10
そうこうしてはや数日が過ぎた。今日は私が彼女になってから四日目である。
段々朝のルーティーンも慣れてきた。朝起きて洗濯してご飯食べて着替えて洗濯干して出発。
周りからの視線は一向に減らないし、この服装というか恰好も決して慣れた訳ではないのだけれど、それでも数日過ごせば愛着も湧いてくるものだ。足がさわさわするのは変わらないが。
駅でいつものように満員電車に乗り込む。これも流石に慣れないが、それでも過ごし方というか居場所の落ち着け方もある程度身に着けていた。
そんな私は間違いなく油断していたであろう。背後に立つ不気味な存在に気付けずにいた。
私はまたも、自らのお尻に生暖かい感触が当たるのを感じた。
『ヒッ』
と声にならない声が喉を通る。
私は初日に受けた恐怖を思い起こしていた。身体がびしりと硬直する。
相手のおじさんは私の顔に、耳に己を顔を、口を近付けてきた。
「逃げられないよ。逃がさないからね」
その言葉に震えが止まらない。恐らくだがこの男は先日のおじさんと同一人物のような気がする。
私に執着しているのか。他にも女子高生は沢山いると思うのだが。
いや、学校でも私はこれだけ目立っているのだ。その私に執着する男がいてもなんら不思議はあるまい。
しかしだからと言って、私が、いやこの身体に痴漢をして良いことなど決してない。
きちんと真っすぐ向かってきて欲しいものだ。
まあ、普通ならばこれ以上の関係に発展することなど断固お断り申し上げるが。
色々考えつつも動きたい、逃げたいのだがどうにも動けない。
身体が麻痺してしまっている、といった方が正しいかもしれない。
私がどうにかしようとしても、この痴漢行為をしている相手は私を逃がすことなくうにうにと手が動いている。
寒くて鳥肌が立つというのは理解出来るが、青褪めるような恐怖で鳥肌が立つというのを今、文字通り肌で実感させられていた。
悔しい。
自分が不甲斐ないのが本当に悔しい。
結局今日も降りる最寄り駅に到着すると、いつの間にか男は消えていた。
犯人はしっかりと私の学校を把握しているのだろう。まあこの辺では大きな学校だから当然といえば当然だが。
私のひしゃげた、凹んだ心にまた風船のように空気を入れる必要がある。
今日もトイレに籠って私はひしゃげた心を取り戻していた。
今回はきちんと確認したので女性用に入れた。流石にあのようなうっかりはすまい。
だが、何とかしたい。
毎度こうしてトイレに籠って自身の情けなさに対応していたのでは、埒が明かない。
何より悪いのは向こうなのだから、もう少し自身の気持ちを奮い立たせるような状態で、電車通学をせねばなるまい。
どうにも溜息が漏れる。自分では如何ともしがたく。
しかし……しかし!
私のぐるぐるとした思考は結局何も結論を出せなかった。
勇気を出す必要がある自分と、その勇気を本番で出せない自分。
自分を変える必要があるのだが、そのきっかけが分からない自分。
私は再度、溜息を吐いた。
この溜息こそが、今の私を象徴しているであろう。
トイレを出て、学校へと向かうことにする。
今日はトイレで泣くことはなかった。だが決して慣れてはいけないとも思えた。
私はそのまま改札を通り通学路を歩く。
すると登校時間がずれて一緒になったのか、先日の金髪彼女ちゃんと一緒になった。
「先輩ー御機嫌ようですー」
「御機嫌よう」
私の挨拶ににへへーと返してくれる金髪彼女ちゃんである。第一印象の見た目では割ときりっとしている系に見えるのに、実際の対応というか反応はほんわか系であり、そのギャップも含めて実に可愛らしい娘である。
今日も彼女の声は少し伸びながらも弾んでおり、その事はまさしく私と喋れている今の時間が幸せだから、だと思いたい。
「そういえば先輩ー、いつになったらまた部活に来てくれるんですかー?」
「え?」
「私さみしいですよー。先輩が来てくれないとー」
「私と部活、一緒?」
私がきょとんとしながら聞くと、金髪彼女ちゃんはしょんぼりしてしまった。
「先輩……もしかして、私のこと知らなかったんですか? あんなに挨拶してたのに……」
「いや、そういう訳じゃなくて……集中してると、どうしても、ね」
「うぅ、ホントですかぁ? どーせ誰にも興味なかったんでしょ?」
そう言われると、本当に誰にも挨拶をしないようなタイプであろう元の彼女ならば、あり得るかもしれない。
私は曖昧な顔で笑って返す……だが、その顔に金髪彼女ちゃんは目を大きく見開いて顔を赤くし始めた。
どうしたのかと思いきや、彼女は教えてくれた。
「あっ……そんな、笑ってごまかすなんてずるいですよぉ……そんな顔されたらぁ、これ以上は何も言えなくなっちゃう……」
