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空色ハチミツ

作者: 四方祐樹

 また一つ、枯葉が煉瓦敷きの道を転がっていった。

 天野あまの沙希さきはコートの前をきゅっと掴むと、視線を下げたまま足早にその場を去ってゆく。

 そこにはまだ大勢の人が屯しており、浮かぶ表情は皆それぞれといったところか。とはいえ晴れやかな色を纏う者は、ほとんどいないに等しいだろう。笑顔を浮かべつつも内に悔しさを秘める者、ため息をひっきりなしに吐き出す者など、その色は暗色にも似ている。

 沙希は一人道を歩いて大きな門を抜けると、その歩調を一度緩めた。一歩二歩と歩んだ足はやがて完全に止まり、ちらと後ろを振り返ると白い息を口から吐き出す。

 ……ああ、終わってしまった。

 ずしりと胸に、言いようのない塊が落っこちてきた。それはきっと、後悔や虚無感なのかもしれない。

 沙希の視線の先には名前しか知らない大学の校門と、『センター入試試験会場』という文字の大きく書かれた立て看板とが居座っていた。そしてその奥には先刻まで試験を受けていたキャンパスと、そこから出てくる受験生でごった返している。

 本当に、終わってしまったんだ。

 もう、戻れなくなってしまったんだ。

 北風がここにいる全ての人々を飲み込んでゆく。沙希は見ていた光景を消し去るかのように目を閉じると息を一つ吐き出し、夜の帳が下りた道を再び歩き始めた。ザリザリと聞こえる足音を引き連れながら、一歩一歩家に向かって。ザリザリと、ザリザリと……。

 北風がまた、地面の上を滑っていった。それは酷く速くて、そして酷く冷たかった。同時に制服のスカートが足に纏わり付き、そこから冷たい風が染み入るのを感じる。

『早く家に帰りたい』

 その思いがより強くなって、沙希を襲っていった。歩く速さはどんどん速くなっていって、他の受験生を追い越しては、受験生を乗せた車に追い越されていく。それを幾度か繰り返していると、沙希はいつの間にか一人きりになっていた。

 周りにいた受験生の姿はまるでなく、辺りはしんと静まり返っている。暗い夜道を街灯と家の明かりだけが照らしており、それがまた寂しさをより一層のものにしているかのようだった。胸がどうしてか、刺されるように痛くなる。

 ……いや、痛くなる理由は別にあると解っていた。本当は嫌になるほど、そんなことなど解っていた。とはいえ、それと沙希が真正面から向き合えなというだけの話。もしくはまだ、現実と向き合いたくないというのもあるのかもしれない。

 どこか遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。

 沙希は肩を下げると、俯きがちに家路を辿っていった。住宅街に、たった一つの足音がやけに大きく聞こえる中。


 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 ようやく見慣れた通学路に入ると、ブロック塀から一匹の猫が飛び降りてきた。

 そいつは雉虎の小さな猫で、猫は沙希の前で一度止まると、にゃあとも鳴かずにすたすたと道を横切ってゆく。それから反対側の塀にぴょこんと飛び乗ると上を向いた尻尾を揺らして、沙希が行くのと同じ方向へと歩んでいった。

 猫の軽快な足取りにつられると、沙希も思わず歩みを再開させる。勿論視線は猫に釘付けだ。

 すると猫は一度沙希へと振り返ってきて、フンと鼻を鳴らすと、また正面へと向きなおってしまって。それが何だか「お前、馬鹿じゃない? 俺を追い越せると思っているの」とでも言われているような気がして、沙希のいらない闘争心にポンと火が点いてしまう。

 狭い塀の上をたたたっと駆けてゆく猫を、沙希はムキになって追いかけていった。

 猫はもう一度沙希を見つめると、ぴんと上を向いた尻尾を左右に大きく揺らして、それからまた同じように駆けていってしまう。

 まさか猫にまで馬鹿にされている?

