運命の日 ②
教育係に言い付けられた課題のひとつである刺繍をしていたら、いつのまにか昼を回っていた。
(そろそろ三時だわ……。ステラをアフターヌーンティーに誘おうかしら)
そう思って私は腰を上げた。
そして、何となしに窓の外を見て──息を呑む。
そこには、つい今しがた、頭に思い浮かべていた少女の姿があったからだ。
ステラは、裏庭の花畑の上にちょこんと座っていた。外は、いつの間にか雨が降り出し、彼女は傘も指していない。
(何してるの……!?)
魔素の影響が酷いから、外には出てはいけないって言ったのに!!
目を見開いた私は、慌ててドレスの裾を持ち上げると廊下に出て階段をおりた。
本当はこの時、メイドや侍従を呼んでステラを連れ戻すよう言えばいいだけの話だったのだが、混乱した私は、彼女を追って邸を出てしまったのだ。
『ですからシャリゼ様、ステラ様。決して邸を出てはなりませんよ?』
あれだけ、念を押されたといのに──。
邸を出ると、私は激しく水溜まりを踏んでしまった。パシャ、と雨水が跳ねて室内履きを汚す。
だけどそんなことよりもステラの方が気になって、私は雨の中、裏庭を駆けた。
雨足はさらに強まり、風もでてきたようだった。
それでも私の部屋の窓から見えた場所を目指して走ると、黄色の花畑の中、緑の髪が揺れて見えた。
「ステラ!!」
名を呼ぶと、酷く緩慢な動作で彼女が私を振り向く。
そして、私を見るときょとんとした様子で言ったのだ。
「お……姉、様?」
「どうして外に出たの!?出てはいけないって、言ったじゃない!」
叱責すると、ステラは困ったように眉尻を下げた。
「先生が……」
「え?」
ステラがなにか言おうと口を開く。
やはり、ぼんやりとした口調で。
私を見ているようで、彼女は私を見ていない。
ステラは、見ているとこちらが不安になってしまうような、そんな少女だった。
どこを見ているのか、何を考えているのか、全く分からない。
「先生がね……言うの。役に立ちなさいって」
「……話は家の中で聞くわ。ひとまず、戻りましょう?本当に危険なのよ。魔獣に出くわしてしまったら──」
「あたし……あたしって何なのかなって。だから、外に出たの。冷たい、ね?お姉様」
「ステラ……戻ろう?あなたは、私の妹で、ゼーネフェルダーの子よ」
私は座り込んだ彼女の手を取った。
氷のように冷たくて、息を呑む。
いつからこの子は、ここにいたんだろう──。
そう思うと、早く暖かい部屋に連れていかなければと思い、私は彼女の手を掴んで立たせようとする。
だけど、ステラはまるで骨のない軟体動物のようにくにゃくにゃして、なかなか立とうとしない。
「もう……ステラ!」
「お姉様……お姉様」
ステラはそれだけ繰り返した。
本当に、分からない。
ステラが何を考えているのか、分からない。
何だか、私まで泣いてしまいそうだ。
そうこうしているうちに、ふと、風向きが変わった。
何となく嫌な気配がして、肌が泡立った。
ゾッと背筋が冷えて、硬直する。
後ろを振り向きたくない、と思った。
だけど──振り向くより先に、唸り声が聞こえた。
「ヴ……ヴ……ぐるぅう……」
「──」
反射的に、魔獣だ!と思った。
バッと振り向くと、やはりそこには闇を纏った獣がいた。
黒煙のようなものに包まれて、その全身はよく見えないが、赤く光る鋭い瞳だけはよく見えた。
ひっと息を呑む。
魔獣が出るかもしれない──そうは聞いていたけど、まさか本当に遭遇してしまうとは思わなかった。
足が震えたし、頭が真っ白になった。
「……なぁに?」
ステラは、よく分かっていないようでキョトンとした様子だ。
その呑気な様子に、私は怒りなのか、恐怖なのか、分からない感情に襲われた。
とにかく、逃げなきゃ。
逃げなければ。
触れたら、魔素に感染してしまう。
感染したら、聖女の治癒でしか回復は見込めないという。
神官の祝福でも治療は可能だが、それは対症療法にしか過ぎず、進行を遅らせることしかできない。
快癒には、聖女の持つ聖力が必須だ。
そして、神殿に所属する聖女はいつゼーネフェルダー領に来るか分からない。
聖女がゼーネフェルダー領に来る前に、症状が進行してしまったら?手遅れになってしまったら?
