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真夜中の小作戦

作者: 雨雲愚歩

とても嫌な夢を見て目が覚めた。

枕元のデジタル時計によれば二時を少し回ったところ。草木も眠る何とやらだ。夢の内容はなんだったろう。ただ猛烈な不快感と、目を覚まさなければ危険だという本能からの危険信号を感じていたことだけは覚えている。

いや、その感覚は今も続いている。

そう、これは尿意だ。

夜半を過ぎてから急激に気温が落ちたのだろう。身じろぎをすると首筋から入ってくる空気がとても冷たい。寒さで膀胱が収縮し尿意が強く感じられるのだろうか。

……いや、晩飯の鍋が原因かも知れない。良い出汁が出たスープがうまくて、かなりの量を飲んでしまった。水分と塩分のとりすぎになっていても不思議はない。

本来なら起きだしてトイレに行けば済むことだが、それがすぐには出来ない。寒さで布団から出られない訳ではない。確かにこの寒さは、布団から出るには充分な障害ではある。ではあるのだが、俺が布団から出られない訳は別だ。

そう、寝る前に見たレンタルビデオのホラー映画のせいだ。

あの話は、映画館での公開時にはかなり怖いと話題になっていた。興味はあったのだが何かと忙しく、ついに見に行かなかった奴だ。けして、怖そうだから躊躇していたら終わってしまった訳ではない。確かに私は、遊園地などのお化け屋敷には絶対入らない主義の人間だが、お化け屋敷で実際に脅かされるのと、スクリーンの向こうで恐ろしげな事をやっているのでは決定的な差がある。どんなによく出来た作品でもスクリーンの中では現実味が薄いのだ。ホラー映画というものはだから、怖いと思った事がない。そんな訳で、あの映画がレンタルポジションに入ったということを聞き、つい借りてきてしまったのだった。

しかしてそれは、すぐに後悔に変わった。日常に潜む恐怖をデフォルメして描いたこの作品は、妙なリアリティを持っていてもしかしたらフィクションではないのではないかと思わせる出来だった。本当に怖かった。

白状しよう。情けない話だが、あのビデオのせいで明かりの消えた屋内をトイレまで歩いてくのが怖いのだ。暗がりに何か良からぬモノが潜んでいて、そこを通るとどこかへ引きずり込まれそうな気がするのだ。

そんなことを考えているうちに、尿意が増してきた。おかしい。いくら水分を取りすぎたからといってこんな時間にこんなにもトイレに行きたくなるなんて。俺も歳をとったということか。それとも、まさかとは思うが本当にビデオの呪いが……。

いや待てよ。そうだ、怖くて寝付けないのが嫌でいつもはやらない寝酒をしたんだった。それも強めのウイスキー。おかげで寝付きはこの上なく良かったが、こんな副作用があるとは思ってもみなかった。

許された時間はあと僅かだった。なんとしてでもトイレに行かなければならない。しかし、このまま暗闇を行けば、恐怖でちびってしまうという、大の男として最も恥ずべき結果を招いてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けなければならない。

恐怖の原因は何処にあるか。ビデオ自体が中核にあるのは間違いないが、今この場の恐怖を作り出しているのは暗闇である。俺は、冷静にそう分析した。よし、それならば対処法はある。暗闇を撃退するには光だ。

幸いなことに人類には、そして我が家には電灯という文明の利器がある。エジソンは偉大なり、だ。

俺はシミュレーションを開始した。この部屋から、目標のトイレまで撃退すべき闇は三ヶ所ある。すなわち、この部屋、廊下そしてトイレだ。まずこれらの場所の、電気のスイッチを頭の中で確認することにしよう。

この部屋の電気は、寝ている状態から見て斜め下方、ちょうどヘソの真上ぐらいにスイッチの紐がぶら下がっているはずだ。廊下のは、部屋を出てすぐ左手、肩の高さより少し下のあたり。トイレのは扉の右脇の、二つあるスイッチの上側だ。下は換気扇なので、間違えないようにしなくてはならない。

よし、いいぞ位置の確認はバッチリだ。次は実際の動きのシミュレートだ。

まず、跳ね起きて部屋の電灯のスイッチを引っ張る。一回で全ての蛍光灯が点灯するはずだ。

実はこの蛍光灯というのが少々問題を含んでいる。明かりがつくまでに若干のタイムラグがあるのだ。時間にしてほんの数秒ではあるが、暗闇の恐怖に耐えなければならない。

しかし、作戦の性質上ここは必ず通らねばならない道だ。大丈夫、俺にもまだそのくらいの勇気は残っている。ここをクリアすれば勝ったも同然だ。

部屋のドアまで走り寄り右手でドアを開けながら左手で電灯のスイッチを入れる。廊下とトイレの明かりは電球がついているのでラグ無しで点灯するので全く問題ない。

そしてトイレまで走り抜けるのだが、このとき扉は閉めていかない。閉めているだけの時間的余裕がないというのも一因ではあるが、実は作戦の遂行上重要な意味を持っている。万が一電気の点灯に失敗した場合でも、部屋の明かりが流れ出し廊下の闇を完全ではないが後退させることが出来、恐怖による暴発の危険性をグッと低下させることが出来るのだ。同じ理屈で、トイレのドアも閉めない。トイレの前に到達したら、スイッチを入れて扉を開け放ち一歩半進んで、パジャマ代わりのトレーナーのズボンを降ろし、狙いをつけて発射する。うむ、完璧だ。

