはず』
そんな私のメールには、中々返信が送られてこなかった。
どうしたのだろう、もしかしてもう寝ているのだろうか、と少し心配になっていると、ようやく届いた。
『おめでとう』
なんだかシンプルな感じだ。まあいつものことか、とも思うけれど。
『良かったね 嬉しいね』
追記で送られてくるエトワールのメール。なんだかいつも通りの文面ではあるが、その中から色々と感じさせてくれるようなものを感じた。
上手く、言葉には言い表せられないけれど。
でもこれで、結構彼女が抱えていたトラブルを色々と解決してきたように思う。
親友との諍い、そして父親とのすれ違い、そして通学の際に襲われる痴漢被害。
私としても、平和な日常こそ大事なものだ。
厄介事に巻き込まれる時だって、平和だからこそスペクタクルなアドベンチャーに発展する。毎日スペクタクルでは大変なのだ。
ジェットコースターはたまの遊園地に行った機会に乗るから楽しいのであって、毎日朝から晩までジェットコースターではマトモな日常など一生行えまい。
それを踏まえれば、アドベンチャーを楽しめるのも日々の平和な日常あってこそなのだ。
もし平和な日常を謳歌しているのに、あー毎日つまらないなー退屈だなーとか思っている人は、今その瞬間こそが最高に幸せなことだというのを理解して欲しいものだ。是非。
そんなことを考えていると、エトワールから唐突な爆弾メールがやってきた。
そのメールは間違いなく、新たな厄介事の臭いをぷんぷんとさせていた。
『今度会わない?』