嫌な可能性ばかりが頭を過ぎる。
(手足が黒く腐食して、最終的には手足がもげ落ちてしまう──)
それに、ゾッとした。
嫌だ。魔素に感染なんてしたくないし、死にたくもない。
後ろで未だ座り込むステラに、震える声で言った。
「立って、ステラ」
「どうして?」
「逃げなきゃいけないのよ!!分かるでしょ!?」
怒鳴ると、ステラが息を呑む気配がした。
彼女は未だに、状況が把握できていないのだ。
何が起きてるのか分からないのだと思う。
とにかく、逃げなければならない。
邸の中には入ってこれないはず。
逃げ込んで、錠を、しっかりかけて──。
(……本当に?)
本当に、できる?
間に合う?
だって、裏口までは遠いわ。
間に合わないんじゃない?
私はちら、と裏口に視線を向けた。
しかも、魔獣は私たちの道を塞ぐようにして現れた。
(どこに、逃げれば……)
頭が真っ白になった。
「痛……痛い……お姉様」
ステラの声にハッとする。
いつの間にか、私は彼女の手を強く、強く握りしめていた。
不安が現れたのだろう。
ステラは痛がったが、私はその手を離すことはできなかった。
(どうしよう?どうしたらいいの……?)
そこで、私はいつもここで会っている少年の顔を思い出した。
どこから来ているのかも分からない。素性のしれない男の子。
例え、彼が今ここに現れたとしてもできることなどないというのに、縋るように私はティノのことを思い出した。
その瞬間、体勢を低くし身構えていた魔獣が一際大きく吠えた。
「ヴァオッ!」
黒の塊が飛びかかってきて、咄嗟に私はステラの手を強く引き寄せて花畑を転がった。
そんなことしても、素早い魔獣にすぐ捕獲されてしまうことは分かっていたけど、足が竦んで駆け出すことはできなかった。
(食べられる……!!)
魔獣に噛みつかれたら、その傷口に魔素が入り込んで、感染が始まってしまう。
魔獣がひとを食べた例は今までにないのだが、咄嗟に私はそう思った。もうだめだと思ったし、正直死を覚悟した。
その時、魔獣が子犬のような鳴き声を出した。
「キャインッ!!キャァンキャンッキャンッ!!」
その声は次第に小さくなっていく。
今にも襲いかかろうとしてきた魔獣の気配が遠ざかったことに、疑問を感じた私は、恐る恐る目を開けた。
そこには──。
「シャリゼ!!無事だった!?」
ティノが、いた。
私は、息を呑むほど驚いた。
今見ている光景が現実のものだとは思えなかった。
「ティ……ノ?どうしてここに」
呆然と呟くと、ティノは鬱陶しそうに頭を振るって雨粒を払った。
それでも額から流れ落ちる雨粒は振り払えなかったようで、ティノは額を拭って、息を吐いた。
「あなたの妹が見えたから……。様子を見ていたんだ。そしたら、魔獣があらわれて」
「……!!そう、そうよ。魔獣、魔獣はどうなって……」
急いで周囲を見渡すが、しかし先程までそこにいた魔獣の姿はいなくなっていた。
それどころか、あたりを包む魔素すら見当たらない。困惑していると、ティノが場にそぐわない落ち着いた声で言った。
「その子……シャリゼの妹、だよね?」
ハッとして、私は胸に抱いたステラを見た。
ステラは、眠っていた。
いつの間にか気を失ってしまったようだ。
怪我はなさそうだったので、私は胸を撫で下ろした。
それを見たティノが、私の前にしゃがみこんだ。
「眠ってる?」
「ええ……。良かった……。ありがとう、ティノ。あなたが助けてくれたの?」
尋ねると、ティノは少し困ったように、だけど嬉しそうに笑った。
あとから思うに、彼は照れていたのだと思う。
頬を僅かに赤く染めて、自称吸血鬼とは思えないほど柔らかく彼は笑った。
「……うん、あのね、シャリゼ。魔力が使えるようになったんだ!」
嬉しそうにティノはそう言った。
(また、遊びの話をしてるの?)
