15
気持ちの良い目覚めの朝である。
今朝はいつも以上に気合を入れて、覚悟を決めて、朝の準備を終えて家を出る。
今日はいよいよ、痴漢という名のラスボスを倒す日だ。
なので出る時間も駅で並ぶホームの場所も、極めていつもの通りにする。
何より私の心意気が違うのだ。そして備えの方も万端である。
私が電車に乗り込んですし詰め状態になっていると、敵は案の定、私の後ろにぴたりと張り付くようにしてやってきた。
正直、来るかどうかは半信半疑だったが、この男は私以上に時間に正確な挙動をしているらしい。
そして以前と同じように、私のお尻をいやらしくこれでもかといった風に揉みしだく。
「まったく本当に懲りないねぇ。それとも好き者なのかな?」
そんな言葉を私の耳元で囁き、なおも私のお尻の形を汚らしい指で変化させてゆく。
今日も私はぞわりとする。気持ち悪い。死にたい。
でも今日こそこの男を倒すのだ。もう二度と被害を出さないように。
私は勿論、それ以外の人に対しても。
性犯罪は全て悪だということを、全世界に訴えてやるのだ。
その為に私は、この状況下でイニシアチブを取らなければならない。
だから私はまず、この痴漢野郎に話しかけることにしたのだ。
「なんで……こんなこと……するの?」
私の問いかけに答えるかどうかは分からなかったが、おじさんは案外素直だった。
「そりゃあ、私の目の前にエッチなお尻があるからだよ……毎日クソみたいな女共になじられ、馬鹿にされて、その溜まった鬱憤を同じ女で解消しているのさ」
「最低」
「私は最高だね。その言葉が聞けただけでも興奮が止まらないよ」
そう言いながら痴漢おじさんは私の布地の最も触れてはいけない所にまで、布越しではあるが触ってきた。
「ヒッ!?」
「そういう生意気な事を言う娘は、しっかり立場というものを分からせてあげないとねぇ」
ぐにぐにといじる。流石に気持ちが悪すぎて私は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
何よりも人間の急所なのだ。そんなところをいじられて、咄嗟に動ける人などいるのだろうか。
これでは私の覚悟も……そう思っていると、携帯の振動が聞こえた。
そういえば、エトワールは一番最初にもこの時間にメールを送ってくれていた。
彼は最初から、私がこの時間に嫌な思いをすることを、分かっていたのかもしれない。
そう考えると少し、元気が出てきた。
私は一人ではないのだ。
他にもこの計画を成功させる為に、多少ながら関係性を改善出来た、陸上部の生徒達にも協力をお願いしていた。
自宅の方向が同じ生徒が何人かいたので、同じ時間の同じ車両に乗って貰い、私の状況を確認し、証言して貰う為の人だ。
正直、自分の痴漢被害を打ち明けることには恐怖と羞恥があったが、いざ話すと皆悲しそうな顔をしたり、人によっては泣きながら私の話を聞いてくれた。
それによって、なんだか少し救われた気がしたのだ。
そして今後の作戦というか、手伝いをお願いしたところ、快諾して貰えた。
だからこそ私は、一人ではないことを実感出来ている。
乗った時には確認出来なかったけれど、きっと、そうきっと皆が周りにいてくれるはずだから。
だからこそ……そう、今こそ!
私が奮起すべき時なのだ!
私は、ぎゅっと拳を握り、自身に気持ちを込める。
もう私の降りるはずの、最寄り駅はすぐ迫ってきていた。
私はそおっと痴漢おじさんのスカートの下へと伸びている手に手を伸ばし、他人と間違えないようにその手首をがしりと掴んだ。
「えっ?」
変な声がおじさんから聞こえたが気にしない。
私はその手を堂々と上に掲げた。
「この人、痴漢です!」
周りの乗客が一斉に私と痴漢おじさんに目を向けた。
私の心臓は今もバクバクしている。
ああ、やってしまった。
だが自分は間違っていない!
