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柔らかい部屋

作者: 大場 みや

 煙草の煙を深く吸い込む。

 ため息と共に出てきた煙は静かに夜の街に溶けて消えた。

 光の洪水と流れる人の群。

 いつもならうるさい位の街が今日は静かで、ひどくくすんで見えた。

 空を見上げても星なんかひとつも見えなかった。



「プラネタリウムに行かない?」


 ナナは目をキラキラ輝かせて言った。


「行かない」


 オサムはジャージ姿のままカップ麺をずるずる啜った。


「え~、行こうよ、行こうよ、行こうよ~。折角の日曜日だよ~。オサムちゃんいつもごろごろしてさ~。そんなんじゃ牛になるよ~」


 お気に入りの豚のぶーさんのぬいぐるみとじゃれあいながら、ナナは頬を膨らました。

 ナナとの付き合いは2年近くになる。

 そして同棲するようになって2年だ。

 付き合ったその日に関係を持ち、その日にナナのアパートに転がり込んだ。

 高校を卒業した俺は就職する事もなく、フリーターで自宅にこもっていた。特にやりたい事もなかったけど、親に対する反抗心だけは人一倍で。

 はやく家を出たかった。

 周りが就職とか、結婚とかする中で、俺だけが波に乗り遅れたみたいで。

 高校の同級生だったナナとは本当偶然の再会だった。

勢いで家を飛び出して、特に当てもなくふらふら東京駅の前を歩いていたらナナに会った。ナナはちょっとは名の知れたデパートの店員をやっていた。

 特に親しかった訳ではなかったが、ナナが懐かしがるのをいい事にそのまま家に転がり込んだ。

 早い話、俺はナナを利用している状態だ。

 俺は未だ定職につかず、ナナの給料で生活をしている。

 これが世に言う、ヒモってやつなのかもしれない。

 ナナはこんな俺を彼氏だと思っているが、こんなに彼女を大切にしない彼氏は普通存在しない事になぜ気付かないのだろう?


「んじゃあさ、ボーリングは?あと、カラオケに、映画に、動物園、水族館、サッカー観戦!」

「却下」


 カップ麺のスープまで飲み終わると、オサムは満足気に布団に逆戻りした。


「また寝るの~?」


 ナナは不満そうに口を尖らせた。

 たまの休日に外出をせがまれる父親の気持ちが分かる。

 まあ、俺の場合は毎日が休日なのだが、それなりに疲れる事もあるのだ。


「お前、コンビニ行く?」


 布団に埋もれたままオサムは聞いた。すでに顔を出す事すらめんどくさかった。

 小さな呟きのような声にもかかわらず、しっかり聞いていたナナの嬉しそうな声が頭から振ってくる。


「何?コンビニ行くの?ナナも一緒行くよ~!」


 明らかにテンションの上がっていく様子に、オサムは心底げんなりした。

 座ったままの状態で飛び跳ねているのか、わずかな振動が体に響いた。

 なんでこんなに面倒な女なのか。


「お前一人で行けよ」


 一人ではしゃいで、一人で落ち込んで、一人で解決して。頼むから周りを、って言うか俺を巻き込まないでくれって感じだ。


「オサムちゃん、行かないの?」

「いかね~」

「ええ~」


 肩を落とした姿が容易に想像できたが、オサムは布団から顔を出さなかった。


「…欲しい物は~?」


 ナナが出かける準備をしている音だけが部屋に響いた。


「適当に食い物」


 玄関のしまった音がしてオサムは顔を出した。

 最近、本当にヒモになろうかと考えていた。お互いプライベートな事には一切干渉せず、純粋に体だけの関係で金銭のやり取りをする方が今より断然いい気がしていた。俺がそんな事を考えている事なんて気付きもしないナナが、哀れな女に思えた。

