第三話 不安定な南国娘!?(後編)
>日が沈み、未だ太陽の明るさがほのかに残っている時刻。これから暗さが一気に加速し、それを押し止める為に街灯が点き始める。駅からは不定期に人波が吐き出され、四方八方へ散っていく。この様子を離れた所から覗う者がいた。
>薄手のコートを着た男。数日前に、住宅街で痴漢行為を働いていた、あの男だ。この男がしていたのは獲物の物色だ。一旦狙いを定めても、それに固執しすぎることは無い。駅前のスーパーに入った女性やバスに乗ろうとしている者は、すぐに見限る。大通りを選んで歩いているな、と判断した者も、早めに切り捨てた。多少遠回りをしてもそういう工夫をしている女は、他にも対策をしている危険があったからだ。無理をしない狩り方から獲物が得られない日も多かったが、今夜はそうならなさそうだ。一人、警戒心が緩そうなセーラー服の女子高生を見つけたからだ。
>その女子高生は、両耳にイヤホンを付け、通りをフラフラと歩いていた。明確な目的――家に帰るや、何かを買う――があれば歩き方が違ってくる。そうではない者なら、アクシデントで多少帰りが遅くなっても、誰も心配しない。
>ニンマリと笑ったスプリングコートの男は、さらに対象を観察して、手応えを得る。女は人通りが多い方へ流れなかったのだ。それどころか、細い路地へ躊躇わずに入っていく。
コートの男: 〝これは、教育してやらないといけないな〟
>観察場所から抜け出して、コートの男は、女子高生の後をつけ始める。その移動で対象が一時的に視界から外れてしまったが、軽く駆けてすぐに追い着く。
コートの男: 〝へっへっへ、こりゃあ誘っていやがるな〟
>スプリングコートの男は、舌舐めずりをした。セーラー服のスカートは短かった。階段の下から覗くと中が丸見えになるような短さだ。こんな姿で歩いている女は、男に襲われて当然だ。いや、むしろ、それを望んでいるのだ。口や頭で否定しても、心の奥底にはそういう期待が渦巻いているに違いない。
>あーーー!!……ごめんなさいね。スプリングコートの男と同調していたのですが、勝手な言い分にちょっともう付いていけなくなって。以後、引いた立場で、お伝えします。
>その後も追跡は続き、辺りは完全に人通りが途絶えた場所になっていた。住宅街と商業区が入り混じった場所で、入居者が少ない雑居ビルの裏の通りへと女子高生は入っていく。〝絶好の場所だ〟とスプリングコートの男はここで歩を詰める。騒がれてもすぐに邪魔が入らなさそうな狭い谷間が、スプリングコートの男は大好きだった。路地には街灯がなかった。これも男にとっては好都合だったが、結果的に一つ問題が生じた。路地へと入る前の通りにある街灯のせいで、女子高生に迫る男の影が、男自身より先に相手に覆い被さってしまうのだ。しかし、ここまで来れば押し切れると、スプリングコートの男は歩みを早める。路地は行き止まりのようだった。その事に少し違和感を覚えたが、薄暗い通路の先はどちらかに折れているかもしれなかった。さもなければ、女子高生がこの通りに入るはずがない、と考え直す。ならば、駆け抜けられる前に捕まえなければならなかった。通りの先がどうなっているのかを、スプリングコートの男は知らなかった。ここいらは男の縄張りだったが、道の繋がりは覚えていなかった。そんな知識は必要なかったからだ。 迫る足音を聞きつけて、女子高生が振り返る。その表情は、スプリングコートの男が投げ掛けている影でよく見えない。だが、身振りは怯えて萎縮しているようにも、慌てて逃げだそうとしているようにも見えなかった。しかし、それはスプリングコートの男にとっては好都合だった。怯えると両腕を胸の前で合わせる女ばかりだ。しかし、そうされないからこそ、胸を直接狙えた。だが、胸を揉みにいった男の手首は、予想外に伸びてきた女子高生の手に掴まれる。スプリングコートの男が驚いている間に、女子高生の手は横に振られる。次の瞬間、スプリングコートの男は狭い路地の壁面に叩きつけられた。
コートの男: ぐはっ!
>肺の空気が衝撃で押し出されたスプリングコートの男は、そのまま地面に転がる。そこに女子高生が言葉を浴びせる。
女子高生: 三日目にしてやっと引っかかった。二十歳越えて、こんな格好するのはすっごく度胸がいるんだからね。
>そう言いながら、女子高生――いや、もう彼女は女子高生ではないことを吐露していた――は、肩に担いでいたスポーツバッグから、何やらごそごそと取り出す。その間に、身を起こし始めたスプリングコートの男が、荒い息を吐きながら問う。
コートの男: な、何者だ?
>問われたものの、セーラー服を着た女性は未だ用意ができていなかった。取り出したピンク色のバンダナを顔に巻く途中だったのだ。慌てて作業を続け、切り抜いてあった穴から両目を出すと、ようやく答え始める。
バンダナの女性: 私は、え、えーと……
>もう詳しく描写せずとも賢明な視聴者の方々にはおわかりだと思うが、このセーラー服を着ていた女性は、かつてファンシーキュートパイレーツちゃんと呼んでいた桜ちゃんだった。桜ちゃんは、今こそ考え抜いた上に決めたヒーローネームを宣言する最初の機会だと考えると、急かされているせいか緊張のせいか、せっかく決めたはずのヒーローネームが記憶から飛んでしまった。いわゆるド忘れというやつだ。若者にも起きる時は起きるのだ。慌てて思い出そうとするが、そうなると昨日出てきた十六もの候補名が押し合いへし合いして邪魔をする。結果、思考の表面には十六の候補のうち一つも浮かんでこない。焦った桜ちゃんが、周囲に視線を彷徨わせると、地面に転がっていた炭酸飲料のひしゃげた空き缶が目に入った。
桜: ふぁ、ふぁんた……
>思わず呟いた言葉だったが、表に出してしまった以上後には引けない。桜ちゃんは、語彙から後に続けられそうな横文字を引っ張り出す。
桜: ……ファンタ……スティック? ……そう。私は、ファンタスティック・チェリーよ!
>バンと胸を張り……あ、SEさんは音入れないんですね。ちょっと待ってしまいました。……それだけでは決まりが悪いと思ったのか、相手を指差す、若きヒーロー、ファンタスティック・チェリー。しかし、何かと手間が掛かっていたので、相手はもう完全に立ち上がっていた。
コートの男: ファンタスティック……聞かねえ名前だな。しかし、さっきの力はただの女の力ではなかった。匿名ヒーローか?
