歯について(Ⅴ)
手のひらを返す人。
手のひらで転がす人。
佐伯さんは完全に後者だ。
すぐにでも、向かいのマンションへと走り出したかった。けれど、僕らにはカードキーがない。
つまり、マンションに入るには、誰かがマンションに入るときか、出るときかに限られる。
男の人が沢山のチラシを持って、入口横の郵便受けにチラシを入れようとしていた。管理人さんは急いで、止めた。男の人は残念そうに外に出て行く。
「ちゃんと仕事をしてるね」
佐伯さんに誉められているのは、管理人さんなのか、チラシを入れていた男の人なのか。そして、僕もちゃんと仕事ができるのだろうか。僕は落ち着くために、深呼吸した。ため息ではない。
いつまでも二人で待っていたいけれど、そうはいかない。チャンスは一度きりである。
派手な雰囲気の女の人がマンションに入ろうとしていた。小さな鞄なのに、カードキーが見付からないようで、鞄の中を手で探っている。長い財布のファスナーを開けようとしたときだ。
「行こう」
佐伯さんの小さな号令で、僕は足を踏み出した。僕たちがマンションの正面に着いた頃に、やっとお姉さんはカードキーを見付け、壁に嵌め込まれた機器に財布ごとかざした。最初から、そうすればよかったのに。
ピッという小さな電子音とともに、ガラス戸が開いた。
お姉さんに続いて、僕たちもマンションに入ることができた。簡単だった。
僕はお姉さんと一緒にエレベーターに向かうつもりだったけれど、ちゃんと仕事をしている管理人さんが僕らの前に現れた。怖い顔のおじさんだ。
「君たち、勝手に入っちゃ駄目だろう」
もっともな意見であり、僕はもう逃げ出したくなった。
「ごめんなさい!でも、ケンくんにプリントを届けないといけなくて」
一瞬、誰の声かわからなかった。佐伯さんの口から、女の子らしい可愛い声が発せられた。
佐伯さんの手に握られたプリントはシワになっている。泣きそうな瞳で、佐伯さんはおじさんを見つめる。先程までの恐れを知らない佐伯さんはどこだろう。
佐伯さんの体が震えている。僕も怖くなり、震える。ケンくんとは、どこのどいつだ?
「ケンくん……は、お休みで……せんせぇが」
このしゃくりあげ方は知っている。僕たち男子はこれに弱い。おそらく、大人のおじさんも弱い。女の子が泣いてしまうと、僕たちは容易く「悪者」にされてしまう。
「せんせぇにたのまれてっ!つい、入っちゃって!ごめんなさい!」
僕は慌ててハンカチを取り出そうと、ランドセルを背中から下ろした。あのお姉さんよりも、僕は慌てていた。ハンカチはいつもポケットにあるはずなのに。
僕がランドセルからポケットティッシュを出すより、おじさんが先にハンカチを取り出していた。緑色のチェック柄のハンカチだ。
「そうか、そうだな。ケンくん、お休みなんだね」
おじさんの声がかなり優しいものに変わっていて、僕は目を見開いた。
さっきまでの怖いおじさんと、さっきまでの自信家の佐伯さん。僕は何を見せられているのだろう。ティッシュをランドセルに戻して、僕は立ち尽くす。
「おじさん、ケンくんにプリント渡してもいい?」
佐伯さんはハンカチを目の下に当てて、おじさんに再度確認する。
「もちろん、いいとも。何階だい?」
おじさんは急いでエレベーターの上のボタンを押してくれた。
エレベーターが1階に到着し、僕らはおじさんに頭を下げて、乗り込んだ。
佐伯さんは18階のボタンを押した後に、閉めるのボタンを押した。扉はすぐに閉まり、僕らを乗せたエレベーターは上昇していく。
エレベーターが動き出すとら佐伯さんの涙は止まった。僕は佐伯さんに話しかけられなかった。佐伯さんも無言だった。女の子の涙に騙されてはいけない、と僕は心に刻んだ。
エレベーターのボタンの上、表示される数が上がっていくのを二人で静かに見ていた。
ご、ろく、しち、はち、きゅう、じゅう……
エレベーターは途中で止まることなく、無事に僕らを最上階へと運んだ。
空は夕日に染まり、綺麗なオレンジ色になっていた。高い建物だからか、風が強く感じられた。この辺りで一番高いマンションの眺めだ。マンションの部屋のベランダからは、もっと良い眺めが楽しめるのだろう。道すがら見た、あの高い山が見えるはずだ。
ベランダには敵わないけれど、通路から見る風景は十分に美しかった。来てよかった。満足感が僕の胸を満たしていく。単純だけれど、この景色を佐伯さんと見られたことも嬉しかった。
「すごいね」と言おうと佐伯さんの方を向くと、佐伯さんはすでに奥に進んでいた。
僕らの冒険はここで終わりではないことを思い出した。ズボンのポケットの中には、まだ硬くて小さな歯がある。
通路の突き当たりには非常階段がある。上には屋上があり、そこが僕らの目指す一番高い場所なのだ。
佐伯さんと白い階段を上った。今より高く、美しい場所に僕らは歯を投げる。
はずだった。
まだ階段は続いているけれど、金属でできた厚い扉が僕らの行く手を阻んだ。
南京錠が付いた扉で、僕らには開けられない。
「ここまでか」
落胆する僕をよそに、佐伯さんは冷静だった。
「鍵は開けられないよね?」
「鍵を壊す道具ならわかる。でも、もっと怒られちゃう」
管理人さんに悪いじゃない、と佐伯さん呟いた。どの口が言うのか、とは言えなかった。
「ここに住む人も屋上には行けないものね」
最上階には扉が6つあった。広い部屋が6部屋あるとしたら、とても広い屋上があることになる。雲までは遠くても、空に近い屋上を想像する。もっと風が強くて、僕らは飛ばされるかもしれない。
「今は、まだ……」
「うん」
佐伯さんの言葉を遮って、僕は大きく頷いた。
僕と佐伯さんは階段を十段下りて、改めて歯を投げた。金属の扉にコツンと当たって、佐伯さんの歯は六段目に、僕の歯は五段目に転がって落ちた。
呆気ない終わりに、僕らは吹き出した。
「帰ろう」
僕らは自然と非常階段を下りていた。
太陽が沈む前に。
星空になる前に。
足取りは軽かった。