 一度ぴたりと足が止まった。だがそんな考えに至ると悔しさが湧いてくるようで、沙希はくそっと言うと、今度は小走り気味に猫を追いかけていった。

 負けるのって、何に関してもいい気がしない。そんな沙希の性格のためであろう。

「あれ、沙希?」

 だが凛と透きとおった声が聞こえると、沙希ははたと我に帰った。猫を追いかけるのを急にやめてしまう。

「やっぱ沙希だよね」

 そう聞こえてくる声に、沙希はやっぱりそうだと確信した。それと同時に、何とも言えない感覚がこみ上げてくる。

 沙希が振り返ると、その先には一人の少年が立っていた。毛先の跳ねた髪に、デザインが今風の四角い黒縁眼鏡。明らかにどこにでもいそうな男子高校生という風貌であるというのに、その手には長ネギの飛び出た買い物袋が提げられている。

孝幸たかゆき? え、どうして?」

「それは見たとおり、買い物帰りだから」

 夕飯の材料を買ってくるように言われて、そこのスーパーまで行っていたんだよ。鍋をするのに、ネギと豆腐を買い忘れたって言われてしまいましてねぇ。

 そう苦笑をあらわに告げると、須藤すとう孝幸は視線を買い物袋から沙希の方へと向けた。

「ところで沙希は、何で猫を追いかけていたわけ? まさか受験の腹癒はらいせ?」

「……はははっ、長い付き合いなのにそんなことも知らないのかい、孝幸くん。私は猫が好きなんだよ。多分」

 しかしそんな孝幸の視線から逃れるために顔を背けると、せめてもの苦し紛れだと沙希は棒読みでそう言ってのける。

 するとそれ以上踏み込んでいけないことを悟ったのであろう。孝幸は猫の話題を打ち切ると、一度虚空へと視線をやってから、ふわりとした笑みを浮かべてきた。

「それよりも沙希、今日はお疲れ」

「あ……うん」

 だが反面、沙希の口からは曖昧な返事が紡がれるのみだった。それは他でもない。あまりに孝幸が優しい表情をしているためだ。

 本当なら、孝幸に顔さえ見せられないというのに……。

 しんと静まりかえった住宅街を、街灯が照らしている。すると近くのT字路からやってきた車が、二人の脇を通り過ぎていった。同時に静寂も一旦途切れて、今度は重たいエンジン音だけがこの世界を支配してゆく。またそれは冷たい空気をさっと揺らしては、二人を寒風の中へと放り込んでいった。

 ああ、なんて寒いんだろう。

 沙希は風に舞い上がる髪をとっさに押さえる。しかしながらびゅんと駆け抜けていった風も車もほんの一瞬のことで、徐々に徐々にと音も姿も遠退いていってしまった。

 車が奥の十字路で一時停止すると、テールランプが夜闇の中で余計に赤く輝いている。

「あ。そうだ、沙希。ちょっと目ぇ瞑って」

 すると突然、顔の半分を赤く染められた孝幸が、口元だけに小さな笑みを浮かべてそう言ってくるではないか。

 勿論その言葉はあまりにも沙希の考えを逸していたため、悲しみや後悔の渦巻いている頭の中で、沙希は何かおかしなものを聞いているような気がしてならなかった。

 とはいえぐちゃぐちゃになった頭では、やっぱり何が何だか解らない。一歩一歩近づいてくる孝幸に、どうしてか不思議なものを感じてしまう。

 そういえばいつからだろう。テールランプの作った赤い空間がなくなっていたのは。

「ほら、目ぇ瞑れって」

 だがそんなことを考えているうちに、孝幸はもう目の前まで来てしまっていた。ザリッという砂の擦れる音が、ぴたりと止まる。

 しばらくすると、男の子で、やっぱり沙希よりも背の高い孝幸が、そっと沙希の方へと手を伸ばしてきた。それがすっかり冷え切った沙希の頬に触れると、じわりとした優しい温かさを与えてくれる。

