歯について(Ⅱ)
少し前から、僕の下の歯がぐらぐらしだしている。抜けることを思うと、微妙な気分だ。下とはいえ、前歯が無くなる期間を過ごさねばならなくなる。子どもの小さな憂鬱にお母さんは何故か喜んでいた。
「大人の歯が生えるじゃない」
たしかに、大人の歯になれるのは嬉しい。でも、格好悪い。教室の席で、ぐらつく歯を舌で恐る恐る撫でながら、僕は憂鬱だった。
いつ抜けるのか。
そのタイミングもわからない。給食当番みたいにマスクでもしたらいい。大人はよくマスクをする。子どもも最近は気にしている。見えないウィルスに、少しでも抵抗するのだ。
ちなみに、僕のお母さんは看護師だ。だから、僕は少しだけ、他の男子と違うところがある。ちゃんと時間をかけて手を洗う。綺麗なハンカチを持っている。うがいもよくする。低学年男子のなかでは、かなり気を使っている方だと思う。秋からはお母さんが持たせてくれた小さなチューブのハンドクリームをよく塗るようになった。
「良い匂いね」
振り向くと佐伯さんが興味深そうに僕の手を見ていた。これは仲良くなれるチャンスではないか。嬉しくて、声が上ずった。
「使ってみる?」
「いいの?」
「しっとりするよ!」
自信を持っておすすめすると、かちりと歯に力が入ってしまった。
きんとした痛みとともに、例の歯が抜けた。僕は口の中をもごもごする。佐伯さんの前で歯を吐き出すなんてできない。僕はすぐに後ろを向いた。口から出たのは、少し血のついた下の歯だ。
「抜けたの?」
「え、うん」
「見せて?」
「え?」
「乳歯でしょう」
僕はできるだけ歯が抜けた口を見せないようにうなずき、握りしめていた手のひらを開いた。
誰とも比べたことはないけれど、綺麗な白い、普通の歯だ。しかし、なんだか恥ずかしい。
先程までの高揚感は消え、佐伯さんの沈黙が怖くてしかたなかった。逃げ出したかった。汚いと嫌われてしまう気がした。
「良い歯ね」
佐伯さんはあっさりと僕の歯を誉めた。歯に良い悪いがあるとすれば、虫歯くらいだろう。僕は首をひねった。この憎たらしい下の歯ははたして「良いもの」なのだろうか。わからないけれど、お礼は伝えた。
「ありがとう?」
「私も今日抜けたの」
「……え?」
佐伯さんはポケットから畳んだ花柄のハンカチを取り出した。広げると、白い歯がころりと転がった。
「どこの歯?」
「下の左の奥歯」
「すごい!僕も下の歯!」
「わかるわ」
くすりと笑った佐伯さんに、僕はすぐに口を隠した。とてつもなく恥ずかしい。
でも、佐伯さんの秘密(?)が垣間見られ、僕は少し嬉しくなった。あの佐伯さんも子供らしく歯が抜ける。同じ人間なのだと、安心もした。
さらには、運命的と言ってもよい。
同じ日に下の歯が抜けた。
「下の歯は屋根の上に投げないとね」
佐伯さんの口からおばあちゃんの言葉を聞くとは思わなかった。僕のおばあちゃんも前に教えてくれたのだ。上の歯は下に、下の歯は上に投げる。どうしてかはわからない。
「放課後、一緒に投げに行かない?」
僕はびっくりしたけれど、口を閉じて何度も頷いた。
こうして、僕は憧れの佐伯さんと放課後の約束を取り付けた。
残りの授業を受けているとき、僕は何度も舌で抜けた歯の穴をつついた。ズボンのポケットに突っ込んだ手は固い歯を撫でた。
夢ではない。
それが嬉しかった。