-4- 殺戮
竜の巣を去ってから、エルはすっかり無気力になってしまった。二日ほどは酒場で踊ることもせず、宿で寝て過ごした。
自分は竜になにを期待していたのか。自分にとって竜はなんだったのか。エルは毛布にくるまりながら自問したが、答えは出なかった。答えが出なければ、エルはどこにも行けなかった。
起きて働く元気もなく、かといって眠れもしない。エルは不快に鈍麻した気持ちを胸に抱えながら、宿の一室で死んだ地虫のように転がっていた。
このまま世界が私を忘れてくれればいいのに、とエルは思った。しかしそんなときにこそ、厄介ごとが舞い込んでくるものだ。
突然、部屋のドアが乱暴に叩かれた。エルは驚きに肩を震わせ、ベッドから転げ落ちた。外の人間は返答を待つことなくドアを開き、部屋に踏み込んできた。床に頬を着けたままのエルが見たのは、ブーツを履いた八本の足だった。
押し入ってきた四人の男たちは、体格や服装からして兵士に見えた。その先頭にいる髭面の隊長格が、這いつくばったエルを威圧的に見下ろした。
「踊り子エルだな。我々と来てもらおう」
「一体これはどういうことです」
両脇を掴まれ、乱暴に立たされながら、エルは抗議した。
「お前が竜の巣から戻ったのを見た者がいる」
「巣に行くことが罪になるんですか?」
「竜退治の計画を漏らしたのだろう」
「……」
それは確かに事実だったので、エルには言い逃れができなかった。しかしもとから竜の味方だと見ていたのなら、領主はなぜ退治の計画をエルに話したのか。もしかすると、罠に嵌められたのかもしれない。
自分は死罪になるのだろうか? 仮にそうだとしても、火刑や磔刑は断固避けたい。実際に見たことはあるが、あれはあまりに残酷で、いかにも苦痛が多そうだ。なんとか楽に死なせてもらえるよう、酌量を求めることはできるだろうか。
兵士たちはエルに腰縄を打ち、引きずるようにして宿から連れ出した。外にはもう野次馬が集まっていて、エルは下着同然の格好で彼らの目に晒されることになった。侮蔑の表情。好奇の視線。哀れむような囁き声。中には何度も舞台に来て、エルの踊りに喝采を送った者もいた。
そしてエルは拘束されたまま馬に乗せられ、城館の地下にある牢獄へと連行された。
◇ ◇ ◇
投獄されたエルには、拷問も審判もおこなわれなかった。これからどうなるのか、看守は答えてくれなかったが、水と食事と毛布だけは提供された。
二日後の深夜、エルは暗い牢獄の片隅に座り、目の前を横切る蜘蛛を眺めていた。誰かの足音がしたので顔を上げると、兵士が牢獄の入口を開くところだった。
「出ろ」
エルに命じたのは、部屋に踏み入ってきたのと同じ髭面の隊長だった。
「山を登るぞ。身体をほぐしておけ」
「山?」
「竜を殺しに行く。お前はエサだ」
こんな陰気な踊り子の肉など、竜は好むのだろうか。エルは疑問だったが、獄死や刑死よりはなんだってましだろう、と前向きに捉えることにした。もしかすると兵士たちは、私のことをお守りかなにかのように思っているのかもしれない。
エルは投獄されたときと同じように腰縄を打たれて、屋外まで連れ出された。そのまま暗い街路を通って町はずれまで行くと、数十の明かりを携えた男たちがたむろしていた。
暗がりの中、ランタンに照らされた男たちの風体は一様でなかった。装備が不揃いなのは傭兵だろう。揃いの皮鎧と弓で武装しているのは領主直属の兵だ。ほかは毛皮を身に着けた狩人風の集団。町の住民とは異なる、一種異様な雰囲気を纏っていた。
全て合わせればおよそ百名。誰もが殺気立っていた。
「出発する。明かりは極力落とせ」
髭面の隊長が命じると、討伐隊はゆっくりと西に移動しはじめた。
