ヴィクトワールの在り方
パッと自らの首に触れるが、そこには噛み跡なんてない。
思わず指で首筋を撫でると、ローレンス殿下は苦笑した。
「あなたは聖女だから。自身の傷……たとえ、吸血鬼の牙の跡だって、自身で治癒する。俺があなたを噛んだ直後に、聖力に目覚めたから、その時傷もふさがったんだと思う。あなたの力は、魔を払う力だ」
「……いまいち、信じられません」
「そうだろうね。だけど、だからこそ俺はあなたの生死が分かるし、居場所もわかる。処刑されたはずのあなたが生きていることを知っていたのも、ウーティスにいると知っていたのも、その繋がりがあるからだよ」
「…………」
確かに、それなら辻褄が合う。
私は一度まつ毛を伏せた。
一気にたくさんの情報が流れ込んできて、うまく整理できない。
上手に整理し終えたわけではないけど、そうするだけの思考力が今の私にはなかった。
だから、気になったことだけをぽつぽつと口からこぼす。
「どうしてあなたがここにいるのですか?アルカーナに帰ったのでは……」
「うん。帝国に戻り、俺の方でなにか情報がないか探してみた。そして、分かったことがある」
そこで言葉を切ってから、彼が迷うように視線を私から外した。
彼の表情から、私の体調を気にしているのだろうと察して、私は答えた。
「聞かせてください」
「だけどあなたは本調子ではないでしょう」
「大丈夫。頭がぼうっとするけれど、それだけ。知りたいの。教えてください」
さらに言うと、ローレンス殿下は僅かな逡巡の後、答えを教えてくれた。
「あれは、アルカーナ帝国──もっといえば吸血鬼を惑わす為の結界だ」
「結界……」
「古い文献が出てきた。それによると、昔、ヴィクトワールはアルカーナ帝国の一部だったらしい。だけど、吸血鬼に支配され、恐怖を抱えながら生きることに限界を覚えた人間が、その支配から脱し、自由を得るために反旗を翻した。
ヴィクトワールでも有名でしょう。いわゆる、ヴィクトワールの独立戦争だ」
遠い昔──建国神話では、ヴィクトワールは魔族に支配されていたとされている。
それを思い出した私は、熱に浮かされながら言葉を挟む。
「魔族と戦ったという……」
「ヴィクトワールの民は、吸血鬼を魔族と称したんだろう。吸血鬼は、人間ではないから」
ローレンス殿下は私の手から手巾を取ると、また盥の中の水に浸し、それを絞った。
私の額に冷たい手巾が載せられる。ひんやりとした感覚に目を閉じた。
きっと、今の私は発熱しているのだろう。呼気が熱を持っているし、身体中に熱が籠っている感覚がある。
「ありがとう、ございます」
私は礼を言ってから、ふと思い出した。
手巾の冷たい感触に思考が少し、ほんの少しだけクリアになる。
「……ウーティスの森で、槍が飛んできたわ。あれは……いいえ、そもそも、あの森自体が吸血鬼を排除しようという動きがある?」
「どうだろう。少なくとも、人間と吸血鬼が接触しないように作用しているのだと思うよ。その手段が、森に踏み入れた生命体の意識を惑わせ、敵味方の判別すら分からなくさせる……というのは、あまりに強引だと思うけどね」
「地下には何があるのかしら」
「断言はできない。だけど、推測ならできる。あの地下室にあるのは恐らく──」
そこで言葉を切ったローレンス殿下は、少し言葉に悩むようにまつ毛を伏せた。
だけど、口にすることを選んだようだ。
彼の薄青の瞳が私をしっかりと見つめていた。
「吸血鬼の遺体だ」
「……遺体」
「ミイラ、と言った方がいいかな。それを触媒にして、結界を張っているのだと思う。……人間の怒り、いや、恨みかな。相当なものだ。恐らく、吸血鬼の始祖──つまり、王族の遺体を触媒にしている」
その言葉に、私は思わず起き上がっていた。
額に載せていた手巾がべちゃりとベッドに落ちる。
突然起き上がった私を見て、ローレンス殿下が目を見開いた。
「シャリゼ。あなたは熱があるんだ。寝ていた方が、」
「そんな──非、人道的だわ……」
出した声は、震えていた。
遺体を触媒にする?
