12
五日目。
早くも五日目である。一週間も終わりそうだ。
カレンダーで以前確認したところ、初日が月曜日だったので今日は金曜日である。
朝は憂鬱だ。何故なら……あの紳士でない変態が出没するから。
流石に三度目はない。絶対にない。
もう怖くて動けないとか脅されてどうにもならないとか、そんなことのないようにしたい。
今日も今日とて、いつもの電車に乗り込む。
いつものような暗澹たる気持ちではなく、憎き相手に対する想いを抱えていざ鎌倉! の気持ちだった。
ぶるりとした武者震いが私を襲う。
今日だけは私は武士だ。侍だ。いや女だからちょっと違うのか?
そんな益体も無い事を考えつつ電車に乗り、そして最寄り駅で降りる。
本日は痴漢被害に遭遇せず。ほっとした息が漏れる。
だがこのままではまたいずれ遭遇してしまうだろう。何とか対策を練らなければ……。
しかし、今日のメインイベントは別にある。
そう、陸上部での勝負である。
親友である彼女、厂汀との百メートル走一騎打ち。
この真剣勝負に水を差さないように、出来れば私が……負けた方が良いのだろうか。
いやいやそういう余計な事を考えずに、今の自分のポテンシャルを最大限発揮して、素直に勝負すればきっと彼女も分かってくれるだろう。
そう思いながら今日も、私は自分の教室へと、自分の席へと座って、一日が過ぎるのを待った。
相も変わらず難解な授業の続く一日をやっとこさ終え、私は部室へと赴く。
こちらの方がよりいざ鎌倉! という強い気持ちで部室へと逸る気持ちのままに向かった。
いよいよ今日こそが、お互いの決着をつける時であり、またお互いのわだかまりを解く時でもある。
私は昨日と同じように、一度トイレで着替えを行ってから荷物をまとめ、自分のロッカーへと衣服一式をしまい、グラウンドへと降り立った。
私の対戦相手であろうはずの彼女は、今までとは違う、私と同じような恰好である陸上試合で着用するユニフォームに身を包んでおり、身体をほぐすためのストレッチを行っていた。
私も同様にゆっくりと身体をほぐして、最高のパフォーマンスを発揮できる状態へと仕上げていく。
そして同時に、心を、精神をも研ぎ澄ませてゆく。まるで自身は切れ味鋭い日本刀のように。あるいは一騎当千の万夫が使う、朱塗りの槍のように。折れず、曲がらず、ただ一心にゴールを貫くだけの、槍に。自身を強靭に、そして狂人にしてゆく。
私がそのような準備をしている中で、彼女もじりじりときりきりと、自らが纏う空気を変化させているのが肌で感じ取れた。私は軽くスタートの練習を数回して、今日のコンディションを確認し、調整してゆく。
そうして私と彼女の二人は、出来上がった。目にこそ見えないが互いにきっと物凄いオーラが出ていることだろう。他の部員達どころか、別の部活動の生徒すらも、幾人かは動きを止めて、私達の勝負へと注視しているのが分かった。
「いよいよだな」
「うん」
「今度こそ、全力で頼む」
「分かった」
言葉少なに会話する。
お互いにスタートラインの前に立ち、構える。
距離はシンプルに、直線百メートル。
一切の妥協無し。
スタートの合図は、私達よりも斜め前方にいる部員が、手を上げて下ろす仕草だ。
彼女の声が、耳鳴りのように届いた。
「位置についてぇー」
合図を行う部員が、手を上げた。
私達二人は、ぐっと腰を上げて、この細い身体に積んだトルクエンジンを吹かす。
部員の手が……今下ろされた!
