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イズの一言で完全にその場の空気が止まった。
スノトーラは既にその場から離れていたが、いたら起き上がって目を見開いていたはずだ。
残って様子を窺っていた使用人達も、ヴァング公爵、ヴィナディス、オセル…全員が固まってしまっていた。
物音一つとしてその場にはなかった。
いきなりの出来事で誰も現状を理解できず呆然としていた。
「お、お待ちなさい!もういいですわっ!」
先程までイズを陥れようとしていたヴィナディスが慌て始めた。
どうやらあのイズがトラウマになっている様だ。
自分のしでかした事が何につながっているのか自覚はしたのだ。
「もういいですわっ!」
そんなヴィナディスが慌てている中で、ヴァンディル卿は誰よりも衝撃を受けた様で完全に固まっていた。
突き返されている自分の魔石を見た後、顔を上げイズを凝視していた。
「…本気なのか?」
ゆっくりとヴァンディル卿はイズに尋ねる。
低い彼の声がさらに低くなっていた。
「はい」
イズが自信満々に頷いた。
「私は離縁しますよ」
イズの晴れ晴れとした表情と言葉が一致していない。
いや、イズの心とその周りの心が全く一致していないのだ。
ーーどうなる…
いきなりの展開に誰一人として頭も心も追いついていない。
何がどうなっているのか、全てが明らかになった後に大きな波が押し寄せる。
そんな周りなど気にせずイズは言葉を続ける。
「旦那様がそれでいいのなら」
「!」
イズの言葉にヴァンディル卿は目を見開いた。
そして、平然と言い放ち微笑んでいるイズを見つめる。
「…」
またしても静まり返った空気がその場を包む。
ニコニコとしているイズとそれを見つめ続けるヴァンディル卿ーーまるでにらめっこ状態だ。
何故かそれを邪魔をしてはいけない気がして、周りは黙って見守っていた。
「はぁ…」
暫くしてヴァンディル卿がため息を吐いて、片手で顔を覆った。
「……すまなかった」
ヴァンディル卿はイズに一歩近づくとイズが突き出したものを受け取ると、イズの胸元に付け直す。
イズはそれに抵抗せず、当然の様に待ち構えている。
「それだけですか?」
「…」
「旦那様?」
ヴァンディル卿は眉間にシワを寄せたが、それもすぐに消える。
「…君には敵わない」
渋い顔で言うと、イズの手を握って口づけを落とす。
「私は離縁する気はない。例え君が望むとしても、だ」
「逃げ出したらどうします?」
イズは悪戯にヴァンディル卿に尋ねる。
「…言ったはずだ。私は気に入ったものを手放す気はない」
ヴァンディル卿は無感情ーーいや、彼の真剣さが十分にこもった表情と声色で言った。
よく響く彼の声はその場にいる全員に彼自身の言葉として響く。
「…これで、許してくれるだろうか?」
言い切った後に、ヴァンディル卿はイズの手を両手で包み込み上目遣いでイズに問いかける。
あれだけ険しい表情の人がこんな不安げな表情をするのは反則だ。
イズはそんなヴァンディル卿を見て満足したのかクスリと笑う。
「はい。少しスッキリしました」
そう言って、顔を上げたイズの表情はとても嬉しそうだった。
すると、その場面を見守っていた人々の間に衝撃が走る。
「「「「!!」」」」
ヴァンディル卿もほっとしたのか固い表情を和らげたのだ。
それはまさしく笑顔だ。
国の剣として様々な功績を挙げたヴァンディル卿は堅物として有名だ。
敵に一切隙を見せない無表情の男だった。
なのに、今目の前にいるのは、一人の女性に対し愛を懇願している只の男に過ぎない。
彼は誰にも見せなかったその表情に誰もが彼がイズに思いを寄せていると認めざるをえない。
それは先程まで自分とヴァンディル卿の絆を疑わなかったティッタも同じだった。
「テュール……」
茫然として目の前の2人を見つめていた。
彼女はずっと自分は彼の中での特別だと思っていた。
まだ彼女の父が生きていた時、初めて出会ったヴァンディル卿にティッタは心を奪われた。
その思いは共に暮らす様になっても膨れ上がる一方だった。
ずっと一緒にいたからティッタは知っていた。
彼が他の者に全く感情を見せないと、本当に心の底からこみ上げるものがないと彼のあの固い表情を崩さない。
女性に対してヴァンディル卿がそんな表情をした事がない。
ーーでも、私の前では少しだけその表情を崩してくれる
彼が親愛できる人間にしか向けない表情を彼女は知っていた。
だからこそ、ヴァンディル卿が結婚すると聞いて彼女は驚いた。
ーー私じゃないの…?
ティッタは彼に近い人間は自分だと思っていた。
「イズちゃんは明るい子でね。いや明るいって言うよりも何となくね、一緒にお茶したくなるって言うかね?」
アルヴィング夫人が嬉しそうに報告していたがティッタの耳にはいまいち入らなかった。
あまりの衝撃でティッタは誘ってもらった結婚式も断った。
自分は特別ではないのかそんな悩む日々が続く様になると、結婚したヴァンディル卿は王都に来る度に忙しさが増す様になる。
「きっと奥様に苦労されているのです…」
ティッタがまだここの使用人になる前から知っているローゲがティッタにそう言った。
執事も引退してしまい変な噂が立つ様になった時だった。
「来る度にため息をつかれて…」
まともに話した事のなかった彼だが、そう言ってヴァンディル卿の事を話す様になった。
ティッタが使用人として働く様になってからヴァンディル卿とティッタはそこまで話さなくなった。
「…反感を買いかねない行動は控えた方がいい」
ヴァンディル卿はそう言ってティッタを突き放した。
確かにここの使用人になるのを望んだのはティッタだ。
そうすれば平民の自分はずっとここに居られると思った。
そして、いつか彼が振り向いてくれればーーそんな願いは結婚してから抱く事はなかったが、ローゲの一言で変わった。
「旦那様は今も貴方の事を想っていますよ」
彼は関わりの少なくなったヴァンディル卿の話をティッタに伝えてくれる。
ティッタは彼の言葉に満たされた。
やっぱり自分は彼の特別なのだ。
ローゲの甘い言葉は再びティッタに夢を持たす事は簡単だった。
ーーなんで…
だから、ティッタには今目の前で起こっている事が全く信じられない。
自分が見た事のない表情をしたヴァンディル卿がその場にいた。
それが親愛以上の感情だと一眼でわかる。
妹と断言された自分への表情とは格段に違った。
ーー私じゃないんだ…
誰も邪魔できない2人の絆にティッタは茫然とただ思うだけだった。




