13
帰宅。今日も疲れた。
結局あれから一日中、汀に懐かれて大変だった。
もしかして普段から彼女はこんなのに侵食されていたのか。
それを思うと、今までのアレはなんだったのだろうか。
静かな日常が、少し……恋しい。
そうは思いながらもいつものメールのお時間がやってくる。
今日もエトワールからのメールが届いていた。
いつもながらの簡素なやつだ。
『どう?』
……もう少し他に言葉はないのだろうか。
そう思いながらも、私は丁寧に応対する。
『今日はきちんと汀と仲直り出来た。嬉しい。ありがとう』
エトワールからの返信がすぐに届く。
『よかった いえいえ』
……別に構わないけれど、何というか……もう少しなんとかならんのか。
そう思っていたら、もう一通届いた。
『父親とは、どう?』
また曖昧な聞き方をされてしまったが、エトワールの言いたい事も分かる。
現状唯一の家族とも言える父親と、あの距離感というのもどうなのだろうか。
女子高生の娘と仕事の忙しいシングルファーザー。お互いにコミュニケーション不足になるのも頷ける。
おまけに娘は無口で寡黙(推定)。それを考えれば、父親からあんまり話しかけるのも難しいだろう。
案外相手が男性だからなんとかなるぞ! と最初は思っていたが、私自身からのアプローチは中々に難しく、正直取っ掛かりがとれずにいた。
『そう。どうしたらいいかな』
エトワールは先日やり取りしたように、家族の事情もそれなりに詳しいようだ。だからきっと良いアイディアを閃いてくれるかもしれない。
すると彼は、思いもよらない提案をしてきた。
『正直に話す』
何を? 何を正直に話せばよいのか?
自分が本人ではないこと? いや駄目だ駄目だ。
私が見ず知らずの他人と成り代わっていること? 絶対に駄目だ。
後はなんだ!? エトワールは何を正直に話せばいいといっているのか!?
私が混乱の渦に取り込まれていると、エトワールから新たなメールが届いた。
『父親に、素直に本音で話す』
『何を?』
『なに考えてるのか』
何を考えてるのか……か。
確かに、父と娘、お互いに襟を開いて正直に話せば、色々とわだかまりも多少は無くなるかもしれない。
なるほど悪くない案だ。
しかし……
『私って普段、何を考えてるんだろう』
『知らない』
その通りだ。
ただお互いに、気まずい空気が流れない程度に普通に話したいだけなのだが……案外難しい。
『嫌いじゃないのが伝わればいい』
『かも』
なぜか二通に分かれてきたエトワールのメール。
嫌いじゃないのが伝わればいい……父親から見て、自分の娘がどれくらい自分を好きか、あるいは思春期にどれくらい自分である異性の親が嫌いになったのか、その情報は喉から手が出るほど欲しいはずだ。
なにせ、ほんの五年十年前までは『パパ~♪』なんて可愛らしい声を出しながら、父親である自分にひっついてきたはずが、制服を着てお洒落をする頃には『洗濯物は別にして』とか『信じらんないマジ最悪』とか抜かしてくるのだ。目まぐるしさに全国の父親はついてこれないだろう。
だが一部には、この反抗期も訪れずに大きくなるまで父親べったりの娘もいるので、不思議なものだ。
とにかく現状の何も会話の無い状況から、私自身が父親を嫌悪していない、別に普通に思っている、それよりももう少し普通の家族としての会話が欲しい、家族として日常会話が出来る程度には仲良くしたい、これくらいの進展を臨むことにしよう。
『ありがとう。がんばってみる』
私の返信に、エトワールはこう返してきた。
『がんばって』
短い言葉だが、それなりの情を感じた。
さて、父親とのミッションであるが。
そもそも父親が余り帰ってこない。帰ってきても夜遅い。
私が寝る頃かその後にやっと帰ってきて、そして私が朝起きる頃には既に出掛けている。
そんなに仕事が忙しいのか。何の仕事をしているのか。やはりブラックなのか。
例えブラックだったとしても、かなりのお嬢様学校に入れさせて貰っているし、住まいも中々に高級なマンションであるので、高給取りには違いない。