なんて気持ちで。いつもよりも遥かに悪目立ちしているようで、ぞわぞわする。
そんな私とは裏腹に、痴漢おじさんは必死の形相である。
そりゃあそうだ。なんていったってここで自らの痴漢が衆目に晒されれば、今までの人生の全てが吹っ飛ぶのだから。
大博打の一本掛けで、今にも負けそうなのだから挽回も必死であろう。
おじさんは予想通り、慌てて言い訳を始める。
「な、なにを言っているんだ! 私はやっていないぞ」
「私見てました! おじさんが変な動きしてたの」
そう声を上げてくれたのは、私の近くにいてくれた女生徒の一人だ。彼女は私がお願いした生徒の一人である。
やはり近くにいてくれたようだ。本当にありがたい。
「私もー」
今度は金髪彼女ちゃんだ。毎度ながら彼女にはいつもお世話になっている。
「な、なにを!? 冤罪だ! 私はやっていない!!」
だが乗客は複数人からの声が聞こえたことに、益々(ますます)おじさんへの警戒心を強めていく。
「あれ?」
金髪彼女ちゃんは不思議そうな声を出した。
「どしたの?」
「このおじさん、ウチの教頭先生じゃない?」
周りの空気が、氷点下になったのが分かった。
「ヒッ!?」
おじさんも同時に、変な声を上げた。
私も思わず、自身の手が緩んでしまった気がした。
すると、丁度良い具合というか、タイミングが合った感じで電車が駅に到着し、扉がぷしゅぅと開いた。
沢山の人が降りていく流れが生まれ、その流れに乗るようにしておじさんは逃げようとしている。
だが、そんなことをしても無駄だ。
「逃げてもおじさんの繊維と私の体液がついてるから、ちゃんと捜査すれば一発でバレますよ。逃げれば逃げるだけ、警察からの印象は悪くなりますよ」
私はそうやって言葉を投げた。
すると、逃げようとしていたおじさんが私の方に向き直る。
おじさんの顔は、憤怒と化していた。
私はそこで、改めておじさんに恐怖を感じた。
「このっ、小娘の分際で、この私に逆らう気か!」
私の方に向かってきた痴漢おじさんこと教頭は、私のことをまるで悪鬼羅刹のように睨んできたが、私からすればこの男こそが悪鬼羅刹そのもののように思えてしまった。
自らが罪を犯した元凶だというのに、反省もせず言い訳を並べ、挙句の果てには逃げようとしたにも関わらず、私という被害者の小娘に煽られれば激情して私に向かってくるなど。
悪魔そのものではないか。
だがその悪魔に、私はまたも硬直して何らかの防御態勢を作ることが出来なかった。
反応が遅れてしまったのだ。
そんな私を見てにやりと笑う痴漢おじさん。
おじさんの拳が、腕が上がり、私の顔へ、身体へと照準を合わせる。
ああやはり私は勝てないのだろうか、この男に。
これからも性的に搾取される運命なのか。
こんな奴、どうにかなってしまえばいいのに。
私の勇気は、所詮これっぽっちだったのか。
私はそんな思いを抱えながらも、おじさんから受ける恐怖故に目をつぶってしまった。
だが、私にこの男の拳は届かなかった。
「いだだだだだっ!」
そんな男の声が聞こえ、私はゆっくりと瞼を開く。
すると私の目の前には、痴漢男の腕をひねり上げる担任教師こと柄鋤晶の姿があった。
「ウチの生徒に何手ぇ出しとんじゃー!」
あっ。
思わず彼女の素が出てしまっていた。昔は相当ヤンチャしてたからなぁ……。
だがこの場合はその圧力も、良い方向に進んだようである。
痴漢男はひっと小さく呟き、へなへなと座り込んでしまった。
柄鋤先生はその状態でも手を緩めず、私の方へと顔を向けた。
「アンタ大丈夫か!? ってあれ? 鴾連木さん?」
「柄鋤先生、ありがとうございます」
私の言葉に、柄鋤先生はにっこりと微笑んでくれた。
「いえいえ。生徒を守るのが教師の役目だから」
ああ、彼女の性根は変わってないなぁ、と思いつつも、彼女は私に顔を近付けて、こう言った。
「でも、私の言葉遣いは秘密にしてくれる?」
少し慌てていたのが懐かしく思えて、ちょっと可笑しかった。
私はにこりと笑って、誤魔化す。
その私の反応を見てどう思ったのだろうか、向こうも苦笑いをしていると、駅員さんが慌ててやってきたようだ。
どうやら生徒達や目撃者の人が呼んでくれたらしい。
「大丈夫ですか!? 痴漢というのは」
「この男です」
柄鋤先生は自らが腕を固めている男を顎で指し示す。
「ち、違う! 私じゃない!」
その声に違和感を感じたようだ。柄鋤先生は訝しげな顔をして、男の顔を覗き込んだ。
「えっ!? 教頭先生?」
……今まで気付いていなかったらしい。
「柄鋤先生、貴方の態度は目に余る。どうなっても知りませんぞ」
「私は上司の言葉よりも生徒達の言葉を信じます」
そう、はっきりと言う柄鋤先生は私の知っている昔の彼女で、なんだかここ一週間で見ている学院に馴染んだ先生、という感じよりも数段カッコよかった。
「とりあえず、話を聞かせて貰いますね」
駅員さんにそう言われて私達は皆それぞれ、駅員室の方へと連れて行かれた。
そこではおじさんと私達は別室に連れられ、それぞれ駅員さんに事情を話した。
私はこれまでもずっと被害を受けていたこと、今日はやっとの思いで、万感の思いを込めて、他の生徒と協力しておじさんの犯行を確認して捕まえたので、まず間違いはないことを伝えた。
学校には私達が遅れるということを駅と柄鋤先生がそれぞれ伝えてくれていたようで、結局お昼前くらいまで事情聴取はかかってしまったが、それでも教師達から何か咎められることはなかった。
そもそも先生も遅刻だし。きっと学校にいる教師達の中では、色々と話があったのだろうと思う。
そんなことよりもクラスメイトからはやいのやいのされて、私もちょっと誇らしかった。
どうやら私以外にも結構な生徒たちが被害に遭っていたようで、そういった被害者たちからも感謝されてしまった。
やっぱり皆、痴漢は怖いものなのだな、と思った。