私達はほぼ同時に走り出す。スタートの出来はまずまずだ。ここから身体を起こし、腕を振り、身体が千切れるまで自身のトルクを回す。
私の右には彼女がいるだろう。だが目線で追う余裕などない。見えているのは正面遠くにあるゴールのみだ。
彼女のことは、息遣いや風圧、そしてなによりオーラで感じ取れる。びんびんに感じる、彼女の『負けたくない』という意思が。
三十メートルがあっという間に過ぎ、ここから中盤戦である。
ここからは序盤に生まれた差をいかに離し、あるいは追い付こうとしながら、自身のストロークを調整しつつ自分を絞り出す区間だ。
だが、すぐ横を走る相手との差はほぼない。なので今は調整も何もあったものではなく、ただ今の自分を絞り出すだけの区間になる。
正直この状況が一番きつい。良くも悪くも相手と差が出来ていれば、色々とコントロールがきくのだが、相手との差が無い状況では、そういう頭脳的プレーが難しくなる。
もっとも、百メートルでそこまでのことを考えて走る人もいないのかもしれないが。
実際に走ったことのある人には分かるかと思うが、人が全力で走り尽くせるのは二百メートルが限界だと言われている。三百、あるいは四百メートル以上を走ろうとすると、最初から全力で走っていると中盤から終盤にかけてバテがくるのだ。
なので二百メートルまでは、余りそういったコントロールをしない人の方が普通かもしれない。
だがこの肉体に宿る、見えない彼女の思考は少し違っていた。
もっと全身の、細部の隅々までコントロールを意識すれば、全身のステータスが多少だが底上げ出来る、らしい。本当かどうかは知らないが。
だから日々コントロールをしろ、と身体が訴えてくるのだ。
お陰で以前の身体のような自堕落な生活をしなくて済んでいるのだが。
だが、今はそのようなコントロールを行う以前の状況であった。
本当に、自分を出し尽くしての勝負でないと、彼女も納得しないであろう。
私はまた、一段とギアを上げて身体を前のめりにするように、ゴールだけを目指す。
既に残りの距離は二十メートルを切っていた。
彼女との差は、相変わらず殆どついていない。
だが、気持ち半身だけ、彼女の方が前に出ている気がする。
私の右目の視界に、今まで見えていなかった彼女が、ちらちらと映るようになっていたからだ。
負けたくない。
こんなに真剣な勝負事など、いつ以来だろうか。
私の心に、改めて火がついた。
私は更に自分を絞り上げて、もうゴールの後は走れなくなっても、立てなくなってもいいとさえ思い、足の回転速度を上げる。
息を吐くのがもどかしくなるほどの酸素を欲し、それでもなお足りず、もどかしく思いながらもまた吸い、吐き出す。
両手を千切れんばかりに前後に振り、それでも届かない、目の前の、僅かな先へ。
そうして私達二人は、短くも遠い百メートルを、走り切った。
ゴールと同時に、二人は転がるように倒れ込む。
剥き出しの、茶色い地面へと。
自分が、ユニフォームが汚れるのもお構いなしに。
肺が、苦しい。
脳が、視界が霞む。きっと酸素が足りていないのだろう。
意識がぼうっとしてくる。
くらくらする。立ってもいないのに立ちくらみだ。
仰向けになって、大空を見やる。
空には雲一つなく、見事なまでの快晴だ。
鳥の一匹すら見当たらず、ただただ水色の絵の具を溶いてこぼしたような、手に届きそうで届かない、そんな空がどこまでも広がって見えた。
空はいつも、自由だった。
私は、負けた。
彼女の方が、半歩先に身体をゴールラインにねじ込んでいたのを視界に捉えた。
彼女も私同様に倒れてはいるが、視界の外から喜びを感じる。恐らく私に勝ったのが分かっているのだろう。
こんなに軽い身体を全身で走らせたにも関わらず、負けた。
私はあんなことは言いつつも、きっと勝ってしまうだろうとどこかで自惚れていた気がする。
それほどこの身体はパーフェクトだったように思っていた。
だが実際には、彼女の方が半歩、早かった。
それだけ彼女が努力し、パフォーマンスを発揮したということだ。
しかし、これ以上の言葉は不要だ。
私は、負けたのだ。
そのことを改めて自覚すると、どうしてかふいに、鼻の奥がつんとしてきた。
そして、視界がじんわりと滲み、嗚咽が漏れる。
「うっ、ぐっ、ひっく」
私は、自分でも自覚のないほどに、悔しかったらしい。
それを理性で感じる間もなく、身体の方が堪え切れなかったようだ。