この顔での笑いは、曖昧な苦笑いでも破壊力は充分だったらしい。
なるほどやっぱり美人は得だな、などと馬鹿なことを考えながら、どうすれば彼女の怒りを雲散霧消出来るか。
答えは一つだ。
私は少し申し訳なさそうな顔をしながら、彼女の目を正面から見つめて、弱弱しくこう告げた。
「ごめん、ね?」
もしかしたら背景におかしな擬音が飛び交っているかもしれない。
それくらい、金髪彼女ちゃんにはドストライクだったらしい。
俯いて真っ赤になって何も言えなくなってしまった。
よしっ、と心の中でガッツポーズをする。
さて先ほどから話していた話題はなんだったろうか。そうだ部活の話だ。
「部活ね。陸上部か。またいずれ顔を出しに行くから」
「ホントですか!? 楽しみにしてますー」
金髪彼女ちゃんは満面の笑みで私の方を向いてくれた、が。
私の顔を見るとまた恥ずかしがって下を向いてしまった。
……この顔、危険だな。
改めてそう思い知らされる私であった。
さて日々の学業についてだが、こちらはなんとかついていけている……気がする。
勉強だが、結局なんだかんだ隣の委員長に教わっている。
自らをボクと呼ぶ方の彼女からすれば、この程度は児戯にも等しいようで、おまけに教えるのも上手なので非常にありがたい。
平々凡々(へいへいぼんぼん)のこの身にも、するすると喉越しのよいうどんのように頭に知識が入ってくるのだ。
もしかして、この自分の脳みその出来も、優秀な身体に引っ張られているのかもしれない、そんなことを思ってしまった。
毎日の授業を必死に頑張りながら受けていると、あっという間に放課後がやってくる。
今日も帰りの挨拶では、担任教師の柄鋤先生はおしとやかでありつつも元気が良かった。
余りにも普通の女性に見えるので、私の記憶違いかなぁとも思ってしまうが、名前が、苗字が私の知っている苗字であるので、まず間違いないだろう。
そう思っていると徐々に教室がまばらになっていく。
さて私も帰るか、と思うと隣の委員長に話しかけられた。
「どうだい? 最近は」
「ええ。なんとか頑張れています」
「それは知っているよ。こうして日々勉強を教えている訳だからね」
「はい」
「ボクが聞きたいのは、彼女の悩みの件だよ。どうだい? 親友とは仲直り出来たかい?」
「いや……」
私は現状を素直に話す。彼女の日常に溶け込むことを優先して、彼女の悩みを解決する所まではまだ至っていないと。
私の話を聞いた委員長は御立腹であった。
「それでは駄目だよ。人との交流というのは流動的なのだから、何か諍いがあった際にはすぐに修復作業に取り掛からないと。二度と元に戻らなくなってしまう」
「あー……」
言われてみればそうだ。人とこじれたらすぐにどうにかこうにかしなければならない。
どうして私はこんなことさえ理解していなかったのだろう。
自分の情けなさが歯がゆい。今こそ使える言葉がある。
だがその言葉すらも委員長に先に言われてしまった。
「ほら後悔先に立たずだよ。今すぐにでも部活に行くといい。君達は同じ陸上部なのだから」
私は委員長に促されるようにして、慌てて陸上部の部室へと向かうことにした。
部室は校舎のすぐ近くに併設された部室棟にある。
この身体になってから数日、部室棟には近付いてすらいなかったので少し戸惑いながらも向かった。
部室棟にはそれぞれのクラブの部室が備え付けられており、またそれぞれの部室内にロッカーや着替える場所なども勿論、建物にはシャワー室なども併設されており、多少古く見えるがそれなりに綺麗な建物となっていた。
私はその中の陸上部と書かれた部屋へと入る。
私が入った瞬間、皆の目線が私へと集中した。
ぞわりとしつつも、一応の挨拶をする。
「御機嫌よう」
しかし、私の返事には皆曖昧に頷いたり、小声でぼそぼそとした返事をしてくるだけで、明らかに雰囲気がおかしい。
おまけにじろじろという目線が私の全身に這うばかりで、誰も一言も声をかけてこない。
おいおい前の彼女はここで何をやらかしたんだよぉ……と心の中で愚痴りつつも、私はきょろりと見渡す。
どうやら例の金髪彼女ちゃんはまだのようだ。では先に着替えてしまおうと思い、私は自身の名前が書かれたロッカーへと向かった。
ロッカーの中に着替えくらい入っているだろう彼女なら、という謎の自信のままにロッカーを開けると、予想通りそこにはユニフォームが一着、綺麗に畳まれて存在していた。
そのユニフォームは上下が分かれたセパレートタイプで、かなり生地も薄いように見えるが、しかし触ってみると中々にしっかりとした状態であり、なるほどこれは、といった感じである。
ただ、気になることが一点。
……そういえばこれ、下着ってそのままなのかな?