 沙希は思わず目を瞑ると、肩を強張らせて小さく俯いた。頬が火照ってくるのは、きっと孝幸の顔が近くにあるせいだろう。

 目を瞑ったために真っ暗になった視界の中、くすっと笑う孝幸の声が聞こえてくる。

 沙希はそのことに「笑うな」と思うものの、複雑な心がその言葉を言わせてはくれない。きゅっと唇を引き結ぶと、ただただ早く終われと願い続けた。

「はい、もう目ぇ開けていいよ」

 しかし肩を叩かれると、孝幸は顔を離してゆくではないか。

 拍子抜けした沙希は幾度も目を瞬かせると、孝幸の顔をじっと見つめた。こんな雰囲気を作っておいて、目まで瞑れと言っておいて、やったのは肩を叩いただけか?

「どうしたんだよ、そんな顔をして」

「……いや、別に何でもないですけど」

「まさかキスでもされると思っていた?」

 そんな少女マンガみたいなこと、俺がするわけないじゃん。人がいなくても、一応住宅街だよ、ここ。

 そう言ってひいひい笑うと、孝幸は腹に手を当てたまま沙希の顔をのぞき込んできた。まさに図星だったため、沙希はさらに頬を赤く染めてしまう。

「なッ、何言って……」

「でも可愛いやつだなぁ、本当」

 はははと笑う、孝幸の声。けれどそれがまったく嫌味に聞こえなくて、沙希は言おうとした言葉を思わず飲み込んでしまった。

「送っていくよ」

 そう言い、差し伸べてくれる孝幸の手を取りながら。


 家に帰るなり、受験後の娘を気遣う両親に「もう寝る」の一言を告げると、沙希は自室へと駆け込んでいった。自室は二階にあるため、手前にはだかる階段が億劫でたまらない。

 だがそれをどうにか乗り越えると、沙希は鞄を手放してベッドへと倒れ込んだ。

 受け止めてくれる柔らかな音。布団のふわふわ感を頬に感じながら、沙希は大きなため息をついた。頭の中には受験への恐れと、孝幸への想いとがぐるぐる回っている。

 先刻までの幸福感にも似た感情とは裏腹に、今は嫌な気持ちでいっぱいだった。むしろ、どうして孝幸とあれほど普通に話していたのかと、自分自身に嫌気さえ差してくる。

 沙希は布団に顔を押しつけると、ぐりぐりと頭を振った。その度に布団は、ぱふぱふという柔らかな音を立ててくれる。

 だがそれも馬鹿らしく思えてくると、沙希はふっと窓の外を見やった。本当ならきれいな星が瞬いているのであろうが、今はそれさえもよく見えない。

 ずっとずっと、孝幸は自分の時間を削ってまで勉強を教えてくれていたのだ。私に一々気を遣ってまで、あんなに一生懸命に勉強を教えてくれたのだ。それなのにどうして自分は、それに答えられるような解答ができなかったんだろう。どうして本番でしくじってしまったんだろう……。

 どんどん自身に嫌気が差してきて、どうにもならない後悔だけが積み上がっていった。

 いつもはかけている音楽も今はなく、電気の明かりさえも消えている。

 ただひたすらに空虚な空間。そこに何かを刻むのは、時計の針が進む小さな音だけだった。それだけが今、この場を支配している。

 ああ、本当に自分は馬鹿だ。

 馬鹿で馬鹿で、どうしようもない。

 ほんの少し目頭が熱くなるのを感じると、沙希は再度布団へと顔を押しつけた。

 真っ暗な闇が、遙か遠くまで続いているように感じられる。


 小さな唸り声を上げると、沙希は重たい瞼を持ち上げた。気付けば辺りはより一層の闇をまとっている。

 何かで押さえつけられているように怠い身体をどうにか起こすと、沙希はいうことを聞かない瞼をこすった。徐々に視界も意識も開けてくる。

 ……ああ、そうだ。着替えなきゃ。

 まだ制服のままだということに気付き、沙希はのっそりとベッドから降り立った。眠気と疲れにふらつく足をどうにか持ち堪えさせると、ふらふらとクローゼットの方へと歩み寄っていく。