 窓の外に目をやると、どんよりとした雲が空全体を覆っていた。

 今にも泣き出しそうな天気に、憂鬱な気分がさらに深まった。

 そんな今までとまったく変わらない、日曜日の休日だった。

 何も始まらないし、何も変わらない。

 その日ナナは帰ってこなかった。



 目が覚めると部屋全体を闇が包んでいた。

 開け放たれたカーテンからは、外の街頭の明かりが静かに差し込んでいた。

 辺りを見回すと、ナナが出掛けていった状態のままだった。

 あいつは一体どこのコンビニまで出掛けていったんだ。

 ぼりぼりと頭を掻きながら、薄明かりの中を冷蔵庫までたどり着く。

 冷蔵庫の低い電気音が静かな部屋に響いた。

 冷蔵庫にはナナが買い置きしていたプリンと、使いかけの調味料が無造作に入っていた。

 甘い物が苦手なオサムはため息と共に冷蔵庫の扉を閉めた。

 

「何やってんだ、あいつは」


 めんどくさそうに携帯を探し当て、リダイアルを押す。自動で番号が読み込まれるプッシュ音の後に、コールする音が鳴る。

 それの一拍遅れて、何かが振動する音が部屋に鳴り響いた。


 「まじかよ・・・」


 あいつ、いくらコンビニに行くだけだからって、携帯持って行かなかったのかよ。


 「めんどくせ~」


 なぜか空腹を満たす事も、ナナを待つ事もめんどくさくなって来ていた。

どうせ明日は月曜日で仕事があるので、放っといても帰ってくるだろう。

 空っぽの可愛そうなお腹を擦りながら、オサムは再び生暖かい布団に潜り込んだ。

 しかし、一日中寝ていた為か、どんなに目を瞑っても睡魔が迎えにきてはくれない。

 何度か寝返りを打ち健やかな睡眠を求めてみたが、寝ようとすればするほど眠りから遠ざかっている感覚だけが体を支配した。

 オサムは仰向けになり、ぼんやりと天井を見上げた。

 不意にナナの柔らかな香りがした。

 布団は占拠率、使用率ともにオサムが断トツで勝っているというのに、常にナナの存在を感じる事が出来た。

 そんな香りに包まれながら、オサムは初めて女を抱いた時の事を思い出していた。

 初めて抱いた女は、彼女でもなかったし、特に好きでもない女だった。

 性に対して興味が湧いたのは小学生の頃だった。それはまだ性の意味すら知らなかった時期だったような気がする。

 小学生の頃、秘密基地を作る事が一種のステータスだった。秘密基地を持っている事、そしてその秘密を 共有できる友人が居る事が基本だった。

 親に知られてはいけない。

 女子は呼んではいけない。

 合言葉を言わなくてはいけない。

 秘密を持ってはいけない。

 それ以外にも犬を見たら吠えられる前に吠えろだとか、口裂け女に会った時の呪文だとか、そんなくだらない事で毎日が過ぎていた。

 その秘密基地にはいつも誰かが何か秘密を持ってきた。

 川辺や草原にたまに成人雑誌が捨てられている事があった。一体誰が捨てたのか、成人した今でもその人物像を想像する事が出来ない。

 普段目にしない母親でもない、先生でもない、女子でもない。醜く顔を歪めた、裸体の女たちでその本は構成されていた。

 発見された珍しい本はすぐさま秘密基地に運ばれる。

 本を取り巻くように仲間たちと一枚、一枚ページをめくっていく。友人たちは数ページめくった所ですでに興味を無くしてしまった様だった。

 昨日見たテレビの話を始め、本になど目もくれなくなっていた。

 俺はただ意味も分からず胸が高鳴った。本の中の女たちの体を隅々まで見つめ続けた。俺だけがそんな状態になってしまっているのが急に恥ずかしくなり、友人に習うようにテレビの話を始めたが、意識はまったく別のことを考えていた。

