その3 「なんか異世界転移したっぽいんだけど?」
一角のシベリアンハスキーが、返り血を浴びた怖い顔で俺の上着の裾を噛んで引っ張りはじめた。
「な・・・なんだよ!」
「ウウウ・・・」
“仕方がないな”という感じで、咥えた服を離し、長い顔で、くいっと先を促した。
「ついて来いって・・・言うのか?」
犬が頷いた・・・言葉が通じるのか?
よく見れば、あの空のような透き通った紫色の眼をしていた。
なかなか気品のある顔じゃないか・・・怖いけど。
半ばビクビクしながら、俺はその大型犬の後をついて行った。
「もしかして・・・おまえ、助けてくれたのか?」
フンス・・・と、鼻息でイエスと返事をしたようだ。
しばらくシベリアンハスキーの後をついて行くと、小さな川に辿り着いた。
どれだけ歩いたのだろうか・・・嫁にプレゼントしてもらった頑丈な腕時計を確認すると、針は8時過ぎを指していた。
いつの間にか普通の太陽が昇り、普通の朝のようにも思えた。
「普通に考えると・・・夜の8時だよな?」
いつもパソコン画面やら、スマホ画面ばかり睨めっこしているオレを心配し、「アンタ、停電したり、電子端末なくしたら気が狂うんじゃない? だから、お守りだよ!」と、数年前に突然、オレの腕に嫁が付けたヤツだ。
確かに嫁の言う通り、スマホを落としても、電池残量が無くなっても、この腕時計があったお陰で打合せやら、何時間に一本しかないバスに乗り遅れずに済んだのだ。
そして、結構気に入っている・・・ネットで調べると・・・30万ぐらいするブランド品だった。
びっくりして、入手先を聞いたら“勤め先のノルマなのよ、社割で買ったから気にしないで”と、言っていた。
確かに嫁は当時、高級百貨店に勤めていたのだ。
この腕時計のお陰で・・・女が釣れる事もある。
オレは嫁に安い指輪すら買ってない・・・あれ? オレってもしかして、かなりひどいダンナなのかな?
まあ、過ぎた事はしょうがないよな・・・って(苦笑)。
晴れ渡った空が、先ほどまでの妖しい空のイメージを吹き飛ばした。
目の前には透き通った碧い小川が流れていた。
「ふおっ・・・なんて美しい・・・深い深い・・・森の中の透明な・・・グランドブルー! すごい、すごい、すご~~~いっ!!」
感動ゆえに、思わず隣に佇んでいた、大型一角シベリアンハスキーを抱きしめてしまった。
「ぎゃわん!?」
川にハマる釣り人をバカにしていたが、この風景を見ると・・・本当は魚を釣りたいんじゃなくって、この風景を見る為の理由に川に出かけてしまう人もいるのではないか!? と、考えが過った。
まあ、玉川の上流辺りで不法に吊りをするオッサンの気持ちは理解しがたいが・・・。
「ああ、嫁が山奥の温泉地に行きたがる理由が今やっと解った気がする・・・」
自分のウサギの返り血だらけの姿をすっかり忘れ、オレはその風景に感動のあまり涙を零していた。
もしかして、嫁はオレにコレを見せたかったのかも知れない・・・。
絵描きのオレが都会に閉じこもって絵を語るなど、愚かだと思い知る。
ふんすっ! と、首を振り、オレを振り払ったその大型犬はザバザバと川に入って行った。
四本足を水に浸し、返り血を浴びた野性的な美しさを持った動物は、大空に向かって静かに吠えた・・・優しく・・・響く、その声で・・・。
そして、水飛沫がつむじ風に吹かれるように周囲に渦を巻いた――――。
洗濯機に突っ込まれたらこんな感じ!
と、言う状態になったのだ。
「ぐぶはっ!!」
鼻に水は入るわ、水流で身体が痛いわ、何か摩擦っぽい感じはするわ・・・とにかく苦しかった。
多分、時間では二十秒かそこらだったと思うが・・・溺れた気分だ。
オレは川原の丸石の上にへたり込んだ。
びしょびしょだ・・・と、思ったが、衣服はすっかり乾き、血の生臭さもなくなった事に気が付き、自分の体中を確認した。
「あれ? あれ? キレイになってる・・・」
目の前の大型犬もすっかり返り血が消え去り、フワフワのちょっと優し気な姿になっていた。
「え? え? ええっ~!?」
これは・・・もしや、魔法とゆーやつでは・・・?
「おまえ・・・ナニ?」
いや・・・既に、この状況は、やっぱりアレだ・・・。
「異世界転移かよっ!!!」
コレ、どうやって帰るんだヨ・・・くそっ!!
しゃがみ込んで、頭を掻きむしり、顔を覆うしかできなかった。