この場所から竜の巣まで、普通に歩けば二刻ほどである。到着は日が出る少し前になりそうだ。暗さに乗じて、竜の巣まで近づくつもりなのだろう。
「エル。おい、エル」
馬の下から囁かれ、エルは目線を落とした。
「大丈夫か? 酷いことされなかったか?」
それはかつてエルを助けたことのある若い兵士だった。彼も討伐隊に加わっていたのだ。以前作った彼への借りは、このとき既に返してあった。
「今回のことは、なんて言ったらいいか、その……」
「私は大丈夫。もともとそんなに重い命じゃないから」
エルが答えると、兵士は気まずそうに顔を伏せた。やりとりを聞いていた隊長に厳しい口調で注意されると、若い兵士はエルから離れていった。
そのあとのエルは話し相手もないまま、馬の歩調に身を委ねた。視界で揺れるいくつもの灯は、どこか冥界への導きめいていた。
幽鬼のような集団が山道を進む。足場は悪く、蹄をとられた馬が不機嫌そうにいななく。狩人たちの囁き声と風の音が混じり、不気味で神経質な雰囲気に拍車をかけていた。
やがて東の闇夜に曙光がにじみはじめた。討伐隊は既に、巣から四半刻のところまでやってきていた。彼らが油断なく見張りを立て、休息しながら戦闘の準備を整えるさまを、エルは馬上からぼんやりと眺めた。
この中の誰一人として、竜を間近で見たことはないはずだ。彼らはあの巨体を、力強い顎を、宝石のような鱗を前にしたとき、一体どんな思いを抱くだろうか。
神話や英雄譚の時代は終わった、と領主は言った。現代の人々にとっては、あの美しい竜もまた、利益のために排除すべき存在としか映らないのだろうか。
まあいい。これから死ぬ人間が深く考えても仕方のないことだ。
空がさらに明るさを増し、討伐隊は移動を再開した。皆、弓を手に持ち、弩に矢をつがえている。その物々しい様子に、エルは今更になって、わずかに動悸が速まるのを感じた。
竜の巣がさらに近づき、植生の貧弱な山地の中でも、特に荒涼とした一帯に到着した。エルがうつむけていた顔を上げれば、そこにはごつごつした岩の斜面があり、中腹には大きな洞窟が口を開けていた。
エルの前にいる髭面の隊長が、どこからかラッパを取り出し、それを思いきり吹いた。ややひび割れた高い音が響き、早朝の空気をびりびりと震わせた。
「竜よ、出てこい!」
隊長がやや芝居がかった仕草で、勇ましく叫んだ。
「踊り子がこの場にいる! 出てこなければ、お気に入りの首を掻き切るぞ!」
その場にいる誰もが、息をひそめて次の動きを待った。エルの喉は緊張で詰まったようになった。沈黙は短い間だったのだろうが、エルにはその何倍も長く感じられた。
突如、どこかから咆哮が響いた。
エルは一瞬、地鳴りだろうかと錯覚したが、それは竜のもので間違いなかった。この咆哮に比べれば、以前にエルが聞いたのはため息のようなものだった。
「全員、武器を構えろ」
そして斜面の背後から、巨大な影が現れた。
ちょうど東から顔を出した朝日が、竜の赤い鱗を煌めかせた。逸った数人の射手が放った矢は、目標に到達することなく地面に落ちた。竜はまだ遠かったが、その威容は討伐隊を動揺させるのに十分だった。
竜がすぐに襲いかかってくれば、集団は早々に瓦解したかもしれない。しかしそうはならなかった。姿を見せた竜はそのまま羽ばたきながら大きな螺旋を描き、天空に舞い上がった。皆、あっけにとられたようにそのさまを眺めた。
竜はその姿が指先ほどの大きさに見える高さまで昇った。矢も声も届かない。ずっとその場所に留まられれば、討伐隊は手の出しようがない。
隊長がエルをちらりと見た。踊り子の血で竜を挑発しようか、と考えているような気がした。
「隊長、なにか降ってきます」
兵士の一人が声を上げ、隊長が空を見た。エルもつられてそちらに注意を戻した。