 下半身がかっと熱くなる感覚に戸惑いながら、頭の中は本の女たちでいっぱいだった。

 そんな衝動が性の衝動であると知ったのは、中学に入ってからだった。

 中学生になると女子は少しずつ女に変化していった。男より女のほうが成長が早いので、その頃には体つきも、表情も女子のそれとはまったく違うものを感じた。

 本でしか見たことのない女は一体どんな感覚なのか。

 興味と好奇心だけが頭の中にあった。

 高校2年の夏。バイト先で経験豊富そうな女子大生と知り合った。誘われるまま関係を持った。

 初めての感覚に陶酔しきった。

 夏の暑さがそうさせていたのか、思考が麻痺し、ただ貪るように体を求めた。

 ねっとりとした粘着質で、濃いものが自分を包み込み、そしてすべてを溶かしてしまう。

 秋の訪れと共にその関係は消えていった。それでも、体に残るあの時の感覚は今でもオサムの体に染み付いていた。

 


「はい…、はい……」


 電話を切った後もオサムの脳は回転してなかった。ナナの忘れていった携帯に電話が入ったのが、今から少し前の事だった。

 寝ぼけたまま自分の携帯と間違って出てしまったのだ。

 着信履歴をみると、公衆電話となった表示が何件も入っている。

 一つ大きなあくびをすると、オサムは再び布団にもぐりこんだ。今の電話の事を思い出そうとするが、睡魔の誘惑の方が強く。まったく思い出せない。

 眠りに落ちる瞬間、再び携帯がなった。

 

「はい…」


 布団に入ったまま、携帯を取る。

 電波が悪いのか、寝ぼけているのか相手の声は遠かった。


『オサムさん?』


 声は若い女のようだった。


「はい…、ってか、あんた誰?」


 睡眠を邪魔され気分が悪かった。


『…妹のさやかです』


 さやか?

 沈黙が流れた。

 ナナの名前を思い出すまでに、しばらくの時間がかかった。そういえば、妹が居ると言っていた。

 ナナの妹は俺の事を知っているようだった。名前だけ確認すると、病院のロビーで待っているとだけ言って電話は切れた。

 前に風邪を引いた時に利用した事のある大きな病院の名前だった。

 再び、布団にもぐろうとしたが、睡魔は一瞬の内に消え去ってしまっていた。

 電話をかけて来たって事は、迎えに来いって事だろう。

 オサムはぼりぼりと頭をかき、ジーンズをはいた。

 


 ゆらゆら煙草の煙を揺らしながら、オサムは病院を目指した。

 病院の入り口にたどり着くと、すでに電気も消え閉まっていた。夜間入り口の案内板を元に、裏口に回る。

 夜間入り口には守衛がいた。

 守衛は不振そうにオサムを見た。

 さやかに来いとだけ言われてたオサムは、どう説明のしようがなかった。

 帰っちまおうかな。

 そんな事を考えていると、奥から一人の中年男性がこちらに向かって真っ直ぐ歩いてきた。


「オサム君かい?」


 そう声を掛けられ、オサムはただはぁと返事をした。

 自己紹介した訳ではないが、ナナの父親だと思った。

 初めて会ったナナの父親は俺の想像より、ずっと小さく感じた。声の感じからもっと大柄な強面の親父さんを想像していた。

 状況が状況だが女の親に会うなんて初めてだった。


「あの…、初めまして」


 頭に白髪がまばらに目立つ男性は、オサムの声に何の反応も見せず、ただ正面を向いていた。

 静まり返った夜の病院は男性とオサム以外誰もいなかった。


「あの…」

「座りなさい」


 男性はオサムの事を見ることなくそう告げた。

 しかし、座ったあともナナの父親は沈黙を守り続けた。


「あの…」


 オサムはどうすればいいのか分からなかった。ナナとの関係を説明すればいいのだろうか、それとも自分が何かしなくてはいけないのだろうか。

 いつもの癖でジーンズのポケットにある煙草を取り出そうとしたが、病院であることに気付き、手を止めた。


「あの子はとても優しい子だった」


 それまで沈黙を守り続けていた父親は静かに語りだした。


「あの子が生まれた時は本当に嬉しかった。男は母親と違い、親の実感を持つ事がなかなか出来ないからね。あの子をこの腕に抱き上げた時、なんとも言いようのない喜びがこみ上げてきたよ」