>この勘違いが嬉しかったのか、ファンタスティック・チェリーは踏み出していた半歩を組み替えて、また胸を張る。
コートの男: ……いや、違うな。さっきの隙を襲ってこなかった割に、俺を捕まえられるという絶対の自信は感じられない。……半人前……いや、認定試験脱落者か!
>お見事! と言いたくなるほどの的確な分析と指摘。しかし、世の中、真実だけで回っておらず、真実が不快な者もいる。若きヒーロー候補――先ほど「候補」を加えていなかったのは誤りでした。お詫びして、訂正いたします。――ファンタスティック・チェリーも、真実を吞みこみたくない一人だった。
ファンタスティック・チェリー(以下、「FC」と表す): し、失礼ね! アンタなんかコテンパンにしてやれるわよ! ち、ちょっと降参するチャンスをやっただけじゃない。……今回と前回以外にも、きっと痴漢をたくさんしているんでしょ? だったら、大人しく警察に行きなさい!
>興奮するファンタスティック・チェリーに対して、スプリングコートの男の表情は冷静だ。ニヤニヤ笑う余裕すらある。
コートの男: 言われて素直に捕まるような根性なしなら、最初からこんな事しねえよ。それに、俺はお前に誘われたんだ。痴漢じゃねえ。むしろ、いきなりお前に投げ飛ばされた被害者だ。
>……確かに、先ほどは独善的な思考だと断じたが、ファンタスティック・チェリーが「誘っていた」のは間違ってはいなかった。とはいえ、スプリングコートの男の主張が通るかどうかはまた別の話だ。
FC: わ、私は……ま、まあ、私は痴漢被害を出さなくても、前の女の人は困ってたし、すっごい怒っていたんだからね。
>怒っていた相手は、痴漢相手より、桜ちゃんにだったが、「怒っていた」という発言自体には嘘はない。
コートの男: はっ! 他の女もみんな同じだよ。口で「嫌だ」と言っても、心の底では俺のような奴を求めているんだよ。実際、俺が触ってやった女どもは――
>えーと、この後の発言は、ナレーター権限で削除しました。この内容に、ファンタスティック・チェリーがプンプンに怒ったことから、内容はだいたいわかってもらえるでしょう。
FC: アッタマ来た。叩きのめして、警察に突き出してやるんだからね。もう謝っても許してあげない!
コートの男: やれるものならやってみな。いや、俺がお前をヤってやるよ。
>挑発に、ファンタスティック・チェリーの拳が唸りを上げた。相手の鼻っ面を狙ったそれは、しかし、相手の手の平で受け止められる。
>攻撃が決まらない事への動揺は、もはやファンタスティック・チェリーになかった。ヒーロー認定試験での候補生同士の模擬戦では、有効打ではないだけで相手には当たっていた。だから、パンツイッチョマンへの攻撃が空を切った時の衝撃は大きかった。でも、そこで経験したからこそ、痴漢へのパンチが止められても、驚きはしたが、動揺で動きが止まる事はなく、続く拳をぶち当てるつもりだった。だが、予想外の事実が、ファンタスティック・チェリーの連続攻撃を止めた。
>一つは、パンチが当たった時の感触。手の平と言うより、硬いゴム――ファンタスティック・チェリーは自動車のタイヤが思い浮かんだ。しかし、彼女は実際にタイヤを殴った経験はなかった――のようだった。次に、パンチが相手の手の平に吸い付いたような感覚に違和感が浮かび、その直後に、その拳に強烈な痛みが走った。相手の手に当たっている部分が思いっきりつねられたような痛みだった。
FC: イタタタ……
>その手をスプリングコートの男が強く引き、ファンタスティック・チェリーはそちらへよろめく。その最中、拳が相手の手から剥がれた。相手の体の横を通過する際に、コートの男はパンチを止めなかった方の手で、ファンタスティック・チェリーのスカートを捲りお尻を触った。
FC: キャッ!
>反射的にスカートを押さえて振り返るファンタスティック・チェリー。怒りをぶつけようと相手を睨むが、その瞳には揺らぎがあった。今もヒリヒリと痛む拳の不可思議さのせいで、怒りに没頭できないでいたのだ。
FC: アンタ、もしかして……
>ファンタスティック・チェリーが何かを言う前に、スプリングコートの男がニヤけた笑みを満面に掴みかかってくる。両肩を掴まれたファンタスティック・チェリーは、振り払おうとしたが、かなわない。今度は内側から弾き飛ばそうと、両腕を跳ね上げると、ようやく両肩から相手の手は取れたが、シャツは相手の手に付いたままだった。結果、両肩の部分が引っ張られ、耐えきれなくなった胸のボタンが幾つか弾け飛んだ。胸がはだけるのを隠すだけの余裕はなく、何が起きているのか理解が追い着いていないので、叫び声も上げられなかった。その隙に、スプリングコートの男の両手が、ファンタスティック・チェリーの首へと伸びる。距離を置こうと後ずさったが、すぐに壁にぶち当たる。先ほど男を叩きつけた通りの狭さが、今はファンタスティック・チェリーを苦しめていた。すぐに、逃げ場はなくなり、男の両手はファンタスティック・チェリーの首を掴み、締め始める。
FC: ちょ、ちょっと!
>抗議しながら、ファンタスティック・チェリーは相手の両腕を、自分の両腕で叩きつける。しかし、相手の両手は頑として動かない。わかったのは、スプリングコートの下に、分厚い筋肉が隠されていた事実だ。一見ヒョロヒョロした体つきからは想像できなかった腕力だった。すぐに、叩きつけではダメだと気付いたファンタスティック・チェリーは、自分の両手で相手の両手を引き剥がそうと、掴む。その時、またあの痛みが襲ってきた。掴まれている首への痛みだった。まるで、大きな吸盤に吸い付かれているような、皮膚が引きちぎられそうな痛みだった。
FC: あ、ああっ!
