七百万ポンドの指輪
ヴィクトワール王城の、執務室。
ヘンリーは書類仕事と向き合っていた。
しかし、確認する書類の殆どにシャリゼが関わっている。
資料を読んでも全貌が掴めないものばかりだ。
ため息を吐いて書類を流し見ていると、突然、ノックもなく扉が開いた。
「ヘンリー!!聞いたわ、また神殿がお金を無心してきてるって……!!」
ドレスの裾を掴んで早歩きでやってきたステラに、ヘンリーは顔を上げた。
そして、疲れたようにため息を吐く。
「そのことか……。後にしてくれないか?仕事が溜まっているんだ」
ステラの話を打ち切ろうとした彼に、彼女は怒った。
バン!!と机の上を叩く。
その反動で、書類が何枚か飛んだ。
あまりに乱暴な態度に、ヘンリーが驚いたように彼女を見た。
ステラは焦燥した様子で言葉をまくし立てる。
「どうするの……!?私、お父様にお手紙を書くわ。いくらか用意してもらえるように」
「は?何を言ってるんだ。神殿に金をやったところでそう困る金額じゃない。何をそんなに慌ててる?」
「それは……!!」
ステラは突然、言葉に詰まったように押し黙った。
その時、執務室の扉がノックされた。
その音に、ステラは飛び上がるほど驚いた。
そんな彼女に構わず、ヘンリーは入室を許可した。
入ってきたのは、国王の側近の男だった。
彼はちらりとステラを見てから、大仰に頭を下げる。
「陛下、ご歓談中申し訳ありません」
「何の用だ」
「こちら、昨日届きました請求書です」
一枚の書類が、ヘンリーに渡される。
彼はそれを見て、目を見張った。
「……七百万ポンドだと!?」
そこには、七百万ポンドの指輪を購入すると、ヴィクトワール王妃ステラの筆跡で書かれていた。
ステラは顔を真っ青にさせて言う。
「ち、違うの!!違うのよ、それは!七十万ポンドと聞いていたの!でもサインしたら、七百万ってなってて……!!」
取り乱すステラを責めるように側近の男は見てから、冷静にヘンリーに問いかけた。
「どうなさいますか」
「どう……も何も、払えるわけが無い!ただでさえ、魔獣が突然増えて、それで神殿に多額の金銭をやっているんだ。今すぐ取引をキャンセルして……」
「できません。取引は成立しています。ここに王妃陛下のサインもありますし……」
「嘘!こんなの嘘よ!詐欺だわ!!こんなの、無効よ!!」
ステラは騒ぎ立てたが、ヘンリーも側近の男も何も言わない。
沈鬱な様子で黙りこくる彼らに、ステラが縋るように言った。
「ね、ねぇ。何とかできないの?これは間違いだったって……ヘンリーは王様でしょ?なかったことにできるはず……」
「ヴィクトワールの店なら、それも可能だったかもしれませんが……生憎、相手は隣国アルカーナ帝国の行商人です。アルカーナに無断で圧力をかけることは……。サインもありますし」
「サ、サインがなんだって言うの!?別人が書いたっていえばいいわ。そうよ、身代わりを立てましょう。そうすれば」
「筆跡鑑定が行われます。結果、王妃陛下のものだと判明したら、嘘を吐いたとして、相当強く責められることになるでしょう」
淡々と答える側近の男に、ステラはざぁっと血の気が引いた。
まさかこんなことになるとは思わなかったのだ。いつもの買い物と同じ感覚で、サインした。
実際、七十万ポンドだったらそこまで問題ではなかったのだ。
ヴィクトワールの国庫は尽きかけているが、定期的に民からの税収が入ってくる。
多少、その金に手をつけるくらいならいいと思っていた。ヘンリーも、ステラの買い物を黙認していた。
それなのに……。
「い、嫌よ……。嫌……!」
ステラは震えた声を出した。
顔は青を通り越して土気色である。
ぶるぶると震えた彼女は、頭を抱えて蹲った。
「いや!!私、この国を出るわ!!」
「ステラ!?」
「嫌、絶対に嫌!!お姉様みたいに処刑されるなんて……!!私は平民よ!私に責任なんてない!!」
「何を言うんだ!?きみは、この国の王妃だろう!!」
「知らない!知らない知らない知らない!!」
ステラはそればかり繰り返すと、そのまま走り去ってしまった。
その後を、慌てて護衛騎士が追いかけていく。
呆然としたヘンリーに、側近の男が話しかけた。
「……どうされますか?」
それに、我に返ったようにヘンリーは渋い声を出した。
「……ひとまず、神殿に助力を請おう。今までさんざん援助してきたんだ。こちらが大変な時くらい、力を貸すだろう」
ヘンリーは淡々と言って、執務椅子にふたたび腰を下ろした。
それに、側近の男は答えなかったがその目は訝しむように王を見ていた。
果たして、あの神殿が助けてくれるだろうか──と。
今、神殿もたいへんな状況だ。
聖女不足で、魔獣討伐どころか、魔素の浄化すらままならないと聞く。
あの、利己的な神殿が、王家を助けるとは思えない。
だが、王がそう言うのなら側近としてはそれに従うまでだ。
彼は、恭しく頭を下げると、執務室を出ていった。
そして──彼の予想は、的中した。
ヘンリーは、甘かった。甘すぎたのだ。
今まで、さんざんいい思いをしてきた神殿が、こんな時だけ王家を助けるはずがなかった。
むしろ、巻き込まれてはたまるものかと、いち早くステラの七百万ポンドの指輪の件を公表し、神殿は無関係だと表明した。