 まるでその瞬間のように、父親は幼い生まれたばかりのナナを抱いているように腕を上げた。


「子供はどんどん大きくなる。幼稚園、小学校、中学校、高校。あの子が笑うと周りに花が咲いた様だった。いつも自分の事を後回しに考えてしまうような子だった」


「幼いときにね、よく近所の悪がきにいじめられていたんだよ。毎回泣かされて帰ってきた。ある時、いつも以上にあの子が泣いていた事があってね。その声に近所中の人が出てきたぐらい大きな声で泣いていた。どうしてだと思う?」


 オサムは少し眉間にしわを寄せ、考える振りをした。


「怪我でもしたんじゃないですか?」


 父親は思い出すように笑った。


「ああ、そうだよ。怪我をしていたんだ。でも奈々ではなく、いじめていた悪がきがだよ。その男の子が怪我をしているのが、かわいそうだと泣いて居たんだ。怪我をしている本人はあの子をなだめるので、必死でね。私はその話を家内から聞いたとき、大笑いしてしまったよ。なんともあの子らしいとね」


 父親はオサムの方を向き、静かに頭を下げた。


「ありがとう」


 その言葉の意味が分からず、オサムは呆然と父親を見ていた。


「あの子は…、奈々は。最後に笑っていたよ。声を出す事も苦しいだろうに、私たちにごめんなさいと言った。そして、君にありがとうと伝えてくれと言っていた」

「最後…?」

「ああ。そして、私も君に礼を言うよ。あの子が最後に笑って逝けたんだ。昔、私たちに見せてくれていた笑顔のままで…」

「逝った………?」


 父親はそこまで言うと、それまで以上に深く頭を下げた。

 自分の父親と変わらない年齢の人に頭を下げられるのは、正直気持ちがいいものではなかった。


「頭を上げ…」


 しかし、それ以上声を掛けることが出来なかった。静かな病院のロビーに押し殺した声と、床に落ちる涙の音だけが響いた。

 泣きはらした目をしたナナの母親がやってきたのはそれからしばらくしてからだった。

 体を堅くして、堪えるように泣いている夫の姿を見て、口元を手で覆った。

 彼女自身、こんな姿の夫を目にするのは初めてだったのだろう。

 そんな事をぼんやりと考えながら、オサムには何も出来なかった。ただ馬鹿みたいに、我が子をなくした二人の親を見つめていた。



 夜の病室は静かで、そしてどこか寂しい印象を受けた。

 消灯時間のとっくに過ぎている病院の中で、ナナが移された病室の明かりだけが廊下に漏れていた。

 扉を叩くと、中から女の声がした。

 病室にはベッドと、パイプ椅子。ナナの隣には、彼女によく似た女性がいた。

 真っ白な布団の中にナナが居た。

 はっきりとした意識とは裏腹に、足は重かった。

 見たくない。

 このまま、帰ってしまいたい衝動をオサムはなんとか抑えた。それは今自分が一人ではないからだろう。もし一人だったら、オサムはためらうことなく病室を後にしていた。

 そんな心の葛藤と、足の重たさを悟られないように。あくまで平静を保ちながら、オサムはナナに近づいた。

 ナナへの歩みを進めるごとに、オサムの思考はぼんやりしていた。

 夢の中のように、ふわふわと。

 ナナは眠っているようだった。


「お姉ちゃん。眠っているみたいですよね」


 そう言う少女はナナよりも少し若い印象をしていた。