ちなみに余談ではあるが、俺はノーパン健康法を実践しているのでこの際に下着を降ろしたり、前の窓をまさぐったりという手間がない。この事実が作戦の難易度を低下させるのに一役買っている。人生は何が幸いするかわからない。塞翁が馬とはまさにこの事だろうか。

準備は整った。あとは実行するのみだ。デッドラインはもう、すぐそこまで来ていた。俺は大きく息を吸い込み、ハッと鋭く声を上げた。その声を合図に作戦は開始された。

作戦中、二つのトラブルが起こった。一つは部屋の扉に移動するときに左足が何かに当たった事。足にダメージはなかったが、少しバランスを崩し出足が遅れてしまった。ここでロスした時間はほんの僅かで、作戦の遂行に影響はないと、そう思った。

だが、ここでの僅かなタイムロスが、俺を窮地に追いやろうとはこの時はまだ考えもしなかった。

二つ目のトラブルは致命的なものだった。俺のシミュレーションの甘さが招いた、いわば自業自得のトラブルであった。

その事実を目の当たりにしたとき、俺は自分の浅はかさを呪った。当然予想してしかるべき事であったにもかかわらず、すっかり計算に入れるのを忘れていたのだ。

便座が、降りていた。

トイレの扉を開け電気をつけたとき、俺はもうズボンを降ろしにかかっていた。当然便座が上がっていると思ってだ。

この時、俺が選択出来る行動は二つあった。このまま狙いを定めて発射すること、便座を持ち上げて発射することだ。

このまま狙うほうが確かに速い。しかし、俺の腕では目標をはずす可能性が高く、また、はずした時の被害は想像することすら出来ない。この選択はあまりにも危険だ。便座を持ち上げる事を選択すれば、狙いを違える心配はなくなるのだが、ここに、時間の壁が立ちはだかった。

ここまで、万事無事に来ていれば、あるいはおそらく、便座を上げる余裕もあったであろう。しかし、しかしである。一つ目のトラブルで失った時間がそれを許してはくれなかったのだ。

我慢は限界に逹していた。

突入に成功し、完遂を目の前にしているというのに、こんな所で果ててしまうのか、俺は、そこまでの男だったのか。

この世の終わりが見えかけた刹那、まさに天啓の如く、ある一つのイメージが浮かんだ。もう考えている時間はなかった。俺はイメージに導かれるまま体を動かした。

まず、ズボンを降ろす手は止めずにその場で反転。トイレの中へ進もうとする移動ベクトルを殺さずにそこに重力加速度を加え斜め下方へのベクトルを生成する。それは、一挙動で行うにはあまりにも高度な身体運用だった。しかし俺は、俺の体はイメージの要求を違えることなく見事にやってのけたのだった。俺の尻は狙い通り、便座の上に着地した。

ほんの数瞬でも遅ければ俺の負けだった。着地の瞬間、右手を使って砲身にマイナス仰角をとらせたのと、デッドラインに到達したのはほぼ同時だったのだ。安堵と達成感を含む何かが背中を駆け抜け、俺は身を震わせた。あるいは遅い武者震いだったのかも知れない。とにかく危機は回避された。真夜中の小作戦は成功に終わった。


かのように思えた。


成功の余韻に身を任せている俺の耳に聞きなれた声が聞こえた。俺の名前を呼ぶその声には明らかに怒気が含まれていた。

心拍数が一気に上がった。作戦は成功した。成功したはずなのに、この胸騒ぎはいったい何なのだ。もしかして俺は、作戦の成否以前に何かとても大切な前提条件を忘れていたのではないか。

もう一度声がした。そう、これは俺の妻の声だ。そう思い至ったとき、俺の心臓は拍動を停止した。実際には一秒にも満たない時間だったと思うが、二度と動き出さないとさえ感じられた。

心拍が戻ると全身から血の気が引いた。

そうだ、妻の存在を忘れていたのだ。


妻は俺の隣に寝ていた。俺と部屋の扉との間にである。

もしかして、部屋を移動する際に左足にあたったものは、考えたくは無いが、いやきっとそうに違いない。俺は、俺自身がいったい何をしてしまったのか、脳内で検証を始めた。そしてそれにより導き出された結果は、身の破滅を暗示していた。


妻は、横で寝ていた夫の突然の大声に目を覚まさせられたかと思うと、突然つけられた電気に目を眩まされ、自分をまたぎ越していく夫に顔面に蹴りを入れられたのだ。そしてその夫が大きな音を立てて扉を開け放ち、数々の騒音と共にトイレに腰掛けたのである。かてて加えて、扉は開けっ放し。寝起きの悪い彼女でなくとも腹の一つも立てようというものである。

身の危険を感じた俺は、何とか身を隠すことが出来ないか考えを巡らした。開け放たれたトイレの扉は、外開きのため座ったままでは手が届かない。立ち上がろうにも俺はまだ体内の余剰な水分と加水分解されたアルコールの混合液を排出しきっていない。今の俺には情けない表情と共に、遥か彼方のドアノブに向かって手を伸ばす事しか出来なかった。


妻の足音がゆっくりと近づいてくる。排出はまだ止まりそうになかった。

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