>苦しみが口から漏れるが、大きくはない。喉を絞められて、呼吸もままならない状態だったからだ。
FC: 〝こ、このままじゃ……〟
>躊躇っている場合じゃないと、ファンタスティック・チェリーは、出るか出ないからわからないビームの発射を決意する。至近距離だ。できる限り威力を絞っても、相手が無事では済まないだろう。しかし、気遣う余裕はなかった。そもそも、力を絞る制御ができる余裕があるかすらわからない状態だった。ファンタスティック・チェリーは、相手の手を引き剥がそうとしていた両手を離し、痛みに耐えながら、両手を額の前でクロスする。だが――
FC: 〝ダメだ。……チャージが足りない〟
>そう。女子高生の変装をしていた時、おでこにキラキラ輝く結晶があれば目立ってしまう。だから、桜ちゃんは、日常生活でそうしているように、今回も結晶を不活性化していた。それは戦い始めたことで自然と活性化に向かっていたのだが、完了するまでに数分の時間を必要としていた。しかし、窮地はその準備が整う前に速やかにやって来てしまったのだ。
コートの男: そうらそうら。意識を失え、意識を無くした後は、俺がたっぷり――
>また、ナレーター権限で検閲しましたが、スプリングコートの男の言葉は薄れゆくファンタスティック・チェリーの意識には認識されていなかった。代わりに彼女の頭に浮かんでいたのは、ある場面。パンツイッチョマンが、痴漢被害に遭った女性へアドバイスしていた場面だった。
P1: 痴漢に遭った時は、大きな声で助けを呼ぶんだ。
>正確なセリフではなかったが、人の認識とはだいたいこのようなものだ。このアドバイスをファンタスティック・チェリーは採用しなかった。自分にとって不要だと思いこんでいたからだ。だけど、今になって、例え痴漢を叩きのめして捕まえられたとしても、事前に大きな声を上げて、周囲の目を集めていても良かったな、と思った。こういう役に立たない事に考えが移ってしまうあたり、ファンタスティック・チェリーの限界は近かった。それでも、彼女は口を開け、声を絞り出す。
FC: た、たすけ……ちか、ん……
>そして、ファンタスティック・チェリーの動きが止まる。か細い掠れた声は、狭い路地にすら響かなかった。動かなくなってもスプリングコートの男はしばらく首を絞め続けた。そして、ようやく手を緩めると、ファンタスティック・チェリーの呼吸は戻ったが、意識は戻らないことを確認する。もし、呼吸が止まったら人工呼吸、心臓が止まっていたら心臓マッサージを施せば良いと、スプリングコートの男は考えていた。どちらの行為もスプリングコートの男にとっては、報酬のようなものだ。
>しかし、視聴者の皆さんは勘違いしないで欲しい。呼吸や心臓が止まった直後なら、蘇生法を施せば無事快復する、とは限りません! 同様に、首を絞めて意識だけを喪失させる事も容易ではありません。これはファンタスティック・チェリーの生命力が一般人より旺盛だったから、死ななかっただけです。普通なら死んでいたかもしれません。ついでに、心臓が止まっても電気ショックで復活させる、という話も創作ではよくありますが、現実ではそうそううまくいくわけではありません。そもそも、世に出回っている「心臓への電気ショック」は、除細動であって、止まった心臓の再起動を狙った器具ではありません。「除細動って何だよ?」と興味を覚えた方は、この後のネットで調べて、緊急救命の知識を増やしてください。ここまで言ったので、勢いに乗ってもうちょっと言わせてもらうと、麻酔で簡単に意識不明を作り出すお話は多いですが、麻酔薬は効果が出る範囲のすぐ向こう側に致死量域が待っているので、知識も経験もない人が現実で、「対象を確実に眠らせるために」と過剰に投与するのはやめましょう。「象でも眠る」麻酔銃を毎週のように乱発するのは、あっちの世界では良くても、ゴツゴウ・ユニバースでは言語道断の行為ですからね!
>と主張している間に、ファンタスティック・チェリーは地面に横たえられていた。先ほど脱線が酷かったのは、本当に意識を失ったのかを試すためにスプリングコートの男が、ファンタスティック・チェリーの顔を舐めていたという描写を避ける為でも――あ、ここで言ったら、もう意味がないのか!?……ともかく、意識がないのをいいことに、あれやこれやとされていた――いや、断定すると気分が悪くなる視聴者もおられるでしょうから、されていたかもしれなかった。が、多少、描写をすっ飛ばしたところで、事態が好転するわけでもない。ついに、スプリングコートの男は、ガチャガチャと自分のベルトのバックルをいじり出す。何をするつもりか宣言していたが、検閲済みだ。
>……もしかすると、突然、お花畑の映像が流れるかもしれない。私はその時のBGMを探す作業に移るべきかもしれない。
>……いや、スプリングコートの男の動きが止まる。少し前に、スプリングコートの男が女子高生と思っていたファンタスティック・チェリーにしたように、何者かの影がスプリングコートの男に被さってきたのだ。やけに、体型がわかる、わかりすぎるシルエットの持ち主は……
コートの男: お、お前は!
>振り返ったスプリングコートの男が、よろめくように立ち上がる。路地の入口に立つのは、バイザータイプのサングラスと、ボクサースタイルのパンツを身にまとった男。いずれも色は黒だ。そう、その男は――
半裸の男:パンツ無くして文明無し。私は、パァーーンツ……
>半裸の男の人差し指を立てた右手が、頭上へと伸ばされる。それが左肩、右腰へと払われながら、宣言が続けられる。
半裸の男:イッチョマン!
♯ バン! バン! バン!
>左、右、正面と三連続のズームイン。強調されたのは、今回もバイザーで半分隠された顔であり、下半身ではない。薄暗い通りなのに、しっかり顔が見えているあたりは、ちびっこのファンも安心だ。
♪ チャラッチャチャッチャチャチャラー(デケデケドンデケデケドン)チャラッチャチャッチャチャチャラー(デケデケドンデケデケドン)
《中略》
♪「パァアンツー」チャッチャー「イッチョマーン」
※注釈 ♪は音楽の描写として使われます。
>スプリングコートの男は、決して名前を聞いたつもりはなかったが、パンツイッチョマンからの一方的な名乗り口上。言いたくてウズウズしていたのだろう。私も、名乗り上げがないまま終わるのかとヒヤヒヤしていたので、多少フライング気味でも問題ない。なお、パンツイッチョマンは、いつもの人差し指を立てた左手を前に伸ばし、腰が少し落とした姿勢で決めている。
コートの男: パ、パンツイッチョマン!
>ゴクリと唾を呑むスプリングコートの男、ファンタスティック・チェリーを事もなげに倒した怪人だったが、数日前に行われた――ただし、桜ちゃんにカメラが付いていたので放映できていません――一分に満たない攻防で、パンツイッチョマンは敵わない相手だと、思い知らされていた。掴みかかろうにも全ていなされるか躱されるのだ。そもそも、スプリングコートの男は、女性のあれやこれやを触るのは好きだが……いや、だからこそなのかもしれないが、男の素肌に触れるのに強い拒否感があった。ただでさえ及ばない能力差を、竦む腕では埋めようがない。以上のことから、実はパンツイッチョマンは、このスプリングコートの男にとって天敵と言える存在だった。
コートの男: ま、待て! 確かに、ここいらはお前の縄張りかもしれない。だが、棲み分けはできるはずだ。私はお触り専門、お前は露出狂なのだから、縄張り争いをする必要などない。ここは一つ、変態同士、手を組まないか?