つまり、敵国の王族の遺体を利用して、結界を張っているのだろう。
建国神話とされるほどだから、それは何百年前の話?
何百年、いや、もしかしたら何千年とヴィクトワールは、アルカーナの皇族の遺体を利用し、搾取し、その尊厳を踏みにじっていたのだろうか──。
ヴィクトワールの王妃だったものとして、少なくない衝撃を受けた。
そして、ヴィクトワールの建国神話では、アルカーナ帝国を【魔族】と称し、悪のものだと断定し、決めつけている。
過去、アルカーナ帝国で、人間が、ヴィクトワールの民だったひとたちがどんな扱いを受けていたのかは分からない。
だけど、敵国であるアルカーナ帝国を悪とし、その皇族の遺体を利用し、何百年、何千年、あるいは永遠に辱めるなど──。
あってはならないことだ、と思った。
恨みは、後世に残してはならない。
それは、王妃として常に頭にあった考えだった。
当代の恨みは、当代で終わらせるべきであり、その後何百年と尾を引いてもただただ、不幸が連鎖するだけだ。
沈黙する私に、ローレンス殿下が、アルカーナの皇族である彼が苦笑した。
「怒ってくれているの、シャリゼ」
「逆にどうして、あなたは怒らないのです?」
尋ね返すと、ローレンス殿下は困ったような顔になった。
それからそっと私から視線を外し、まつ毛を伏せて言う。
「……アルカーナ帝国は、いや、吸血鬼はね、力がものをいう実力社会なんだ。純血の血が濃ければ濃いほど、その力は強い。つまり、俺たち皇族だね」
秘密に包まれたアルカーナ帝国。
所有する国土に反し、絶対的な軍事力を有している国。
諸外国も、アルカーナ帝国に対し、どう出ればいいのか分からず、他国の出方を窺っているような状況だ。
自国の姫を嫁がせて縁を結ぼうにも、アルカーナ帝国はそれを拒み、一切応じないという。
排他的な国、閉鎖的な国だとも言われている。
アルカーナ帝国はよそものを受け入れない。
よしんば受け入れたとしても、いつまでも移民扱いで、周囲の視線は冷たい。
ローレンス殿下は、笑みを浮かべて私を見た。
まるで、私を安心させるように。
「祖先が戦いに負けたのは、まあ、仕方ない。負けは負けだ。その結果、敵国に利用されているのも負けたのだから仕方のないことだね。彼がなぜ敗北したのかまでは俺も分からないけど、結果が全てだ。……アルカーナ帝国は、そういう国だよ」
「──」
端的な言い方に、私は言葉をなくした。
まるで、こうして思い悩む私が甘いのだと、横面を叩かれた気分だった。
言葉を失った私に、彼が苦笑する。困ったように。
「あなたには……冷たく聞こえる?」
「そんなことは……」
ローレンス殿下が冷たいのか、私が甘いのか。
それはわからない。
だけど、少なくとも今、私は彼の意見──アルカーナの皇族であるローレンス殿下がウーティスの結界について納得しているのだとしても。
ヴィクトワールの民として、王妃だった人間として、頷くわけにはいかないと思った。
それはきっと、倫理観とか、道徳心とか、そういったところによる考えなのだろう。
ふと、私はまた違う角度からウーティスの結界について考えた。
それは過去の祖先、ヴィクトワールを興した人々が、ウーティスに結界を作った、ということは──そうせざるを得ない、そうしなければならない状況にあったということではないだろうか、と。
例えば、そう、アルカーナ帝国からの攻撃を受けていた……とか。
私はゆっくりとまつ毛を伏せて、深呼吸を何度か繰り返した。
頭がぐらぐらする。
熱があるからだ。
本来なら、すぐにでも眠りについた方がいいのだろうけど、今眠ってしまったら次、ローレンス殿下と会えるのはいつかわからない。
いま、話さなければならないとそう感じた。
ゆっくりと目を開ける。
ローレンス殿下が、眉を寄せ、気遣いの色を浮かべて私を見ていた。
優しいひとだな、と思った。
素直なひとだ、とも。
「……アルカーナ帝国は、今も、ヴィクトワールに攻め入ろうとしているのですか?」