私の身体が、悔しさで爆発しそうになる。
咄嗟に両腕で顔を隠すが、きっと周りには伝わっているだろう。
鉄仮面の、能面の、凍りのような私が、無様に負けて泣いていることが。
そのせいか、あるいはそのお陰か、私の周りには誰も近付いてこなかった。
「ひっく、うぐぅ、ぐずっ」
汚らしい音がグラウンドの一部で聞こえている。
私の耳がその音を、遠くから聞こえる乾いた音と同時に拾ってくる。
恥ずかしい。消えてしまいたい。
そして何より、悔しい。
自分自身が不甲斐ない。
これは私の身体が感じているのか、それともこの身体を使わせて貰っている私自身か。
どうにもぐちゃぐちゃになりながら、私は身体を起こすまでもなく、涙を流していた。
少し落ち着いたのだろうか、涙は引っ込んだが鼻が非道かったので、水飲み場の蛇口へと無言で向かう。
誰も私へと構わなかったので、そういう意味では安心だった。
もっとも、負けた私に構う必要などなかったのかもしれないが。
水飲み場に着き、蛇口を上に向けて顔を洗う。
みっともないが、そこでそのまま鼻までかんでしまった。
美少女にあるまじき行為だが、今ならば神様だって許してくれるはずだ。
そうして泣き腫らした顔が多少マシになったと思い、顔を上げると横からタオルが差し出された。
無言でそれを受け取り、顔を拭く。
すると、横に立っていたのは金髪彼女ちゃんだった。
「お疲れ様です、先輩」
「……ありがと」
少しの沈黙が、場を支配する。
私は顔を拭き終わったので、一緒に濡れてしまった髪を、軽く拭いてゆく。
「……勝負、残念でしたね」
「うん」
「でもなんか、今日は今日で恰好良かったです。いつものクールな走りじゃなくて、なんかこう、全力というか、鬼気迫るというか」
「そう」
「いつもの先輩も勿論格好良いんですけど、今日はまた見応えがありました。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」
「え、何がですか?」
「タオル」
私はそう言って、彼女にタオルを返した。
「いえいえ。いつも私がして貰ってることに比べたら、全然足りてませんから」
「そう」
普段私が彼女に何をしていたのかはよく分からないけれど、間違いなく今の私の方が、受け取っているのは多い気がするのだが。
本当はもう少しお礼を伝えたいのだ、と思って更に声を掛けようとしたが。
「薫!」
そんな声が外から飛んできた。彼女だ。
「ありがとう。本気で走ってくれて」
「私はいつも本気」
「例え薫にとってはそうでも、周りにはそう感じられなかった。すくなくとも今日までは。だが今日は、間違いなく薫の本気だったと分かった。本当に嬉しい」
それは先ほど金髪彼女ちゃんが言った通り、私の走りがいつもと違ったからか、あるいは私が、負けて泣いてしまったからか。
聞いてみたい気もするが、藪蛇な気もするので黙っていた。
「そう」
「しかしだ、私は一つだけ、言っておきたいことがある」
そう言って彼女は凄んだ。
「……なに?」
「今日はたまたま私が勝ったが、私は今でもお前が、薫こそが最速最強だと信じている。これだけは譲れない」
……何を言っているのだろうか、彼女は。
つい今しがた、彼女自身が私よりも早いことを証明したではないか。
「そんなことないよ」
私の言葉に、彼女はむっとした。
「全く薫はいつも頑固な奴だな。私はかつて見た、薫の何者をも寄せ付けない、あの走りに感動して、憧れて陸上を始めたんだ。だから間違いなく、薫の方が上なんだ」
「違うよ」
「違わない」
「違うよ」
「違わない!」
頑固なのはどちらなのか。私にははっきりと分かる。
「違うよ」
「違わない! いいか! もう一度言うぞ! 薫は私よりもずっとすごくて!」
「すごくない」
「ずっと強くて! 早くて!」
「あなたとそんなに違わない」
彼女がムキになって大きな声を出し始めた。私は逆に彼女のそんな部分を見て、少し冷静になれた。
そして彼女は続ける。
「おまけに陸上以外だってなんでもできて!」
「そんなことない」
「へこたれなくて」
「へこたれたよ さっきの見たでしょ」
「うぅ……だが! ずっと! ずっと昔から! お前は、薫は私のヒーローなんだ!」
彼女は叫んだ。彼女の気持ちが本当によく伝わってくる。
彼女は恐らく今も昔も、周りがびっくりするくらいにとても真っ直ぐなのだ。
傍から見れば、危なっかしくも見える。