そう考えると、労働時間はブラックかもしれないが、それなりの仕事をしていることは事実だ。
あるいは、最近流行りの副業をしているのかも……とも思ったが、あれだけの拘束時間があるのに副業は中々……うん、大変そうだ。
まあ今の私に出来ることと言えば、父親との話が出来るタイミングを、じっくりと待って、そして余り難しく考えることなく、ただ『別に嫌いじゃないよ』くらいの言葉を父親である彼に届ければ、ミッションクリアといえるだろう。
そのように考えてはいたが、今晩も彼はまるで帰ってくる気配がない。
私は今日も難しいな、と思い、就寝した。
翌日の朝も、いつも通り父親は既に家にいなかった。
そもそも本当に帰宅しているのだろうか、とも思ったが、脱衣所や洗面所が多少湿っているので、恐らく帰宅+朝シャワーもしくは風呂、そして最低限の着替えなどは済ませているようである。
私は今日もいつものルーティーンをして、学校へ向かった。
洗濯物は、一緒に回しておいた。
今日も一日汀に付きまとわれたり授業を聞いて委員長と復習をし、部活動を行って汀や金髪彼女ちゃんとしっかりと汗をかいて一日を終え、帰路へと向かう。
今日は久々に帰りにスーパーに寄って、晩御飯の買い出しを行うことにした。
冷蔵庫にある食べ物が減ってきたこともある。流石に一週間で材料は粗方使い切ってしまった。
あの後は肉じゃがを作った。カレーとほぼ材料が同じなので、そこまで難しくはない。
味付けが難しいかと思えば、和食系の味付けはめんつゆで誤魔化せるので割と何とかなる。
そんな訳で冷蔵庫も、まるで一人暮らしのおっさんの様にお酒とおつまみくらいしか残っていないのだ。
本当ならば休みの土日で行っても良かったのだが、土日に出掛けたくはなかった。
何しろこの身体である。人混みではさぞ目立つことだろう。
まだ平日の方が良い……気がする。
という訳で今晩のメニューを考えながら買い物をして、スーパーを出る。
今日のメニューは親子丼にする予定である。
結構難しそうな料理に見えるが、実は案外簡単なのだ。
あのふわとろの親子丼が自身でどこまで再現出来るかは分からないが、試してみる価値はあるだろう。
私は美味しそうな夕飯を想像し楽しみにしながら、家路への足を少し早めた。
やっと自宅に辿り着いたのでまずはお風呂を沸かし、そしていよいよ夕飯の準備へと取り掛かる。
まずはお米を炊いて、火にかけるまでの準備をする。
玉ねぎをざくざくと適当に切って、鶏肉は一口サイズに。男性ならば多少大きくても構わないのだが、今は女性の身体なので少し小振りに切る。
それから鍋に火をかけて、温かくなったら鶏肉を放り込み、少し火を通したら今度は玉ねぎを投入。
あとはいい感じに火を通して、めんつゆをどばーっと入れて、染み込ませたら溶き卵を一回し。ふわとろにしたいので卵はもう一回し。すぐに火を止めてあとは余熱で。これで大体出来上がりだ。
こうして見るとそこまで色々気を使わなくてもよいので、やはり作る側としてはそこそこ簡単な部類だと思う。ふわとろにならなくなることはあっても、味付けで妙なものを入れなければ、割と問題はあるまい。
私はお茶碗にご飯をよそい、ちょいちょいと具材をのせる。
丼といいながら茶碗で食べる。今の私にはこれで充分なのだ。
本当にこの身体は男の時分と比べて食が細くなったことを実感する。たったこれだけの量で明日の朝どころか明日の夜くらいまで持ちそうだ。
いただきまーす、さて食べようか……そんなタイミングでガチャリと玄関の扉から音がした。
まさかの父、帰還である。今日はどうしたのか。
リビングに入ってくると私の顔を見て固まった。
「た……ただいま」
「おかえり」
うーむ、やはり気まずい。ここは一言。
「親子丼作ったけど、食べる?」
「え? あ、ああ食べるよ。でも先に着替えてくるから」
「分かった。どんぶり?」
「ああ」
そういうが早いや、そそくさと鞄を持って自室に向かっていった。
私はその間に、戸棚から適当などんぶりを探し、ご飯をよそい、その上にとろとろの具材をふわりと乗っける。
緑が無いが、まあその辺はご愛嬌ということで。
