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ーーなんだ?あ、圧を感じる…


男は身震いした。

彼は王都のヴァンディル伯爵邸で料理長として長く勤めている。

その腕は確かなもので料理に関してヴァンディル卿も口を出せない程だ。

ヴァンディル伯爵家で働く様になってその情熱のままに働いた。

長い料理人生活の中で彼の信念は確立していた。

彼が今まで学んだ全てが料理だと彼は信じて疑わない。

華やかな盛り付け、貴族好みの昔ながらの味や工夫、それは完全に一つになり彼は自分の中にある以上のものなどないと確信していた。

そんな信念を持つ様になって数年、彼は今までに感じた事のない圧を感じる。

彼の料理を雇い主や身分の高いものへ振る舞うよりももっと緊迫した何かが彼を襲うのだ。


ーーこれは一体…


夕食の準備を始めていた彼は顔をあげ周囲を見渡す。


「!」


料理長の目に映ったのは、屋外から窓越しでこちらを眺めているイズだった。


ーーお、奥様!?


ジーー


料理長はイズを確認し慄く。

いきなり来た『悪女』と噂されている奥様が、なぜ自分を見つめているのか理解は出来ていない。


ーー何なのだ…この手が震える圧は…


本能的に全身の毛が逆立ってイズを警戒しているのだ。

料理長はこれが『悪女』と言われている所以なのかとその恐怖に溺れそうだった。


ジーー


ーーな、何故見ている…


ジーー


ーーこの緊張は…奥様は一体何を見ているのだ…


料理長はイズの視線に固まる。

顔がガラスに張り付かんばかりに顔を接近させていたイズだったが、いきなりその横にあるドアを勢いよく開けた。


「失礼します」


イズにしては威圧的な声で言った。

正直、ヴィナディスの足元にも及ばないふやけた声色だが、それよりも目の迫力が増していた。


「お豚さんはありますか?」


イズは鼻息荒く料理長に言った。

まるで悪魔にでも取り憑かれた様な圧のあるイズに料理長をは一歩さがる。


「お、奥様、豚肉の事でしょうか?」


何とか料理長は料理人としての誇りを糧に、イズに立ち向かう。


「はい」


イズは低い声でゆっくりと返事をした。


「き、今日のメインは魚ですので、豚肉はちょうど切らせています」


この国では豚が多産である為、基本的に地下の保管庫にあるはずだが、今日はたまたま切らせていた。


「魚…」


イズはぼんやりと考え込む。

だが、すぐに顔をあげる。


「私の分だけ頂戴」


イズは目を光らせて言った。

その目はまるで獲物を見つけた鷹の様だと料理長は感じた。

その後ろから現れたスノトーラは温度の低い目でイズを見つめていた。

リフィは後ろで困惑の表情を浮かべる。

この張り詰めた緊張感に彼はここがイズの支配下にあると確信する。


ーー奥様は…一体何をするんだ?


料理長は人生で初めて経験するこの緊張感に、ただ唾を飲み込むしかなかった。料理長から自分の分だけの魚を渡されたイズはそれを手に取ってじっと見つめる。

何故簡単に自分の聖地に彼女を入れてしまったのか料理長は理解できない。

だが彼の細胞がこの人を試してみたいと言っているのだ。


「お魚さん…」


イズのまるで親の仇でも見るかの様な目にその場の人間は凍りつく。

スノトーラしかイズの考えがしょうもないのだと知らないのだ。


ーーお豚さんがないのなら仕方ないわ…


イズはこの怒りをどうにか消化しようと、豚肉でも焼いてしまおうと思っていた。

そして想像するのだ。

熱がって嫌がるヴィナディスに「これが旦那様の情熱よ!」とイズはニマニマして豚肉を焼き、そしてがっつりと食べてやろうと思っていた。

これがイズが調理室を見て思いついた怒りの発散方法だった。

食べ物に罪はない。

だからこそ、食べ物を粗末にせず、イズの想像の中で満足感の得られるこの解決法を求めたのだ。

だが、目の前にあるのは魚だ。


ーーお魚さんをあの方にはちょっと想像できないわ…


イズはションボリとする。

豚の肉の塊だってヴィナディスを想像できるかと言われれば、そうではないが、豚という関連性から何とかしようとしていた。

イズはまじまじと魚を眺めてどうにかしようとまた考え込む。


ーーいや、このキラキラした表面…いけるっ!!