>ペタペタと素足で近づくパンツイッチョマンから、スプリングコートの男はじりじりと距離を置く。自ずと離れてしまうファンタスティック・チェリーを指差し、スプリングコートの男は説得を続ける。
コートの男:何ならその女の初めてはお前、いや、アンタにやるぜ。俺はその後で良い。兄弟の盃の代わりみたいなもんだ、ハハハ。
>下卑た笑いから顔を背けると、パンツイッチョマンは足元に横たわるファンタスティック・チェリーを見下ろす。そのはだけた胸が静かに上下しているのを見届けると、パンツイッチョマンは姿勢を正し、スプリングコートの男に例のフロントラットスプレッド風で胸を張る。
P1: 古来より、幾多の文明で、敗者が勝者に蹂躙されるのが当然の事とされていた。戦争に勝てばレイプが報酬となる。それは、文明にとっての紛れもない事実だった。
コートの男: そ、そうだ! そうだよ。これこそが俺たちの当然の権利――
>スプリングコートの男が同調しようとするが、まだ話している途中だと言わんばかりに、パンツイッチョマンに人差し指を向けられて、押し黙る。
P1: しかし、それが当然の権利とされていたのは過去の文明での話。現在の日本における文明、仮に呼称するなら黒パンツ文明において、レイプは重大な犯罪だ! 犯罪は、文明社会をかき乱す害悪。
>スプリングコートの男は、交渉が決裂したのを悟った。息を呑むと、よろよろと後ずさり、壁に行き着く。そこで、逃げ場を探すかのように左右に顔を向けるが、どちらにも壁が立ち塞がっていた。この路地に入る前は、奥まで暗くて見通せなかったのでわからなかったが、ここは袋小路になっていたのだ。もし、それをスプリングコートの男が事前に知っていたなら、そこへ入り込んだ女子高生がいるのはおかしい、と罠に気付いていただろう。しかし、そう後悔してももう遅い。
P1: ふむ。まずは……。
>スプリングコートの男に逃げ場がないと判断したパンツイッチョマンは、倒れているファンタスティック・チェリーの体を跨ぐようにして、腰を途中まで下ろし、力なく垂れている彼女の腕を踏まないようにじりじりと足を引きずるように位置を調整する。結果、パンツイッチョマンの軸は、ファンタスティック・チェリーの鳩尾あたりの上で止まる。そして、パンツイッチョマンは左手を振り上げた。
P1: イッチョマン・スラップ!
♯ パチン!
>平手打ちが、ファンタスティック・チェリーの頬を打った。
FC: はっ!
>たちまち目を覚ますファンタスティック・チェリー。目の焦点が合わずとも、裸の男がのしかかるようにしているのがわかると、「キャッ!」と叫び声をあげて、両腕を胸元に寄せる。感触で、シャツははだけていたが、ブラは未だ取られていなかったのが、わかった。すると次は別の事が気にかかる。ファンタスティック・チェリーは片手を自分の股間に走らせ、パンツも未だ剥ぎ取られていなかった事実に安堵する。そこで、ようやく、相手が脱ぎ過ぎているのに気付いた。あるいは、脱ぎ過ぎていないというべきなのか。こういう場合、相手は下半身だけを丸出しにしているものかと思ったが、目の前の男は、その大事な一線、パンツ、をはいたままだったからだ。
FC: ぱ、パンツイッチョマン……さん?
>まだファンタスティック・チェリーは意識が朦朧としていたが、その朦朧とした意識でも認識できるほどわかりやすい特徴の男に思い当たる。
P1: 大丈夫か?
>パンツイッチョマンは、体の軸をファンタスティック・チェリーの腰のあたりまで下げてから、彼女へ片手を伸ばす。まだ呆然としながら、ファンタスティック・チェリーがその手を握ると、強く引っ張り上げられた。そのまま立ち上がらされる。その意図が十分に理解できなかったファンタスティック・チェリーはよろめいたが、それをパンツイッチョマンはもう一方の手で、さりげなくファンタスティック・チェリーの腰を支える。紳士的な行いだったが、ファンタスティック・チェリーにそれをありがたく思える余裕は未だ戻っていなかった。
FC: あれ? 私……。
P1: 痴漢退治の途中だったようだな。
>この一言で、ようやくファンタスティック・チェリーの瞳に強い意志の光が戻る。
FC: そ、そう。あの痴漢! って、今どこに?
>キョロキョロとするファンタスティック・チェリーに、パンツイッチョマンは路地の奥を指差す。
P1: ほら、そこに……。
>しかし、そこで震えているはずのスプリングコートの男の姿はなかった。
P1: 何!?
>ファンタスティック・チェリーと繋いだままになっていた手を離し、パンツイッチョマンは通りの奥へ向き直る。消えてしまったスプリングコートの男はすぐに見つかった。しかし、それは意外な場所にいた。奥のビルの壁を上っていたのだ。もう三階分は過ぎていた。
P1: まさか、あの男、異能者であったか!?
>壁登りの異能を目の当たりにしたファンタスティック・チェリーは、ここでようやく繋がった。
FC: あ! あの男の人の手は吸盤みたいに、物が引っ付くんです。それで、私、肌が破れるかと思うくらい……
>言いながら、ファンタスティック・チェリーは自分の首をパンツイッチョマンへ晒した。そこは首を絞めつけられた時に吸い付かれ、鬱血状態になっていたのだが……薄暗い通りなので普通のカメラではよく見えなかった。……そういえば、パンツイッチョマンはサングラスなので、余計に見えないのではなかろうか? どうなっているのだろう? もしかしてハイテクメガネみたいに、暗闇でもはっきり見えているのかもしれない。こんな私の疑問などお構いなしに、パンツイッチョマンは逃げていくスプリングコートの男を見上げる。
P1: 待て!
コートの男: はっ、待てと言われて待つヤツがどこにいる。
>そうは言っているが、スプリングコートの男は下を向いて答える為に動きを止めた。
コートの男: おい、女! お前はもう覚えた。次からはコスプレしても、罠には掛からねえぜ
FC: こ、コスプレって言うな!
>自分でも言っていたように、二十歳を過ぎての女子高生コスプレは結構無理をしていたらしい。
P1: コスプレなのか?
>素直に質問するパンツイッチョマンに、ファンタスティック・チェリーは顔を赤くする。……が、それも暗くてよく見えない。……あ、もうこの下りは必要ないですか? 視聴者の方々は、暗くても、私が伝えればしっかり補正できますからね。
FC: コスプレじゃないです! 変装です! ――って言っている場合じゃない。逃げられちゃいます。
>頷いて、再びそちらを見上げるパンツイッチョマン。スプリングコートの男は、そう言われてまるで思い出したかのように、ペッタンペッタンと、クライマーからすると邪道極まりない壁登りを再開する。
FC: でも、任せて! 私の出るか出ないかわからないビームで……
>首を絞められている時には活性化が間に合わなかった、ファンタスティック・チェリーの奥の手は、彼女が意識を失った後でも活性化処理は進んでおり、今はいわゆるチャージ完了の状態にあった。
FC: 出るか出ないかわっからないぃぃ
>言いながら、ファンタスティック・チェリーは自分の両手首を額の前で組み合わせる。
FC: ビーーム!!
