歯について(Ⅳ)
抜けた歯の下には、大人の歯が生える。永久歯だ。
長い階段を下りながら、佐伯さんは言っていた。
――永久に歯が残るとはかぎらないのにね
「え、僕たちは悪いことをするの?」
佐伯さんは右手の人差し指を立てて、僕の言葉を制した。
「そうだよ。だから、声は小さく、ね」
「……歯を高いところへ投げるだけじゃないの?」
「高いところへ、どうやって行くの?」
「え、あそこから……あ!」
マンションの入口に人が吸い込まれて行くのが見えた。マンションの住人は何かをかざし、軽く会釈して、奥に入っていく。
「あのマンションはオートロック」
僕は聞きなれないカタカナ語を頭に刻み、なんとなく頷く。意味はわかる。鍵が必要なのだ。
「鍵がいるんだね」
「そう」
僕が理解すると、佐伯さんは微笑んでくれる。良い子だ、というように。
その微笑みに癒されつつも、僕たちには課題が残る。鍵がない。
「あと、何を見たか覚えてる?」
「ええと、お辞儀をしてた!」
「つまり、入口には人がいる。管理人さんだと思う」
「なるほど」
僕の住むマンションにも、毎週金曜日の朝にマンションの通路を掃除するおじさんが来る。あのおじさんをお母さんは「管理人さん」と呼んでいた。
このマンションには昼間も管理人さんがいるということだろう。
「必要なものは鍵と、なんだろう?」
「そうね」
佐伯さんはまたマンションの入口をじっと見ていた。観察だ。朝顔と同じで、たいした変化はないように思うのに、佐伯さんは静かに策を練る。その間も人が出たり、入ったりしていた。
佐伯さんが口を開くのは意外と早かったように思う。
「一番良いパターンは偶然カードを拾うこと」
僕の困った顔を見て、佐伯さんが頷く。
「まあ、無理だね」
そんな都合のよい偶然なんて、そう起こらないものだと佐伯さんは言う。
「じゃあ、悪いパターンは?」
「このまま諦めて家に帰ること」
「あんなに嘘をついたのに……」
僕の言葉に佐伯さんの眉がぴくりと動いた。
「そうだね、嘘が鍵だ」
佐伯さんはランドセルを背中から下ろし、膝の上に置いた。
「瀬戸くん、もう一回嘘をつける?」
佐伯さんの問いに僕は首を縦に振った。
「じゃあ、作戦開始だね」
「え?」
僕はちゃんと作戦を聞いてない。さらに言えば……
「もっと悪いパターンは?」
「不法侵入がバレて、学校に通報されること」
管理人さんと先生と僕のお母さんに怒られる。たしかに、それは回避したい。どの家でもそうかは知らないけれど、お母さんは怒ると怖い。怖くなって、今度は僕が尋ねる。
「バレたら、どうするの?」
「バレなきゃいいんだよ」
不思議そうに首を傾げて、佐伯さんは向かいのマンションへと真っ直ぐ歩いていく。
バレたときの3パターンは考えない。
失敗しない自信があるからなのだろう。