男飯なんてこんなものだ。もっとも今は男ではないが。
さて席にどんぶりと箸を並べる。飲み物は、と思ってふと立ち止まった。
こういう時って、ビールの一杯も用意した方がよいのだろうか。
うーんと考えていると、父親がリビングへと戻ってきた。
「いやぁいいにおいだなぁ。父さんお腹ぺこぺこだ」
「お酒いる?」
「いや、まずはご飯を味わってからにしよう。さてさて……」
そう言いながら父親は自分の席へと座った。
つられるようにして私も席につく。
「いただきます」
「いただきます」
必要な儀式を行い、一口目を口へと運んだ。
とろとろの卵とめんつゆ味の染み込んだ鶏肉と玉ねぎ。白飯とのコントラストの眩しさを目で味わいながら、舌はシンプルな和食の味を堪能する。
私はちょびちょびと口に運んでいたが、父親はがつがつどころかがっふがっふと、正直外では見せられないなぁと思うくらいの食べっぷりを披露していた。
「うまい! うまいなぁこの親子丼! お店で出てくるのよりもうまいぞ!」
「そんなことないと思うけど」
「いやぁ父さんにとっては間違いなく日本一だ!」
なんだこの褒め殺し。大したことないんだけどなぁ。
決して私は、今も昔も料理が上手だと思ったことはない。基本に忠実に、最低限のことをこなしているだけだ。
余計なことはしない。料理なんて科学実験とかプログラムの類いと同じだ。実験でいうなら、材料を揃えて手順通りに必要な行動をし、それを順序よく混ぜ合わせる。それだけの話。プログラムでいうなら、必要なコードを書けば、機械はその命令通りに動いてくれる。余計な文字があったら動かない。料理も余計なモノを入れたら美味しく完成しない。ただ、それだけ。
実験にもプログラムにも、作業者のオリジナルなど必要ない。そこを勘違いした料理人は、ゲテモノ料理のエキスパートへと進化する。
「本当に難しくないってば。多分……父さんにも出来るよ」
父親のことを『父さん』と呼んでしまった。今までの呼称が分からないので、なんと呼ぼうか迷っていたのだが、父親自身が私に向かって『父さん』と一人称を使うことから、多分これで問題はないかな、と思ったのだけれど。
私のどきどきを意にも介さず、父親は私の言葉に反応した。
「そうなのか? 私にもこんなうまい親子丼が作れると?」
「うん。今度一緒にやってみる?」
「一緒に? それは……嬉しいな……」
そう言ってへらりと笑う。なんだろうその笑みは。
少し自信なさげな笑みだ。何かおかしなことを言っただろうか。少し考えながら身構える。
すると、父親は少しトーンを下げて、私に問い掛けてきた。
「お前は……薫は、私のことが嫌いじゃないのか?」
……あーなるほど。こうやって誤解をされていたのか。
私はここだ! と思って畳み掛けた。
「別に。嫌いじゃないよ。むしろ普通の人よりは好きな方だよ」
「ほ、本当か!?」
父親は勢い余って立ち上がっていたが、私は冷静に切り返す。
「だって私のこと一人で育ててくれてるでしょ。立派だよ」
「そ、そうか……」
父親は立ち上がっていた腰を下ろして、同時に私を睨むように見ていた視線も下に向けて、自身の親子丼の器をじっと見ていた。
「うっ……うっ……」
すると、父親がさめざめと泣き出したではないか。
感情の揺れ幅が大きい父親だ。
「どしたの?」
「いや、毎日頑張ってきてよかったなぁって……」
「うん」
「母さんと離ればなれでさみしくないかって」
「うん」
「本当は私じゃなくて、母さんに預けた方が良かったのかなって」
「うん」
「ずっと……不安だったんだ」
「うん……」
父親の方も、自分の娘と上手く会話が出来なくて、思考の袋小路に入り込んでしまっていたのだろう。
それが今日、ひょんなことから道がひらけたのだ。
ちょっと感情が溢れ出したりするのも、仕方がないだろう。
「別に私、不満とかそこまでないから」
「そ、そうか?」
「今の生活も、嫌いじゃないし」
「そうか……」
今なら、聞けるかもしれない。
私は勇気を出して、彼に聞いてみることにする。
両親の、離婚の理由を。
「そういえば母さんとは……どうして、別れたの?」