>両手を勢いよく下ろし、額を頭上の壁のスプリングコートの男へ突き出す。
>…………
>しかし、何も起こらなかった。そもそも、出るか出ないかわからないビームなど知らないスプリングコートの男は、端から気にすらせず、ペッタンペッタンと上り続けている。
FC: あれ? おかしいなぁ。……いや、おかしくはないんだけど……今回は外れだったのかなぁ。
P1: 第二射はできないのか? もちろん、撃ち抜いてはいかんぞ。撃ち落とす威力で十分だ。
FC: は、はい。次は、チャージしないと、撃てないかなーって。
P1: チャージにいかほど掛かる?
FC: 数分?
>自分のことなのに自信なさげなファンタスティック・チェリー。いっそ、他人のせいにしたい気持ちの表れかもしれない。しかし、パンツイッチョマンはその態度に怒りもしなければ呆れもしなかった。すぐに、ファンタスティック・チェリーの手を引く。
P1: 行くぞ!
FC: え? ちょっと! ……そっちって、アイツ、逃げちゃうよ!
>ファンタスティック・チェリーが抗議したように、パンツイッチョマンが彼女を連れて出ようとしたのは、袋小路の出口。より大きな通りだ。
P1: 詳しく説明している暇はない。
>よく聞くセリフだが、実際、スプリングコートの男はもう五階分の高さに迫っていた。ビルの屋上は八階分の高さなので、確かに時間的猶予は余りない。しかし、よく見ると、路地の突き当たりではない左右の壁は、五階分の高さしかなかった。スプリングコートの男が、もし、こちらを登っていればもう逃げおおせていただろう。そうしなかったのは、少しでもパンツイッチョマンから離れたいという強い恐怖があったせいだ。パンツイッチョマンから一番離れた正面の壁しか見えてなかったのだ。
P1: 手を貸してくれ。
>パンツイッチョマンは、両手を上に向けて、ファンタスティック・チェリーに突き出す。手伝って欲しいという意味ではなく、文字どおり、両手を出せ、と言っているのだ。後に、ファンタスティック・チェリーはこの時何をされるのか何となくわかっていた、と述懐している。それでも要求に素直に応えたのは、「まさか、そんな事しないよね」という希望と、命の恩人の要望だから応じるしかない、という気質からだった。……え? 命の危機ではなく、貞操の危機だったって? 正確にはそうですが、女性にとって、それは同じくらいの重みを持った一大事なのです。……たぶん。
>ともあれ、躊躇わずに出された両腕を、パンツイッチョマンは深く肘の辺りで掴む。
P1: イッチョマン・スイング!
>パンツイッチョマンは、自分を軸にして、ファンタスティック・チェリーを振り回す。
FC: え、ええ゛え゛ぇぇぇ……
>ファンタスティック・チェリーの悲鳴が濁点混じりで聞こえるのは、遠心力のせいだ。翼のある扇風機の前で、「あーー」と声を出したことのある方ならおなじみであろう。近頃は、扇のない送風機も増えているので、この扇風機遊びは次代の子供たちには伝わらないものかもしれない。などと書いたが、実際は、扇風機効果など関係なく、単に出す声が濁ってしまっただけだった。
P1: とうっ!
>八回転した後、パンツイッチョマンはファンタスティック・チェリーを投げっ放す、時折、無責任発言の投げっ放しはしていたが、コイツ、女の子相手でも躊躇いないぞ!
FC: ひえぇぇぇーー
>声の濁りはなくなったが、悲鳴は出るのは変わらない。投げられたファンタスティック・チェリーは建物を越えてしまうのではないかと思えたが、重力のおかげで放物線を描き、無事(?)壁に張り付いているスプリングコートの背中に着地、と言うか、ファンタスティック・チェリーの足先がスプリングコートの背中に突き刺さる。いや、そう表現したが、ファンタスティック・チェリーの足先は尖ってはいなかったので、本当に突き刺さったわけではない。比喩だ。このキックは、パンツイッチョマン風に宣言するなら、「ファンタスティック・チェリー・ドリルキック!」だった。そう、スイングされた事でねじりの力が掛かり、ファンタスティック・チェリーはスパイラルして飛んでいたのだ。
コートの男: グゲッ!
>スプリングコートの男は、パンツイッチョマンたちが路地を出たのを見て、諦めたと思っていた。背中を振り向くには角度的に限界があったので、路地を出てぐるぐるやっているのは見えなかったし、もちろんぐるぐるは想像もしなかった。だから、予想していなかった強打に、ほとんど気を失いかけた。一方、ファンタスティック・チェリーは、さすがは自称ヒーロー試練ギリギリライン上の存在だけあって、ただ身を任せていただけではなかった。スプリングコートの男の背中に着地した時に、ちゃんと膝を曲げ、自身への衝撃を軽減していた。さらに、スプリングコートの男を掴み、落下時にクッション代わりに下に敷くよう、引きずり落とそうとしていた。……え? それだったら、スプリングコートの男は落下の衝撃をモロに受けて、死にかねない? ……そうかもしれないですね。
>でもそれは、『カルネアデスの板』ですね。この哲学問題は……えーと詳しく説明すると長くなるか……では、単純に、その時のファンタスティック・チェリーには他人の事を考えている余裕がなかった、というだけで良かったですね。が、結局のところ、カルネアデスの板で悩む必要はなかった。スプリングコートの男は意識を失いかけても、吸盤能力まで失わなかったのだ。ファンタスティック・チェリーの思惑と違って、張り付いたままだったスプリングコートの男を捕まえられていれば、それはそれで良かったのだが、一緒に落ちると思っていた相手だったので、先入観と現実が違うと手が滑る。なので、ファンタスティック・チェリーがスプリングコートの背中で止まれたのはせいぜい二秒に満たない時間だった。しかし、その遅延が彼女の落下によるダメージを大きく変えた。下手をすると死にかねない被害は、彼女を投げた後、疾風のように後を追ってきた、パンツイッチョマンの対処が変えた。走ってきたパンツイッチョマンは、そのまま壁を駆け上がり、その頂点で、落ちてきたファンタスティック・チェリーと接触距離に入った。えっ!!