 制服はどうせぐしゃぐしゃになっているのだろうが、そこは明日にでもどうにかしよう。

 濃紺のブレザーをハンガーに掛けながら、沙希はぼぅっとしたままの頭でそんなことを考えた。スカートの襞は……まあ、どうにかなるはずだ。

 ちゃっちゃと着替えを済ませ、せめてもの抵抗だとばかりにスカートをぱんぱんと二回叩くと、不意に視界の端にある時計が目に入ってきた。あまり意識していなかったものの、一度目に入ってしまうとどうにも時間が気になってしかたがない。

 それに先刻より、どことなく空気も静まり返っているように感じられるのだ。

 カランとハンガーを掛けると、沙希はすっと時計の方へと振り返った。月明かりに照らされた文字盤からは、今が十時過ぎだということが見て取れる。

 まだ、そんな時間だったんだ。

 そんなにすぐに時間が過ぎてしまわないことに、安堵感に似たものを覚える。しかし同時に、過ぎてしまった時間は取り返しがつかないのだと、胸がきゅっと痛くなった。眠っていた間に忘れていた感情が、じわりじわりと蘇ってくる。

 私は、どうしたらいいんだろう。

 苦しくて悔しくてしかたのない胸が、段々と鼓動を速くしてゆく。

 明日から、どんな顔をして孝幸と会えばいいのだろう。もし試験の結果が駄目だったら……どうやって伝えればいいのだろう。

 目頭が熱くなる。

 いつものポジティブな自分は、一体どこへ行ってしまったのだろうか。

 そう思えるほどに、今の沙希は自分自身が解らなくなっていた。いつもだったらちょっとの不安も、鼻を鳴らして笑い飛ばせるというのに……。

 受験も恋も不思議だ。

 どっちも怖くて不安でたまらない。少しの失敗で、こんなに嫌になってしまう。

 きゅっと唇を噛み締めると、沙希はその場にしゃがみ込んでしまった。冷たい床の感触が、今更になって足の裏から伝わってくる。

 深々とした夜闇が辺りを包み込んでは染め上げてゆくかのようで、沙希は膝頭に額をくっつけると、「あー」と小さく唸った。膝にじわりと何か冷たいものが染み入ってゆく。

 もう嫌だ。

 何がって、そんな具体的なことは言えないけれど。それでも何か嫌だ。

 胸の中のモヤモヤ感も、締め付けるような後悔も。いじめっ子みたいに付きまとう不安も、止まってくれない涙も、全部全部嫌だ。

 そして何より、全力が出せなくて自業自得なくせに、今更潰されている自分が嫌だ。

 ああ、ほんと嫌になっちゃうな。

 どうしたらいいんだろう……。

 コチコチという時の音が、その時その時を刻んでは遠く彼方へと消えていく。

 それと共に暗い部屋の中には微かな息遣いが聞こえていたが、それは涙のせいで震えていて――それでも必死に堪えようとしている、無理に強がる子供のような、何ともおかしな呼吸音だった。

 だがしばらく泣いていた沙希は、くすんと震える呼吸を一度止めると、手の甲で乱暴に涙を拭い取る。

 それと同時にすくっと立ち上がり、手櫛で髪を一撫でした。寝癖で少し引っかかったけれど、それも胸の痛みに比べたら、なんてことなかった。それから、再び滲んでくる涙もごしごしと拭い取った。鼻の奥が、やっぱりツンと痛んだ。

