Chapter.0-序章-
この小説は史実に基づいたフィクションです。作者の解釈や時代背景が実際のものと異なる場合があります。
また暴力的、性的内容を含む描写があるため、苦手な方はご遠慮下さい。
真夏の蒼穹がどこまでも広がる高原を包みこんでいた。そして全てを見透かすような眩しさが谷間から昇る姿が寸分違わずに映る湖面の向こうには、これまた果てしないジュラ山脈が連なっている。この山と草原、そして空を見渡せば人間などどれくらいちっぽけなものだろうか。
少年は朝、この場所に来る度にそう感じていた。
このどでかい灰色の塊を越えてゆくと、かつてシャルルマーニュが征服したスイスの地へと繋がる。
もちろん少年は遥か昔にそのような偉大な人物が存在したという曖昧な歴史しか知らないし、それも人から聞いた話であり、そもそも彼は文字の読み書きすらできないのだ。(注:公用語であるラテン語)
それは彼の頭がどうとかという問題でなく、物心ついた頃から、正直に言うと生まれた頃から羊に囲まれて育ったためである。
オストフリージヤンやラクーヌ(注:乳用羊の種。前者はドイツ、後者はフランス原産)を連れて山を登るのに書物の知識は必要ないし、彼が何らかの目的を有するがために何かを書くという機会は十二年間これまでには一度もなかった。恐らく、臍の緒切ってから生命が尽き、灰となるまでそれがないであろうということは少年本人が一番よく知っていた。
彼の傍から見ると幸薄そうに思える人生がこの、ため息の出るほど美しい風景の中で羊達と共に終わるであろうことも。
他の人間ならいざ知らず、少年はそのことに対してかけらほどの不満もなかった。
朝日が顔を出すより早くに村中の羊を集めて山を登り、夜の闇が橙色より濃くなる前に降りてくることが彼の仕事で、彼が六つの時に亡くなった父のかつての仕事でもあった。父が三十年間一日たりとも休むことなく続けたその後を継いだことを彼は誇りに思っていたし、同時に唯一つの幸せでもあったのである。
そして何より、彼はそれ以外の生活を、世界というものを知らない−
谷間から昇る太陽を村の誰より早く拝むことが彼の欠かせない日課であったが、その朝日はいつもより少し違っていることに気が付いたのも彼が一番早かった。
すぐ傍にいた少年が最も気に入っていた子羊も草を食むことを中断して罪のないその小さな顔を上げた。
普通の明るさではない−
と、まず少年は思った。
一秒ごとに、つまり昇るにつれてますますそれが顕著になってきた。
並大抵の人間ならば顔を背けるか手で覆うだろう。
村一番の遠目を自負している彼は瞼を細めたまま光源を見つめていた。夏の盛りであるというのに何故か妙に寒気を感じ、身につけていた袖のない麻の服を無駄と知りつつも引き伸ばした。
同時に彼は見つめ続けていなければならなかった。
奇妙なほどの明るさが地上を支配していくのが分かった。一体これは何なんだ、彼はそう訝りながらも決して目をそらしてはならないと直感していた。
散らばっていた羊達も鳴きながら少年の周りに集まってきていた。人でなくともこの異変は感じとれるのだろう。
それがついに昇り切った時、終わると共に始まりを迎えた。
一瞬、空が紫色に輝いたと思ったが次の瞬間には白い世界が少年だけを包み込んでいた。山も湖も原っぱも羊すらもない
、それは唖然としている彼の喉頭蓋を突き抜け、体中から音では表せぬ雄叫びともに出ていった。
彼はその小さな全身で悲観と懊悩の慟哭を感じとった。彼ではない他の誰かの悲しみを今、確かにしっかりと垣間見たのである。
しばらくして(言うまでもないが時間というのはここではさほど重要ではない)それがいつもと何の変わりもない太陽に戻った時、少年は初めて自分の存在に気付いた。
そしてもう一つ、少年は生まれて初めて
「手紙」を受け取ったのである−
ついでに、彼の人生を語るにおいては蛇足かもしれぬが、彼の名前はエティエンヌという。