>…………あ、す、すいません。予想外の行動過ぎて、思わずナレーション義務を果たせませんでした。あーあ……えーと、現場では次のシーンへと流れていっていますが、ここは一旦停止して、先ほどの衝撃的なシーンをスローモーションで再生して、説明していきましょう。
>……はい。ここですね。落ちてくるファンタスティック・チェリーと壁を駆け上がったパンツイッチョマンがほぼ同じ高さに至った瞬間ですね。高さとしては二階から三階くらいありますね。はい、ここからスローモーションで動かします。壁を蹴るように反転するパンツイッチョマン。ここで、落ちてきたファンタスティック・チェリーを抱えるのが、普通の展開ですが……やっぱり、スローで見てもそうでしたね。パンツイッチョマンは、ファンタスティック・チェリーを捕まえずに蹴り飛ばしています。そのまま、吹っ飛ぶファンタスティック・チェリー。カメラさん、そっちを追って下さい。はい、はい。離れた地面に落ちるファンタスティック・チェリー。そこで跳ねて、跳ねて、転がっていきます。その間、パンツイッチョマンはどうしていたのでしょうか。カメラさん、巻き戻して下さい。ファンタスティック・チェリーを蹴り飛ばした後、パンツイッチョマンは、反動で壁に押しやられ、そこを少し滑った後で、前転飛び込みをするように転がる、転がる。とはいえ、パンツイッチョマンが止まった場所は路地の中央ほど。蹴っ飛ばされたファンタスティック・チェリーは路地から出てしまうくらいまで転がっている。
>ん? ……これは、もしかして、物理学? ……今からベクトル図を書いてみますね。カメラさん、ファンタスティック・チェリーが蹴られたシーンまで戻って下さい。はい、そこでアングルを横から。はい、そうです。では、まず、重力加速度はこの鉛直方向に働きます。そして、パンツイッチョマンの蹴りは、大まかに判断になりますが、水平方向近いこの角度だとすると、その合力となる実際の加速度方向は、こう平行四辺形を描いた対角線方向になります。そして、概算として、この角度のままで、地面に当たったとしたら、突入角と反射角は同じになるので、ファンタスティック・チェリーはこちらに跳ねる。……おお、ほぼその通りになっていますね。……あれ? 視聴者の皆さんは同じようにベクトル図を描けていませんか? そうですね。Nで合わせるとしたら、ファンタスティック・チェリーの質量が計算上必要となりますからね。えーと、体重は確か……え? そういう問題じゃなくて、計算とかややこしいのは要らない? でも、これって音声多重総天然色3D空想科学活劇ですよね? ……あれ? 空想科学ではない? だから、計算は不要? ……あ、ああ。そうでしたか。最近は、音声多重(以下略)で済ませていたので、正式名称を忘れていました。済みません。
>えーと、では簡単に説明すると、真っ直ぐ落ちずに横方向へ向けられたから、衝撃が分散され、回転に消費され、ダメージが随分と軽減された、って事だったのです。私も最初、パンツイッチョマンが女性を蹴り飛ばした時はどういうわけだとビックリしましたが、科学的に考えると意味のある、優しい行動だったわけです。……他の作品では、墜落した人が地面に激突する前に巨大ロボットの手が伸びてきて拾ったから、飛び下りた人は無傷、って展開はありますが、あれって「拾った時の高さ分しか軽減できてないから、墜落死は逃れられないぞ!」となるんですよね、物理法則に当てはめたら。まあ、そちらはそういう世界だから問題ないんだけれど、ゴツゴウ・ユニバースでは通用しない、という事ですね。名前に反して、意外に厳しい世界なのです。
>パンツイッチョマンの蹴りが、激しく見えたが実は優しさだったとわかったところで、時間軸を再び合わせてみましょう。
FC: イッターーイ! ……何するのよ!
>寝転がった姿勢から半身を起こして、抗議をするファンタスティック・チェリー。転がって丸まっていたパンツイッチョマンは、声を掛けられると、急に立ち上がり、フロントラットスプレッド風のスタイルを取る。しかし、ファンタスティック・チェリーの方へ向かず、スプリングコートの男が張り付く壁を見上げる。
P1: む。まだ取り付いているか。しぶといな。……だが、動きを止めている今はチャンスか、もう一度、今のを行こう。
>ヒタヒタと寄ってくるパンツイッチョマンに、ファンタスティック・チェリーは伸ばした両手の先を振る。
FC: いや。ムリムリムリムリ!
P1: しかし、奴はいずれ回復するぞ。
FC: だったら、私の出るか出ないかわからないビームで――
>ファンタスティック・チェリーは片手を額に上げるが、すぐに眉を顰めた。
FC: ダメ。まだチャージが……。
P1: なら、やむを得ぬ。
FC: いや、だから、あんなのもう一回ムリだって!
>ファンタスティック・チェリーの抗議に、パンツイッチョマンの歩みがまた止まる。このストップアンドゴーを見ていると、まるで『だるまさんが転んだ』を向かい合って遊んでいるようだ。……そう、全くゲームとして成立しない。そのあたりも、また今の二人の会話に当てはまっていた。が、ファンタスティック・チェリーが、ある点に気付いた事で、次の作戦の道筋が立ち始める。
FC: あれ? アイツ、さっきより、低くない?
>……確かに、ファンタスティック・チェリーが決死――ただし本人にそうしたい意思はなかったが――のドリルキックを命中させた時、スプリングコートの男は、六階から七階へ差し掛かろうかという高さにいたが、今は五階ほどの高さに下がっていた。……カメラさん、その辺りの映像出ますか?……あ、ああ。そこですね。はい。手を滑らせて、ファンタスティック・チェリーが落ちる。そこで耐えたように見えていたスプリングコートの男も、やっぱり剥がされて滑り落ちていたんですね。ですが、慌てて張り付き直した事で落下は免れた。それで、今は片手でぶら下がっているわけですね……なるほど。カメラさん、ありがとうございました。
FC: あれだったら、私でも届くんじゃないかな? 真下に行って、こうして足場を作ってくれない。
>立ち上がったファンタスティック・チェリーは、両手を組んで、手の平が上を向くように自分のへその高さで支える。テレビドラマや映画などのアクションシーンでたまに見られるやつだ。両手で作られた足場を登る人は、そこを蹴り、上へ跳ぶのだが、支えている方もタイミングを合わせて、両手を引き上げる。これで、意外に高く跳べるのだ。常人であれば、五階の高さは無理だが、ヒーロー試練ギリギリラインの女性と、それを上回る男の組み合わせなら、確かに届くかもしれない。
P1: うむ。
>素早く同意したパンツイッチョマンは、直ちに突き当たりの壁へと走り、こちらを向くと、腰を落として足場となる態勢を整える。
FC: よーし、ここが見せ場よ、桜。
>ファンタスティック・チェリーは静かに自分に言い聞かせると、バンダナの位置を調整してから駆け出す。ちなみに、この走る速度に関しては、ヒーロー試練のギリギリラインを余裕を持って越えていた。
FC: えーい!