 沙希はもう一度涙を拭うと、少しばかりふらつく足取りで部屋の中を横断してゆく。

 泣いても何にも解決しないのに、惨めだな。

 そんなことなど頭の中では解っているのに止められなくて、腫れぼったい瞼をこすりながら、沙希は帰るなり放り投げておいた鞄に手をかけた。

 今思えば、お弁当箱さえ出していない。さっさと洗わないと、汚れが落ちにくくなってしまうだろうに……。

 何でもかんでもマイナスに思えてしまって、沙希はため息をつくと鞄の中に手を突っ込んだ。筆箱の感触やプリント類の感触が、指先や手の甲に感じられる。入れた時はきちんと入れたはずのに、今は掻き回したからかぐちゃぐちゃだ。さっきも触れた筆箱の感触が、今度は手の甲に感じられる。

 ――と、突然何か冷たい物が手首から手の甲へ、ごろりと転がり落ちていったのだ。それは硬くて丸くてつるつるしていて、入れた覚えなどまったくない物の感触だった。

 一体これは何だというのだろう。

 今まで出ていた嗚咽は途端に引っ込み、ほんの少しだけ涙を湛えた双眸が大きく見開かれる。ぼやける視界をまたこすると、沙希は両手で鞄の口を広げた。

 するとぐちゃぐちゃになった鞄の中身が、月明かりに照らされてあらわになる。まったくもって整っていない凄惨な姿が眼前に広がっていて、思わずため息をつきたくなるほどだった。

 だがそこには一つだけ、きらりと光る物があるではないか。それはまったく見覚えのない、まあるい形をした物。

 沙希は些か首をひねると、重みのあるそれをそっと引き揚げた。

「……ビン?」

 それは確かに、手の中にちょうど納まるくらいの小さなビンだった。暗くてよくは解らないものの、中に何かが入っているように感じる。ひんやりとした感覚がずっと消えないのは、多分そのせいだ。

 本当に何なんだろう。

 キラキラと輝いているビンを沙希は手中で転がした。月光に透かしてみると、ほんのりと中の液体が色づいていることが解る。

 どうやら中身はハチミツらしい。

 沙希はそんなことを思いながら、そろりそろりと蓋に視線を向けてやる。そこには微かにだが、何かが書いてあるように映ったのだ。

 勿論ビンの蓋なんて、何かが書いてあったっとしても、別におかしくも何ともない。けれどもそれは前々から書いてあった物とはまた違って、後になってから書き加えられたかのように沙希には感じられたのだ。実際、月明かりにキラキラと光る他の文字とは違って、そこだけはずっと深い闇を持っている。

 しかしどうしても暗闇では文字がよく見えなくて、沙希はそっとその文字を指でなぞってみた。案の定つるつるした蓋の感触とは違って、文字の部分だけはカサカサしているような感触が指の腹に残る。文字と文字との間なんかは、でこぼこしているようなおかしな感じさえした。