イズは目をカッと開いて顔をあげた。

何とかイズの脳内で魚とヴィナディスが結びついた。


「覚悟ーー!」


イズは魚の鱗を取りはじめた。

まさしく鬼の形相…ではないがイズにしては迫力のある表情で魚を裸にしていく。

イズの脳内ではヴィナディスが宝石やドレスを剥ぎ取られ「やめてー!!」と叫んでいた。


「ま、まさか…」


料理長は真っ直ぐな瞳を自身に向けているイズの瞳から何かを読み取った。


ーー私は試されているのか…っ!?


この圧は間違いないと料理長は確信した。

そしてもう一度イズに目を向けると驚愕の表情を浮かべ慄いた。


「こっこれはっ…」


イズの勢いのある鱗取りに彼は自分の最初の師匠だった港町の料理人を思い出す。

まだ若かった彼は、熟年の手捌きで魚をおろしていく料理人に釘付けになった。


「はぁあああ!!」


ざっと魚の下処理を終わらせていくイズはあの時の夢いっぱいの料理長の見ていた風景の様に思えた。

実際は勢いだけで、イズの不器用さがよくわかる荒い仕上がりだ。

だが、それでも料理長には泥臭くも美味しさを求めていた自分を思い出していた。


「次は塩!」


丸裸にしたヴィナディスにイズは塩を振りかける。

本来なら擦り込んでやりたいぐらいだが、さすがにそれは可哀想で、振り掛けるだけにした。

イズの中では塩に悶えるヴィナディスがいた。


「ふふっ…」


イズは初めて人の不幸に笑う。

それぐらい腹が立っていたのだ。


「な、何あれ?」

「どうしたの?」

「あ、奥様…?」


調理室の騒がしさに人が集まり始める。

スノトーラはこれ以上面倒事にならないといいと思いつつ、あきれた顔をでイズを見守っていた。


「最後よ!!」


イズは暖炉の火の中にその魚を放り込んだ。

そして焼けていく魚をじっと眺める。

頭の中ではイズに「ごめんなさい」と平伏すヴィナディスの姿が浮かんでいた。

集まって来た使用人達はその真剣な面持ちのイズに釘付けになっていた。


ーー何が…始まっているのだ!?


誰もが状況を把握できていなかったが、イズの空気感から手を出してはいけないと感じていた。

そして料理長はそれを驚愕の表情で見ていた。


ーー皆を釘付けにしているっ!!


自分が料理をしていてもならなかった事だ。

そしてあの時の自分の姿が思い出される。


「仕方ない!許してやろう!!」


イズはそう言って暖炉から魚を取り出す。

見事にまるこげになった魚だった。

だが、イズがその真っ黒な部分を取り除くとふっくりとした魚の身が出て来た。


ゴクリ


皆が唾を飲み込む。

美しさのかけらもない、貴族が食べるにしてはおかしい食べ物だったが、何故かその場にいる人々はその料理に見入る。

匂いといい、適度に油ののったほくほくとしたそのビジュアルといい何故か食欲をそそる。

そしてイズがその魚をパクリと一口食べる。


「おっ、美味しい」


イズも驚いた様に言った。

そして何とも幸せそうな表情を浮かべるイズに全員の食欲が最大値に届く。


「あ、みんなも食べる?」


流石にその視線に気づいたイズは呑気な笑顔を浮かべながら解した魚の身を使用人達に差し出す。

そこには先ほどまでの殺気は消えていた。

イズもすっきりしている。


「いただきます!」


真っ先に飛びついたのはリフィだった。


「~~!美味しい!」


リフィは頬に手を当て嬉しそうに食べる。

その様子を見ていた使用人達はイズに断りを言いながら次々に食べていく。


「本当だ…」

「美味しい」


そして料理長もそれを食べた。


「!」


彼の中に衝撃が走る。

素朴な美味しさが口の中に広がり、何とも言えない幸福感に襲われる。


ーーあっ…そ、そうか…


料理長はその場に崩れ落ちた。

自分は見た目ばかりを追いかけていた。

だが、見た目によってカバーできる美味しさを超えるものがあるのだ。

とても貴族に出される料理とは言えないこれに料理長はかつての思いをくすぐられる。


ーーそうだ…私はあの笑顔を作りたいのだ…


料理長は項垂れた。

自分が殻に閉じこもっていた事を痛感する。

この包まれる幸福感、これこそが料理だと彼は確信した。

そっと、頭の帽子をとって胸に当てる。

そして呑気な表情を取り戻したイズをじっと見つめた。


ーーあの方に喜んでいただける料理人になろう…


料理長は心に決めるのだった。

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