P1: ふん!
>初めての試みにしては息の合った連携だった。それもあって、あとファンタスティック・チェリーの予想以上にパンツイッチョマンの力が強かったので、ファンタスティック・チェリーはなんと一時的にスプリングコートの男の高さを越えてしまった。そこから落ちる時に、何とかスプリングコートを掴む。お尻に近い場所まで落ち過ぎてしまったが、そこからは背中を這い上る。壁を掻くスニーカーは、デザインではなくグリップ力が高い品をわざわざ選んで買った甲斐があって、ファンタスティック・チェリーは問題なく、スプリングコートの男の肩へと手を掛ける高さまで登ってこられた。
コートの男: は、離せ……落ちる。
>蹴られた衝撃から回復しきっていない体で、二人分の体重を支えるのは難しいらしい。
FC: だ、か、ら、私はアンタを落としに来たのよっ!
>ファンタスティック・チェリーの両手が、スプリングコートの男の顎に掛かった。プロレス風に言うなら、立体キャメルクラッチという珍しい体勢で、ファンタスティック・チェリーがウンウンと体を揺さぶると、ついに耐えきれず、スプリングコートの男の手が壁から離れる。
>ファンタスティック・チェリーはそれに巻き込まれて落ちなかった。思いきり相手の顎を引くことで、自身の体を浮かし、相手の肩を踏みつけることで、宙を駆け上がった。が、その間にも、地球の引力は容赦ない重力加速度を掛け続ける。結果、ファンタスティック・チェリーは駆け上がっているつもりでも、絶対的な高さはほとんど変わりなく、むしろ少し落ちていた。正直なところ、ファンタスティック・チェリーは、剥がした後のことを考えていなかった。吸盤能力のないファンタスティック・チェリーが取り付ける手掛かり足掛かりは,近くになかった。スプリングコートの男の体を駆け登ったのは、いわば無駄な足掻きだったのだ。しかし、その二秒ほどの時間稼ぎが、今回も彼女のダメージを軽減する未来を拓いた。今度は真下に、パンツイッチョマンが待機していたのだ。
>スプリングコートの男が落ちる直前、パンツイッチョマンは数メートル離れた場所から、また壁に向かって走り、駆け上がった。最高到達点近くで、スプリングコートの男を蹴り飛ばすと、その反作用で壁を滑り落ち、そこを駆け上がり――これはファンタスティック・チェリーの足掻きと同じく高さの変化はほとんど生まなかった――続いて落ちてきたファンタスティック・チェリーの体を、今度は両手を高く上げて受け止める。が、その高さでホールドせず、胸の高さまで降ろしてきてから、壁を蹴って前に跳ぶ。そのまま、前回のように、地面を転がるパンツイッチョマンとファンタスティック・チェリー。しかし、今回は質量が大きい分、止まる位置は前回より遠くなっていた。
FC: イッターー……くない……あれ?
>ファンタスティック・チェリーは閉じていた目を開けた。狭い通路から伸びた壁に挟まれて、夜空が見えた。自分がどうなっているか確認したファンタスティック・チェリーは、自分がパンツイッチョマンの上に寝ている事を悟る。パンツイッチョマンの腕は、一本はファンタスティック・チェリーの頭の上を庇うように、もう一本は離れないようにしっかりと胴へと巻かれていた。
P1: 大丈夫のようだな。
>声を掛けられて、パンツイッチョマンの腕が解かれた。ファンタスティック・チェリーは、いつまでも乗ったままではいられないと、すぐに身を起こす。そして、パンツイッチョマンに手を伸ばし、立ち上がるのを手伝ってあげる。
P1: ふう。奴はどうなった?
>あ、今、パンツイッチョマンが溜息をつきましたね! あの花見の時に、ゾンビのように群がる民衆を倒した時よりも、今回は堪えたようです。パンツイッチョマンも人間なんですねぇ。……って、感心している場合じゃなくて、パンツイッチョマンは、路地から出るほど転がっていったスプリングコートの男を見つけると、ペタペタと歩いて行く。
>その後を、ファンタスティック・チェリーが続こうとして、思わず足を止めた。パンツイッチョマンの背中が傷だらけだったからだ。ファンタスティック・チェリーは自分の服装も、見下ろして確認する。確かに、こちらも結構ボロボロだ。しかし……。再びパンツイッチョマンの背中を見たファンタスティック・チェリーは、〝あっちの方がボロボロね〟と感じた。この差はおそらく、服を着ていたか着ていなかったかの差だ。そういう意味では、パンツイッチョマンの怪我は自業自得と言えた。でも、ファンタスティック・チェリーは心からそう思えなかった。なぜなら、パンツイッチョマンの怪我は、彼女を庇って、転がった際に外殻となった為に負った怪我だったからだ。
FC: 〝ありがとう、って言わなきゃ〟
>そう思ったファンタスティック・チェリーだったが、立ち止まったせいで開いた間の大きさから、パンツイッチョマンに声を掛けられなかった。
コートの男: イテテテ、足が……俺の足、折れちまったんじゃねえか
>呻きつつ体を丸めて倒れているスプリングコートの男の傍へ、パンツイッチョマンが立つ。ちなみに、この男は、訴えている足の怪我についてはさておき、転がった時についた擦り傷はほとんどなかった。スプリングコートは防御力が高かったのだ。パンツイッチョマンは、倒れているスプリングコートの男を仰向けにひっくり返すと、胸ぐらを掴み直す。
P1: イッチョマン・パンチ!
♯ ガツン!
>有無を言わさない鉄拳を、相手の眉間に叩き込むと、スプリングコートの動きと呻き声は止まった。スプリングコートは顔は守ってくれなかった。
FC: あれ? ……殺しちゃった?
>そう聞くファンタスティック・チェリーの声に非難の色はない。むしろ彼女は、それならそれで良いとさえ思っていた。
P1: いや。気絶させた。……で、どうする? 警察を呼ぶか? それとも、近くの派出所へ突き出すか?
>近くの建物から、人が出てきたり、窓から覗き込んだりする姿が増えつつあった。これはファンタスティック・チェリーが、パンツイッチョマンに投げられた時に出した奇声が一番の要因だった。
FC: うーんと、どうしよっかなぁ。……やっぱ、連れて行こう。ここで引き渡しても、どうせ書類を書くために向こうに行かなきゃならないでしょ?
P1: おそらくは。なら、連行する間、暴れられては面倒だな。無力化できる物……手錠を持ってないか?