 沙希は何度も何度も文字を指でなぞると、おもむろにビンを両手で包み込んだ。蓋だけが覗くようにビンを持つと、手をあげて月明かりにそれを照らしてみる。

 すると月明かりの加減で、文字は浮かんだり消えたりを繰り返していた。沙希はちょっとずつ傾けると、浮かんだ文字を一つ一つ懸命に目で追っていく。

 最初の文字は『ね』、その次は――。

「……解った。解ったよ、孝幸……」

 すると目頭がまた、じんわりと熱くなった。鼻の奥がつんとして、思わず呟いた声が震えてしまう。消えていってしまう。

 おかしいな。本当は悲しくなんてないのに。辛くだってないのに。それなのにどうして、こんなに涙が出てくるのかな。

 それだけが全然解らなくて、沙希は涙を拭ったまま「解ったよ、解ったよ」と呟き続けた。色々な感情が、一気に溢れ返ってくる。

 解ったよ、私は一人じゃないって。

 解ったよ、まだ何も終わっていないって。

『ね。信じよう。』

 解ったよ、私もちゃんと自分を信じてあげるから。

 だから今だけは、少し泣かせて。

 夜の静寂がずっとずっと覆い尽くしている。

 沙希はそう書かれたビンを胸にきゅっと抱えると、一片ひとひらの涙を流した。

 輝く雫がビンの上を伝ってゆく。


「まだ解けないんだ」

 パタンと扉が閉まる音がすると同時、そんな言葉を投げかけられた。

 見慣れた自室に、そんな風に入ってくる人は一人しかいない。もっともかけられた声が、その人物だと物語っているも同然だ。

 沙希は元から止まっていた手をぴくりとさせると、入ってきた孝幸を思いっきり睨みつけてやった。

「すみませんね。毎度のことながら私、頭悪いんで」

「はははっ、そこまで言ってないって」

 うーっわ。沙希の顔、般若と一緒じゃん。

 そう言ってけらけら笑いながら、孝幸はコトンと何かを机の上に置いた。

「まあ、そうイライラしていると問題も解けないからな。ちょっと一息つこうじゃないか」

 そして笑顔を浮かべたまま、孝幸は机に置いた物を沙希の方へとすすっと押しやった。甘い香りと温かな湯気が、一緒になってふわふわと漂ってくる。

 孝幸が押しやったのは、淹れたてのホットミルクだった。それもハチミツ入り。

 沙希が受験勉強に詰まって、イライラして、もう色んなことがダメだと思って。けれどそういう時にいつも孝幸が入れてくれたのが、これだった。

 何でも身体も温まるし、リラックスもできるし、おまけに糖分で頭もすっきりするらしく、学校の先生が勧めるくらい受験勉強にはうってつけらしい。

 けれど、そんな理屈なんてどうでもよかった。

 理屈じゃなくて、ただ自分は一人じゃないって。そしてこれを孝幸が入れてくれたって。それだけの事実が沙希にはすごく嬉しかったのだ。

 そう。理屈なんかじゃ動かせないような感情だって、すぅっと軽く動いてしまうかのようだった。

 すぅって動いてしまうから、どんなにつらい勉強だってやる気になれた。動かしたくない頭だって、いくらでも動かせた。

『愛なんて、所詮脆いものだ。かりそめだ』

 そう思っていたかつての自分が馬鹿馬鹿しく思えるくらい、とにかくその時の沙希には何でもできたのだ。

 ありがとうと言いそれ一口を飲むと、にこにこ笑っていた孝幸が、ひょいと身を乗り出して解きかけの問題を目で追っていく。

 そんな孝幸の横顔を見ながら、沙希はカップを机の上に置いた。さっきと同じ、コトンという音が小さく響いてくる。

「うーん、そっか。この問題かぁ。この問題はちょと厄介だけど、この関数を――」

 そしてそんな風に解説してくれる孝幸に、沙希は何よりも幸せを感じていた。

 この時は受験にだって、絶対受かるって。そうとしか思えなかったのだ。

 根拠のない確信めいたものが、ずっとずっと沙希の中で育っていたのだ。

「まあ、頭をひねんなきゃいけない問題だけど、一度コツをつかめばきっとできるさ。うん。きっとできるはず」

「ねぇ、何で二回言うの?」

「ん? それはだねぇ、『信じよう』って、自分にそう言い聞かせてみたのさ」

 人差し指をぴんと立てて、偉そうに孝幸はそう言ってのけた。それはもう「俺は格言を作った」と満足しているくらい、偉そうな姿だった。

 沙希は眉根を潜めると、思わず何それという言葉が漏れてしまった。

「言い聞かせるって、自信なかったの?」

 だが孝幸は相変わらずへらへら笑ったまま、そういうことじゃないんだと弁解してくる。

「いや、そうじゃなくてさ。ほら、自分が信じてやらないと、誰も信じてくれないだろ?だから誰かに信じてもらうには、まず自分からきちんと信じてあげないとじゃないか」

 ともかく、何事も己からだってことさ。

 孝幸ははっきりとした口調で、そう言った。そう言ってきた。

 それがどうして力強く思えたのかなんて、そんなことは知る由もない。とにかく孝幸は、信じるということを大切にしていた。何事に関しても、自分から信じて行動をしていた。いつだって孝幸は、そうだった。