だが、それが今の私の身体、この元の人物には、きっと心地よかったのだろう。
そんな気持ちさえ察せられた。
しかしながら、今の私の目の前に立つ彼女には、一つ、大事なことを教えてやらねばならない。
私は一つ呼吸を置いて、彼女に話し始めた。
「あなたが見てるのは、あなたが作った幻想の私」
「そんな」
「幻想の私を見るのは自由だけれど、でも今はあなたの方が強い」
「そんな……」
「今しがた証明された」
「でも……」
私は畳み掛ける。
「あなたはヒーローであった私を目指して、今私に辿り着いた。これからは、いやもう既に、あなたは誰かのヒーローになってる」
「そんな……私には無理だ」
彼女はかぶりを振った。でも、私は知っている。
その答えを教える為に、私はもう少しだけ、言葉を紡いだ。
「そんなことないよ。ほら」
私は周りにいた子たちを見る。
「そうです! 私は部長の走りを見て、ここに来たんです!」
「私もそうです! 部長の走りは力強くて軽やかで、とても美しいんです!」
「私にとっては 部長こそがヒーローなんです!」
何人もの子たちが、彼女に向かって照れ臭いまでの褒め言葉を散りばめて、私達に投げつけてくる。
「そう……なのか。私が……そんなに輝いて見えるのか?」
「はい!」
「私はもう……ヒーローなのか?」
「はい!」
「そうか……ふふ、私もまだまだ知らないことばかりだな」
彼女はそう言って、立ち上がった。
先ほどの荒ぶる彼女は、既にそこにはいなかった。
今の彼女は、試合前に私が見ていた、凛として輝く陸上部部長の汀だった。
そんな彼女は私に語り掛けてくる。
「私は未だに薫の後塵を拝していると思っていたが、既に私は誰かを導く、薫のような存在になっていたのだな」
「私はそうでもないけれど」
「薫のそういう謙遜なのかよく分からない、自覚のない発言は未だにイラッとするよ」
「ごめん」
「いいんだ。そういう薫も嫌いじゃないからな」
「そう」
「はぁー、なんだかスッキリした。今日は久々にぐっすり眠れそうだ」
「それは良かった」
私も彼女とのいざこざが解決して、ほっとした。
「明日から、またよろしくな」
「うん」
私と彼女の仲は、これで元通りとなった。はず。
それから今日は軽く陸上部としての練習をして、少し早めに上がらせて貰った。
自宅での諸々もあるので。そういうのが許されているのも、この部活はありがたい。
あるいは私にだけ特別待遇とかなのだろうか。それはそれで申し訳ない気もするが。
そしてまた食事と風呂を終え、寝間着に着替えて復習を行い、布団に入って私はエトワールにメールをした。
『親友の汀の仲違い、なんとかなったと思う』
そうするとすぐに返信があった。エトワール早いな。
『おめ』
二文字である。もっとなんかないのか。
でも文字数よりも、返信してきた速度の方が、私には嬉しかった。
と思ったらもう一通メールがきた。
『でとう』
……いや、慌てすぎだろエトワール。
おっちょこちょいなのか、それだけ嬉しかったのかは分からないが、段々こいつも憎めないやつだと思えてきた私がいた。
土日を挟んだ翌週の月曜日。
自分の教室に到着した後、席に座ってゆっくりしていると、唐突に教室の扉がパァン! と開いた。
びっくりしてそっちに目を向けると、そこには彼女がいた。
そう、陸上部での私の親友である汀である。
「みな御機嫌よう! そして薫、御機嫌ようだ!」
……あれ、彼女ってそういうキャラなの?
私の戸惑いなど気付く間もなく、彼女は私の席へと突進してきて、そして私に抱き着いてきた。
「あぁーやはり朝の一服は堪らないなぁ。どうして薫はいつもこんなにいい匂いなんだ
ぁ?」
あれ? あれあれ?
「やめて」
「何を言っているんだもう一週間くんかくんかしていないんだぞ! 一週間分を充電するのには相当の時間が」
「やめて」
私の冷たく拒否する言葉もどこ吹く風だ。
「はぁー……我、至福の時」
「……」
なぜ彼女はこいつと親友だったのだろうか。
よく分からない。
だが彼女が私の匂いを嗅げるのであれば、同時に私も彼女の匂いを嗅ぐことが可能なのであって……。
そこまで気付いて、ちょっとだけ実践してみる。
……うん、やめよう。
私は今この瞬間、この肉体で良かったと心底思った。
理性の箍が外れるような可能性があっても、この肉体ならばどうにも出来ないからだ。
こうして私は、くんくん彼女との仲は元通りとなった。
……多分。