6.悪魔は悲しまない
王女は元々体が弱かったが、ゆるゆると弱っていく。
後から思えば、食事などに毒のようなものを盛られていたのかもしれないし、そうではなく生まれつきのものかもしれなかった。
その短くして終わろうとする運命に対しても、悔しさや苦しさなどの負の感情はなかった。それは、将来を期待させるようなことを言っても、変わらなかった。
とっくに、長く生きることや人生の喜びなどは諦めているのだと知る。
これまで生きてこられたことなど、関わった僅かな人々へ、様々な感謝や今もなお生きている喜びなどをぽつりぽつりと口にする。
彼にとっては居心地の悪いものばかりであった。
悪魔は焦る。
このままでは大事に育てた感情を、回収しないまま死神に手渡してしまうことになる……と。
いつにしようか。
今ここで、裏切れば……
病床で、裏切れば……
死の間際で、裏切れば……
じわりじわりと彼女の砂時計の砂が減っていくのを見ながら算段する。
いつ、囁いてやれば、一番深い絶望を得られるだろうか。
そして、この日と決める。
いよいよ、と思う頃。もう長いこと、歩くことも、布団から出ることすらなくなっていた、その日。
悪魔は密やかな想い告げるように、王女の耳に唇を寄せる。
「自分は、お前の存在を利用していただけだ」
「お前など……餌でしかなかった……」
弱々しく息を吐き、今にも命の灯火がふいと消えてしまいそうに、横たわる彼女に明かす。
他に案ずる者もいない、日も当たらぬ、暗く寂しい部屋だった。
自分が、彼女にとっての唯一の存在だと自信付ける。
その自分が裏切れば……
しかし、彼女は、その言葉を聞いて、ふんわりと笑った。
「よかった……」と。悪魔は一瞬聞き間違いだろうかと考えた。しかも、「それならば、この身は、あなたに何か恩を返せるのでしょうか。」
「恩だと……?」
「何度も助けていただきましたから。」
助けたことなど一つも思い出せなかった。弱る今この時ですら医師も来ず、何の手も施していない。ただ死に向かうのを眺めているだけ、いや、苦しむ姿を見ようとしているだけだ。
彼女は続ける。
「それなのに、私は何も持たず、何も返せず、心苦しく感じていたのでした。」
ああ、あの時の、あの苦痛はそういうものであったのか、と思い浮かべる。
「自分のためだ。全て。助けようとなど考えたこともない。」
「それでも、嬉しかったのです。あなたがいてよかった。これで思い残すことは何もありません。」
「自分がいなくなっても、誰も……悪魔さんも悲しくないならよかった……」
通称でありながら真実を表すその名で呼ぶ。
王女が虚空に震える指を伸ばして……その手を思わず掴もうとするが、悪魔の指先をかすめて、空を切る。
力なく落ちた王女の手に触れれば、すでに音はなく、温度を失っていた。
自分と同じ温度をもたない冷たい手になって、ようやく逝ったのだと思い至る。
恨みも怒りも悲しみも苦しみも何一つ抱くことなく、ただ穏やかな感謝〈不味いもの〉のみを残して……。
その後は極めて事務的に処理される。
元々公にされていない王女の、しかも公にしづらい弔事。
書面でそのことを知っても、血縁者であるはずの陛下は席すら立つ素振りもなく、顔色一つ変えず、骸に会いに行くことなど考えもつかない、悲しみの欠片も得られなかった。まだ死んでいなかったのか、という程度の感想でしかないのだろう。
参列するものも死を悼むものもろくにいない形式上おこなったと言いたいがためだけの慎ましく密やかな葬儀が行われて、庭石を置いただけのような名も書かれぬ強い風一つ吹けば吹き飛ぶようなささやかな墓におさまって、あっけなくこの世から彼女の存在は完成に消え去った。