歯について(Ⅲ)
この街は都会でも田舎でもない。繁華街はないけれど、便利な大型のショッピングモールがある。佐伯さんによると、都会に働きに出る人の「ベッドタウン」になっているらしい。
僕のベッドもたしかにこの街にあった。僕はまだ幼くて、夜を明かしたこともなかったけれど。
「瀬戸くん」
校門の前で僕は呼び止められた。
背中にむず痒いような感覚が走る。佐伯さんが授業以外で僕の名前を呼んだのは初めてだったからだ。
学童クラブに初めて嘘をついた。頭が痛いんだと言うと、お母さんを呼ばれそうになった。というか、呼ばれた。先生からお母さんに電話をかけられたのだ。電話口で、お母さんはもう少し待っていてと言った。けれど、僕はお母さんにすごく頭が痛くて、早く帰りたいと伝えた。我ながら、名演技だった。
「道もわかってる。一人で大丈夫だから」
「変な人についていっちゃだめよ。鍵はあるよね?」
「大丈夫」
僕はお母さんにも嘘をついた。
佐伯さんと歯を投げる。
夕飯より、夕方のアニメより、魅力的に思えたのだ。
佐伯さんは茶色いランドセルを背負っている。僕は黒いランドセルだ。茶色いランドセルはクラスにも数人いたけれど、佐伯さんが使うランドセルは僕のとは違って、ひっかき傷もなく、とても高価なものに見えた。
僕らはまだ夕方には明るい道路の端を一列になって歩いた。僕が佐伯さんの後ろをぴったりとついていく。
佐伯さんはいつも迷わない。
下の歯を高いところへ。最初は、どこに向かうのかわからなかった。遠くに見える名前も知らない山を目指すのかと緊張した。
しかし、途中で僕も気付くことができた。この街にはいくつか背の高いマンションが建っている。そのなかで一番背の高いマンションだ。マンションの名前は英語で僕にはまだ読めなかった。
佐伯さんはそのマンションから少し離れた位置で立ち止まり、指で下から上の階まで階を数えていた。僕も倣って数えてみた。
「18階」
佐伯さんは先に答えを教えてくれた。僕の指も遅ればせながら、追いついた。
「たしかに、18階だね」
たった120センチメートルしかない僕らにとって、街は広い。そして、マンションもとても大きい。
RPGのゲームの中に出てくる塔のようだと、僕は思った。緊張と興奮。また背中がぴりぴりした。
「行こう!」
僕が足を踏み出すと、佐伯さんはがしと僕の腕を掴んだ。つんのめるように、僕は進行を止めた。
「まだ駄目だよ」
「え?」
「よく観察しないといけない」
僕と佐伯さんは目的のマンションの近くの、別のマンションに併設された公園のベンチに腰かけた。向かいに目的のマンションの出入口が見える。
僕は観察という言葉の意味を考える。夏に育てた朝顔のように、何か変わったものが見えるのだろうか。
「アヤセさんが言ってた」
「アヤセさんって、前に一緒に帰ってたお母さんだよね?」
「ううん、お母さんじゃないよ」
僕が首をひねっていると、佐伯さんは続ける。
「悪いことをするときは、最低3パターンは考えておきなさいって。良いパターンと悪いパターンと、もっと悪いパターン」