水着みたいに下着も脱いでこのセパレート型のユニフォームだけになるのか? どうするのか?
あわあわしてると、後輩の金髪彼女ちゃんが部室に入ってきた。
「みなさん御機嫌ようでーす」
その挨拶には部屋の人は普通に挨拶をしていた。
やはり私はハブられているというか無視をされているというか、そういう状況らしい。
しかし彼女はそんな空気を気にすることなく、私に話しかけてきてくれた。
「あれ先輩、早速今日来ていただけたんですか!? 嬉しいですー」
そんな言葉をかけてくる。ちょっと、いやかなり嬉しい。
独りぼっちだった私の周りの空気が弛緩していくようだった。
そして、ユニフォームを持って固まっている私に対して、こんな言葉をかけてくる。
「先輩今日は気合入ってますねー。そんな試合用のユニフォームなんて持ってきてー」
「え、あ、うん」
どうやら私が手にしていたのは試合でしか着用しないユニフォームのようだ。知らなかった。
「もしかしてー、例の勝負のやり直しですかー?」
「例の勝負?」
何のことだろうか。でもきっと、恐らくこれが、今の私に一番必要な情報の気がする。
私が少し訝しげな表情をしてしまったのだろうか、彼女がにこりとしながら続きを教えてくれた。
「いいんですよー誤魔化さなくたってー。皆なんとなーく知ってますしー。先輩と部長がコッソリ勝負して、それで部長が今度の代表試合で走ることになったーって」
「え、あー……うん」
どうやら私は彼女と代表の座をかけて勝負をして、そして私は負け、彼女が勝ったらしい。
だがしかし、それでどうして私と彼女が仲違いをしてしまっているのだろうか。
逆に私が勝って彼女が負けていたのならば、分かる。
なんで私じゃなくてあいつが! 三本勝負ならきっと私が勝っていたのに! みたいな思考とか、普通にあり得る。
どういうことか。
それは次の彼女の言葉で、私の疑問は氷解した。
「でもー、噂じゃ先輩が部長に気を使ってわざと負けたーって話ですからねー。そこんとこどーなんですかー?」
なんと! この身体の持ち主の例の彼女は、代表を譲る為か知らないが、彼女にわざと負けたらしい。
そりゃあ相手だって怒る。幾ら友人とか親友とか知らないが、真剣勝負に水を差されたも同然だからだ。
きっと彼女は、自分の実力を信じていたはずなのに、私に泥を投げつけられたような気分になったのだろう。
なるほどなるほど。それは信頼の糸も切れてしまうのも当然だ。
「そんなことは、ないけど」
「でもー、噂もそうですけど何より部長本人が信じていませんからねーその話。一度話してみた方がいいんじゃないですかー?」
「そうかも。ありがとう」
私は素直にお礼を言った。これで少しは彼女との仲も取り戻せるかもしれない。
「いえいえーとんでもないですー……ところで」
「うん?」
「先輩そのユニフォームならー下着も全部脱ぐやつですからねー? 今のお姉さまの服装だと着替えー、大変じゃないですー?」
そうか、やはりこのユニフォームは下着を着けないタイプのものなのか。
それが判明しただけでもありがたい。
だが、彼女の発言はどういう意図なのか……そう思って、自分の足元を見る。
相変わらず女性特有の胸部があるせいで、下半身の方が見え辛いのだが、私の下半身は毎日ストッキングとガーターベルトで完全武装されている。
……なるほど、こりゃ一大事だ。
「いつもは化粧室でー全部脱いでからいらっしゃるのにー、今日はどうされたんですー?」
「……うっかり」
「ここで脱ぎますー? 私、じーっと見てますけどー」
「……ちょっと出てくる」
「いってらっしゃいませー」
私は一人とぼとぼと、着替えの為に化粧室こと女性用トイレへと向かうのだった。