こんな時に……と私は呆れ交じりに苦笑して、顔を上げ──息を呑んだ。
いつの間にか、ティノの瞳は夕焼け色に染まっていたから。
ルビーによく似た、赤色の瞳。
「──」
目を見開いた私に、ティノが恥ずかしがるように、髪を耳にかけた。
「今まで、魔獣に干渉できたことはなくって。兄さんの子飼いでもだめなんだ。支配下にすることはもちろん、消滅すら僕にはできなかった。襲われて、怪我ばっかりしてきたんだ。だから、だからね」
ティノの言葉は、私の頭をすり抜けた。
彼が何を話しているのか、よく分からなかった。
ただ、私はひとつだけ真実に気がついた。
(この子の言っていたことは……)
嘘、なんかじゃなくて。
ごっこ遊びなんかでもなくて。
本当に、本気で。
真剣に、彼は真実を言っていたのだ、と。
今になって、私はそれを理解した。
赤い瞳。
魔獣を消滅させたと彼は言った。
魔力を使えるようになった、とも。
呆然とした私は、混乱のあまりティノをただ、じっと見つめた。
反応の鈍い私を訝しく思ったのだろう。
ティノが、首を傾げて私を見た。
「……シャリゼ?」
「……や」
「え?」
考えるより先に──私は、口走っていた。
「嫌……!!」
赤い瞳は、魔獣と同じ。
いつもは春の空のような薄青の瞳は、今は赤く染まっている。
それは彼が【人間】ではないことを示すものだった。
頭がぐるぐるして、私は咄嗟にステラを抱きしめた。
「シャリゼ」
彼がなにか言おうとするのを遮って、私はティノに言った。
「あなた……魔族なのね!?どうして黙っていたの。どうして嘘を吐いたの!だって、あなた、魔族じゃないって、そう言ったじゃない!」
「違っ、僕は!」
ティノは、なにか言おうとしている。
きっと、釈明しようとしているのだ。
彼の話も聞かなければならない。
一方的に糾弾するのは良くない。
きっと、ティノにもティノの事情があるのだ。
分かっている。
分かっていた。
それでも、頭が追いつかなかった。
だって、魔族はヴィクトワールの敵だもの。
ヴィクトワールの民である私を騙して、接触を測るなんて卑怯だわ……!
今までの日々を裏切られたような気持ちになって。
そんな感情を抱く自分が酷い人間に思えて。
私の心はぐちゃぐちゃだった。
冷静さとは程遠く、私は俯いたままティノに言った。
「た、助けてくれてありがとう!でっ、でも、今は私、あなたと話せない!だから、帰って。あなた──ヴィクトワールのひとじゃ……ううん、人間じゃないんでしょう!?」
俯いて叩きつけるようにティノに言った。
頭のてっぺんに、雨粒が次から次に降ってくる。
それは肌を伝って、顎や頬から、地面に落ちた。
視界が滲む。
この感情はなんだろう?
心がバラバラになりそうだった。
(だって、だって、魔族はヴィクトワールの敵だもの……!)
魔族が本当にいるなんて思いもしなかったけど、私がティノを信じたためになにか良くないことが起きたらどうしよう、とか。
私はヴィクトワールを代表する貴族の娘なのに、安易に魔族に絆されてしまったことへの悔しさとか。
様々な感情がかけめぐって、苦しかった。
ざあざあと、雨が降る。
どれくらい、時間が経っただろうか。
「……ごめん」
ぽつりと、ティノはそう言った。
そして──それ以来、彼はこの花畑に現れなくなったのだ。