 近くで見るとナナに似ている所がそんなにないことに気付いた。


「オサムさんでしょ?お姉ちゃんがよく話してくれました。私、妹のさやかです」


 軽く会釈するさやかに、オサムも会釈で返した。

 オサムにはまったく実感がなかった。

 ナナの前に立っていても、ナナが死んでいるような気がしなかった。


「おい。いつまで寝てる気だよ。早く帰るぞ」


 そんな言葉が口から出てきそうだった。

 何気なく。

 何気なく、ナナの頬に触れた。

 指先が少し触れた瞬間。オサムは手を引っ込めた。指先から伝わった感覚は、異常なまでの冷たさだった。

 その冷たさがオサムの指先から全身に駆け巡った。

 死んでいる。

 胸が異常なまでに脈打ち、堅い地面にずぶずぶと埋まってしまう感覚がした。

 いつも隣で笑っていたのに、いつもくだらない事で怒っていたのに、いつも馬鹿みたいに楽しそうだった。おもちゃみたいに表情がくるくる変わり、いつもにこにこ笑っていた。

 でも、いまそこに居るのは入れ物でしかない。

 まるで物のように。

 喉が焼け付くように渇いた。呼吸が不規則で息をする事すら苦しく感じた。

 ナナは、死んだ……。

 そんな言葉が頭に浮かんだ瞬間、オサムは病室を飛び出していた。後からさやかの声が聞こえた気がした。

 走った。

 全力で。

 煙草を吸っているせいか、肺は病院を出るときにはすでに悲鳴をあげていた。

 そんなことかまわなかった。

 喉がヒューヒューと苦しい息を出し、運動不足の体は鉛のように重い。

 それでも走るのをやめるわけにはいかなかった。

 真夜中のネオンや街頭、車のテールランプがきらきらと流れているように見えた。

 少しでも遠くに逃げたかった。ナナから…。と言うよりは、ナナの死から逃げ出してしまいたかった。



 ナナのいなくなった部屋は、自分が部屋を出た時のままだった。

 布団に座るといつものように煙草に火を点けた。汗がじっとりと肌を覆っていたが、オサムは煙草をふかし続けた。

 白くあがる煙を虚ろに見詰めながら、壁にかざってあるコルクボードに目がいった。

 一番大きいサイズのコルクボードをナナが買ってきたのは、付き合ってしばらくしてからの事だった。

 二人の写真をここに貼って、このコルクボードを埋め尽くす。

 ナナはそんな目標を高らかに宣言していたが、コルクボードにはわずか三枚の写真があるだけだった。

 一枚は高校の集合写真。もう二枚は遊園地と動物園で撮ったやつだ。

 遊園地は付き合って一年目のナナの誕生日。何処へも行きたがらないオサムに、プレゼントとして行ってもらった。写真はオプションみたいなものだ。

 動物園の写真も一年目と同じで、プレゼントとして行ったものだ。

 しかし、どちらの写真もオサムは別の方向を向いており、腕を組みながらカメラに笑顔を向けるナナとは対照的だった。

 写真に写るナナを見ながら、父親の言葉を思い出した。

 君にありがとうと伝えてくれと言っていた。

 なんでありがとうなんだよ…。

 本当、訳わかんねー。

 眉間にしわを寄せたまま布団にもぐりこんだ。

 煙草のにおいと、汗のにおい。そして、ナナのにおいがした。



「……お……」


 誰かが遠くで呼んでいる声がした。


「…お…い……」


 誰だ?


「…おーい。ここだよー」


 ナナ?