>まるで喫煙者が喫煙仲間に「煙草ある?」と聞くような気軽さで聞いたが、ファンタスティック・チェリーは手錠など持っていなかった。〝そんなの持ち歩いていたら、そういうプレイが趣味みたいじゃない〟とファンタスティック・チェリーは思ったが、口にはしなかった。おかげで、私もPTAの方々も安心だ。……あ、私が代弁しちゃったから意味がない? ああ、これは失礼しました。
FC: 手錠なんかないけど、代わりに使えそうな物ならあるよ。
>そう言うとファンタスティック・チェリーは投げ捨てていたスポーツバッグへと歩いて行き、そこから何本か樹脂製の紐を取り出す。
FC: 結束バンド。これって使えない?
>それをフラフラ揺らしながら近づいたファンタスティック・チェリーは、そこで相手が馬鹿力を持っていたのを思い出す。
FC: あ、でも、ポリエチレン製だから、そいつ引きちぎっちゃうかも。
>正確には、ポリエチレンではなく、ナイロン製だったが、一般人で樹脂の種別にこだわっている人は多くないので、まあ伝わるだろう。
>パンツイッチョマンは、倒れて意識を失っているスプリングコートの男の体を、胸と両腕を中心に触りまくる。ファンタスティック・チェリーが、〝この人、もしかしてアッチなのかな〟と不安を感じた頃、パンツイッチョマンは身を起こした。
P1: この筋肉の付き方なら、後ろ手に縛れば抜け出せまい。
>そう言って、パンツイッチョマンは近づいてきていたファンタスティック・チェリーに手を出す。持ってきた結束バンドを渡すと、スプリングコートの男をひっくり返し、あっという間に縛り上げてしまった。それから、また相手をひっくり返すと、左手を振り上げる。
P1: イッチョマン・スラップ
♯ ペチン!
>たちまち目を覚ますスプリングコートの男。その顔に、パンツイッチョマンは拳骨を見せつける。
P1: 一切喋るな。余計な一言を話すと、もう一発お見舞いするぞ。
>スプリングコートの男は目を見開いたが、飲み込みは早く、無言で頷いた。
P1: よし。
>パンツイッチョマンは、スプリングコートの男を立ち上がらせる。その頃には、外に出てきていた人たちが三人を遠巻きに取り囲み始めていた。
FC: あ、大丈夫です。痴漢を捕まえただけですから、お騒がせしました。
>軽く会釈をしてから、ファンタスティック・チェリーは発言を間違えた事に気付いた。いや、むしろ間違えているのはギャラリーだ。痴漢と言われて、周囲の人たちは、一斉にパンツイッチョマンへ冷たい目を向ける。しかし、当のパンツイッチョマンには自覚がなさそうだ。スプリングコートの男の隣に立っているので、ギャラリーがどっちを見ているかわかりづらいのも、パンツイッチョマンの無自覚に拍車を掛けた。その扱いに我慢できず、ファンタスティック・チェリーが声をあげる。
FC:いや、違います。この人じゃなくて、こっち! このコートの人が変態!
>そう言ってから、ファンタスティック・チェリーは口を閉じた。「じゃあ半裸の方は変態じゃないのか?」と問われたら、答えられなかったからだ。と言うかむしろ、「そっちも、そうかな?」とかわいく微笑んでごまかすしか手は思いつかなかった。幸い、そう踏み込んでくる人はいなかった。変態二人が並んでいる所へ踏み込みたくなかったのかもしれない。
P1: では、後は任せたぞ。
>パンツイッチョマンにスプリングコートの男を押しつけられて、ファンタスティック・チェリーは驚いた。
FC: え? 一緒に来てくれないの?
P1: これは君の手柄だろう。
>そう真っ直ぐ言われると、評価してくれた嬉しさから、否定的な言葉が出せなかった。嬉しさを呑み込んだ後、ようやく呟いた「でも」の言葉も、パンツイッチョマンが重ねてきた言葉にかき消される。
P1: それに、警察とは、ソリが合わなくてな。
FC: あ、ああ。ま、まあ、そうかもね。……いや、そうかも、ですね。
>相手の格好を見て、思わず納得の声を出した後、敬語で言い直す。
P1: ちょっと花見の会場でやらかしてな。私としては、文明のためだったのだが……まあ、世の中、色んな見方が――
FC: あ! そう言えば、そういうニュース見たことある!
>ネットか、はたまたテレビのニュースか、いずれにせよそういったニュースを見た記憶があったのを、ファンタスティック・チェリーは今になって思いだした。だけど、仕方がない。パンツイッチョマンに出会っていなければ、酔うと脱ぐ習性のおじさんが暴れた話にしか聞こえないのだ。
FC: じゃあ、仕方ないですね……。
>本心では、嫌悪感からスプリングコートの男を引き立てて歩きたくはなかったが、恩人を警察に突き出す方が気が引けた。やむなくスプリングコートの男を受け取る。それから、荷物を担ぎ直し、パンツイッチョマンが付いてこないとわかると抵抗する素振りを見せてきたスプリングコートの後ろ手を捩じり上げたファンタスティック・チェリーは、数歩進んでから、確認したいことがあったので振り返った。しかし、パンツイッチョマンは後ろ姿を見せ、走り去った後だった。ちなみに、ギャラリーたちもファンタスティック・チェリーたちの方を見ずに、走り去る半裸の男へ目を向けていた。しかし、話し足りない気持ちでいっぱいだったファンタスティック・チェリーは、周りの様子には気づかず、心の中でパンツイッチョマンに語り掛ける。
FC: 〝また会えますよね?〟
>もちろん、闇に消えていく肌色の背中は答えてくれない。しかし、ファンタスティック・チェリーには、またパンツイッチョマンに会わなくてはいけない理由があった。まだキチンとお礼が言えていなかったからだ。
>こうして、半人前のヒーロー候補は我らがパンツイッチョマンと邂逅した。この後、若きヒーロー候補が願うように、二人がまた出会う日がやって来るのだろうか? ……いや、私もまだ最勝寺先生からなーんにも聞いていないんですけど、きっとありますよね? みんなもそう思いますよね? だったら、念を送って、その後を描かないなら悪夢を見ろ、とでも呪い、じゃなくて祈りましょう。きっと、その思いは届くはずです。
>……えーと、今日はけっこう傷だらけになっていたから、煽るのもナンだなあ。なので……その身を犠牲に、女性の尊厳を守ってくれたパンツイッチョマン! 文明社会を守るため、たまには休め、パンツイッチョマン!
==次回予告==
世のお年寄りを惑わせる詐欺事件
焦りのあまり 聞く耳持たないお年寄りなら
素肌の威力で聞かせてやるぜ!
しかし、そこの現れる謎の黒メガネの男
「何!? 文明にパンツはいらないだとっ!!」
次回、第四話『ライバル登場!? 奴の名はノーパンマン』
パンツ洗って 待っときな!