絵について
僕は変わったものに惹かれる。そして、惚れやすい。しかし、モテはしない。つまり、成長するにつれ、何度も恋に破れる。
数多の男子生徒と同じく、僕は転校生の佐伯さんにも恋をした。
佐伯さんと僕が近付いたきっかけは三時間目の図工の時間のことだ。美術室で同じグループになった。偶然、僕が座った隣の席に佐伯さんが腰を下ろした。
「好きなものを、みんなが思い付いたものを先生は見てみたいです」
担任の木下先生はときどき難しいことを言う。若い男の先生で赤のジャージと青のジャージを着回していた。今日は青のジャージの日だった。
僕は何も思い付かず、鉛筆でいびつな丸を描いていた。丸の下に線を足す。針金人間に顔はない。そこで手は止まってしまった。僕は算数の方が好きだった。
しかし、佐伯さんのBの鉛筆はしゃしゃっと音を立て続ける。佐伯さんは左利きで、(後に両利きであることを知る)自由な左手を器用に動かしていた。隣で僕が覗いていても、隠さない。
迷いもなく、鉛筆の線は画用紙を走る。曲線が連なり、女の人ができていく。どこで習ったのだろう。鉛筆の強弱で影が生まれ、光の濃淡が生まれる。
「きれい」
僕の言葉に佐伯さんの左手がやっと止まった。佐伯さんの感情は読めない。
「ありがとう」
僕の方を見ずに礼を言い、再び左手は動き出す。
小学校低学年の絵ではない。もっと、もっと上手い。僕は初めて天才を見つけた。何故か得意な気分になった。
木下先生も誉めることだろうと、僕は期待した。隣の席の佐伯さんの才能に一番早く気付いた僕も誉めてもらいたいくらいだった。
しかし、佐伯さんの絵は教室の後ろの壁に飾られることはなかった。僕の針金人間がいるのに、佐伯さんの女の人の絵はない。
不思議に思って、こっそり木下先生に尋ねた。
「佐伯さんの絵は?」
木下先生は頭を掻いて、困ったように答えた。木下先生はいつも答えにくい質問にも、できるだけ僕らに答えてくれる。
「上手だから、校長先生の部屋に飾ってあるんだ」
僕は納得した。
それが先生の優しい嘘だと理解するのはかなり先である。
佐伯さんは裸の、かなり精密な絵を描いたのだ。女の人の裸の絵はとても美しいけれど、僕ら男子にはからかいの的になる。
明くる日の放課後、佐伯さんは木下先生に呼ばれていた。
僕は放課後に校内の学童クラブにいて、トイレ帰りに驚くことになる。
佐伯さんの絵のなかの女の人が廊下をかつかつとヒールの音を立てて歩いていた。僕は跡をつけていた。無意識だった。
職員室の前で女の人は立ち止まり、引き戸を三回ノックした。
「失礼するよ。佐伯真紀の保護者だ」
木下先生が職員室から駆け出してきた。
「佐伯さんのおば……」
木下先生は途中で言い換えた。
「アヤセさん、でしたね」
遠くから見た「アヤセさん」の横顔は生き物の全てを目で殺しそうな鋭さだった。体格の良い木下先生が怯むのも仕方ない。
木下先生の後に、佐伯さんが職員室から現れた。
「アヤセさん、お手数をかけて、ごめんなさい」
気の強そうな佐伯さんも申し訳なさそうなことに驚く。佐伯さんの手には丸まった画用紙があった。例の絵だ。
「お見せよ」
佐伯さんは画用紙を広げる。
木下先生はアヤセさんと裸の女の人の絵を見比べて、少し居心地が悪そうだった。
「上手いじゃないか」
アヤセさんは佐伯さんの頭を撫でた。
「何が、問題なんだ?」
「ええと、はい。クラスで一番お上手です……」
木下先生はまた頭を掻いた。困ったときの木下先生のクセなのかもしれない。
「なら、帰ろうじゃないか」
「先生、さようなら」
佐伯さんとアヤセさんは木下先生の元から離れていく。佐伯さんは歩きながら、あの絵を丸めていく。
僕の隣を通りすぎるとき、佐伯さんは困ったように笑った。
このとき初めて佐伯さんの笑うところを見た。僕はまた佐伯さんを好きになった。
アヤセさんは佐伯さんの保護者、真実を言うと「祖母」である。
僕のお母さんはアヤセさんのことを「美魔女」と言った。だが、アヤセさん本人はすぐに否定した。魔女なんて縁起が悪いと。
「仙女とお言い」
佐伯さんのおば……僕もこれからアヤセさん、あるいは仙女と呼ぶことになる。
佐伯さんは仙女の孫だった。