 声のするほうを振り返ってみると、出て行った姿のナナが居た。


「お前…。何、やってるの?」


 呆然と見つめるオサムに、ナナは頬を膨らました。


「オサムちゃんの事待ってたんだよー。ずっと呼んでたのに、全然気付いてくれないんだもんー」

「待ってた?なんで?って言うかあの距離で普通事故にあうか?それにありがとうってなんだよ。俺、お前に対してなんもしてないじゃん。それとも最後の言葉を間違ったから待ってたのかよ」


 一気にしゃべりだしたオサムに、ナナは思わず噴出しだ。


「何がおかしいんだよ」


 いたって真剣な質問に対して笑われたので、今度はオサムが鼻を広げた。そんなオサムの姿にナナは再び笑い出してしまった。


「ごめんー。あはは。オサムちゃんがそんなに話してるの久しぶりに聞いたし、あまりにも話し方が早くて…」


 くすくすと笑うナナは本当に楽しそうだった。


「…答えろよ」


 真剣なオサムの顔に、ナナは笑顔で返した。


「そうだね。じゃあ、一つ目のやつからね。なんで待ってたのかは、オサムちゃんと話がしたかったから。二つ目、事故にあったのは、私も急いでたし、よそ見して歩いてたからなんだー」


 えへへーと笑うナナに、オサムは切れそうだった。


「バ!ッカじゃねーの!お前、それで死んだんだぞ!なんでそんな風に笑いながらいえんだよ!頭おかしいんじゃねーの!」


 そこまで口にするとオサムは、目をきつく閉じ下を向いた。


「なんで……。なんで死んじまうんだよ……」


 小さく震えるオサムを、ナナは少し困った笑顔で見つめた。


「オサムちゃん、見て」

「ねえ、ほら、きれいでしょ?」


 顔を上げると空に虹がかかっていた。


「あの時も空に虹がかかってたんだ。すっごくきれいで、どうしてもオサムちゃんに見せたくなったの」


 七色に輝く虹を見つめるナナは本当に幸せそうだった。


「…それで、急いでたのか…?」


 ナナはにっこりと笑った。

 そんな、ナナの顔をオサムは見ることが出来なかった。涙でナナの顔がぼやけてしまうのだ。


「…お前、本当。馬鹿だな……」


 ナナは笑っていた。


「すごいよね。世界は不思議でいっぱいだよ。当たり前の事なんて一つもないんだよ。私がオサムちゃんと出会えたのも、又こうして会えたのも。すっごい事なんだよ」


 虹を掴もうとするように、ナナは空を見上げた。


「本当は明日が来る事なんて誰にも分からないんだよ。だから毎日をちゃんと生きなきゃいけないの。じゃないと、後悔しちゃうんだよ」

「三つ目。なんでありがとうなのか」


 ナナが三つ目を語りだそうとしたとき、ナナがどんどん遠のいていった。いや、自分が遠くに行っているのかもしれない。

 もう、声は声にならなかった。


「……そ…は……」


 ナナ!


「行くな!」


 オサムは寝たときのまま、布団の上に居た。静かに流れる大粒の涙だけが、頬をつたっていた。

 やっと、自分が眠ってしまっていた事、そして泣いている事に気付いたオサムは乱暴に頬をぬぐった。



 透き通る青空のもと、奈々は空に昇った。

 修は葬式にも火葬にも参列しなかった。

 最後のお別れ。それが修には出来そうもなかった。

 部屋の窓から顔を出して、いつものようにジーンズ姿で煙草をふかしていた。その足元にはまとめられた修の荷物があった。

 こんなに快晴の日になるとは、なんとも奈々らしいと、修は少し笑った。

 荷物を持ち、乱暴に靴を履く。

 振り返り、修はまぶしそうに目を細めた。

 ノブに手を伸ばしかけて、再び靴を脱いだ。

 部屋の中央に飾られたコルクボードの前に立つと、二人で写った写真の一枚をはがしポケットにいれた。

修はもう振り返ることはなく。

 帰る者がいなくなった部屋の扉は、静かに閉まった。

 後には太陽の光でいっぱいになった明るい部屋だけがあった。 



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― 新着の感想 ―
[良い点] ほのぼの系かと思ったら、まさかの展開になって驚きました。 話の締め方が、オサムちゃんのその後が気になる感じで……。 それでも、あそこで話を切ったのは、良い余韻が残るので読んで良かったと思え…
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