 そんな孝幸を、いつもすごいと思っていた。子供じみた考えだけど、そんな孝幸を大人だと思っていた。

 だから孝幸は沙希の中で、どんなものよりも大きな存在だったのだ。


「背ぇ、曲がってる」

 ばしんと背中を思いっきり叩かれると、沙希は叩かれた箇所をさすった。

「曲がってちゃ悪いか、曲がってちゃ」

 だってさっきから、歓声か啜り泣く声しか聞こえてこないんだよ。そこにこれから突入しなきゃいけないんだぞ、私は。

 それからそう吐き捨てると、沙希は叩いてきた張本人である孝幸を、振り返りざまにキッと睨みつけてやった。しかし勢いがありすぎて、前髪が眼光を遮ってしまう。

 沙希はため息をついてから前髪を掻きあげると、孝幸から視線を外し、そのまま首を反対側へとめぐらせた。

 そこにはたった一つの門がそびえたっている。まさにこれが、自分の目指している大学の校門だった。

 奥からはどちらかといえば、歓声の方が多く沸き起こっているように感じられる。勿論背を丸めて出てくる人も、先ほどからちらほらといるにはいるのだが……。

 あぁ、来てしまったんだ。

 だが沙希はそう思うと、どうしても気分が沈んでしまうのだった。それはセンター試験の出来に自信がないせいもあるのかもしれない。もしかしたら受験という根本的な不安もあるのかもしれない。

 しかしそんな沙希の胸中など露知らずか、孝幸はもう一度沙希の背中を叩くと、きっぱりとした声で言ってきた。

「ほらほら、さっさと当たってこい。当たって砕けたら、また次まで付き合ってやる。当たったのが当たりだったら、最大級のお祝いだってしてやるさ」

 だからさっさと当たってこい。

 まったく、これでは応援されているのかいないのかがさっぱり解らないではないか。

 沙希はまた出てしまいそうになるため息をこらえると、「あいよー」と魂の抜けたような声でそう答えた。

「解った、行ってきます。死ぬ気で行ってきますって」

「そうだ。その勢いで行け」

「おーうよー」

 ……っていうか、その勢いって何だ? 魂の抜ける勢いか?

 孝幸の言葉に心中で一々揚げ足を取りながら、沙希はそれでも握り拳を固めて校門へと突き進んでいった。また一人、背中を丸めて涙を流す受験生とすれ違う。胸の中が、嫌な痛みでざわついてしかたがない。

 落ちていたらどうしよう。

 次って、そんなので受かる保証があるの?

 一歩一歩踏み出す足も、どんどん重くなっていった。正直なところ、このまま引き返してしまいたいと心は嘆いている。

 しかし己の中で葛藤を続けているうちに、すぐ掲示板の前へとたどり着いてしまった。歓声も泣き声も、今までよりずっとずっと大きく聞こえてくる。嫌なほど鮮明に、聴覚を刺激してくる。

 あぁ、負けそうだ。

 ほんの少し、そんなことを言いそうになってしまった。だが弱音を吐くよりも先に、沙希は鞄のひもをきゅっと強く握りしめる。

 私には今、何よりも強いお守りが付いているじゃないか。神様よりももっと強い、最強のお守りだ。

 ひとたび目を閉じて、大きく息を吐いて。それからゆっくり目を開けた。鞄の中で、ハチミツの入ったビンがずしんとした重みを伝えてくれる。

 沙希はパンと思いっきり腿を叩くと、掲示板へと歩みよっていった。

 幾人もの人と、すれ違ってゆく。

『ね。信じよう。』

 まずは自分が、信じてあげよう。

 掲示板を前にして、沙希は天を仰いだ。

 空は清々しいくらい、頭上できれいな青色をして輝いていた。



おわり


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