空からなにか、キラキラとしたものが落ちてくる。雨や雹ではない。赤い鱗でもない。
その正体はすぐに知れた。炎だ。
一呼吸あと、広範囲の火焔が討伐隊に降りかかった。それは地面に衝突してばしゃりと跳ね、また周囲に高温の炎をまき散らした。竜が空から落としたのは、大量の燃えた油だった。
あちこちで悲鳴や怒号が響いた。エルは幸運にも炎を被ることはなかったが、ほかの兵士たちはそうでなかった。炎を直接身に受けた者は松明のように燃え上がり、跳ねた油を受けただけの者も、消せない炎に激しく身を焼かれた。
辺りは紅蓮色の地獄となり、討伐隊の半数が一気に死傷した。
乗っていた馬が熱と恐怖で暴れ、エルは馬具に掴まる間もなく放り出された。しかし地面にぶつかる直前、誰かがその身体を受け止めた。
「おい、逃げるぞ!」
それは例の若い兵士だった。エルは彼の手を借りて、なんとか立ち上がった。エルの腰縄を持っていた兵士は、既に顔面を炎に焼かれて地面に倒れていた。
竜の攻撃は止まなかった。エルと兵士が炎海の中心から少し離れたとき、急降下してきたらしい竜が、激しい衝撃とともに着地した。エルは思わず振り返ってそれを見た。
竜はその口から激しい火焔を噴き、生き残った数人の傭兵を一息で消し炭にした。
竜はその鋭い爪を振り、兵士の鎧と身体をパンのように引き裂いた。
竜はその長く太い尾を薙ぎ、狩人たちを木端のように吹き飛ばしてバラバラにした。
エルの顔面に、飛び散った若干の肉片と、大量の生温かい血がかかった。
それは本当にあっという間の出来事で、討伐隊はまともに応戦することすら叶わなかった。
竜はこれまで町を襲わなかったが、それは大量の兵士を警戒していたからではなかった。ただ単にそうしようと思わなかっただけだ。
もし竜が町を滅ぼすつもりなら、一刻のうちに全ての建物を無慈悲な炎に包み、街路や広場を血に染めることができただろう。それを考えると、竜は狼や猪よりも、巨大な竜巻や津波に近しい存在だった。
「見るな! こっちだ、早く!」
若い兵士に促されたが、エルは竜から目が離せなかった。
そしてまた、竜が吠えた。しかし今度は単なる咆哮や火焔の吐息ではなく、人間にも理解できる言葉だった。
「勇者よ、我を殺しに来い!」
竜はその顎を天空に向け、呪詛にも慟哭にも似た言葉を吐いた。その声はきっと、遠く麓の町までも届いただろう。
「なぜお前は忘れ去られた! なぜお前の愛した人間はこれほど愚かしい!」
竜は遠い昔の誰かに呼びかけていた。しかしその人物がもう存在しないことを、竜は痛いほどに知っているようだった。
「紛い物どもに我は殺せぬ! 我はここに在るぞ! 勇者よ、なぜこの悪竜を殺しに来ない!」
竜はもう一度、言葉にならない咆哮を響かせた。しかし、その咆哮を間近で聞いている者は少なかった。討伐隊はその七割までが悲惨な形で死に、負傷しながら辛うじて生きていそうなものも、ほとんどが気絶して動かなかった。
残響が消えるころ、竜はゆっくりと頭を落とし、エルを見据えた。竜はまだ足元で動いていた隊長の身体を踏み潰して跳躍し、エルと兵士が稼いだ距離を一気に詰めた。二人は完全に爪や吐息の射程内だった。
そのとき、兵士が勇敢にもエルの前に進み出た。
「やめろ……!」
竜はそれに構わず口を開き、息を吐いた。エルは思わず顔を庇い、目を閉じたが、激しい熱は感じなかった。竜の口からは、人間の嗚咽に似た声が響いただけだった。
エルが恐る恐る目を開くと、兵士も燃え尽きてはいなかった。しかし彼はすっかり気圧され、腰を抜かして尻もちをついていた。
竜の体内にある燃料が切れたのか、もともと殺す気がなかったのか、エルには分からなかった。しかしとにかく、二人は生きていた。
「死に損なったな」
竜は言った。エルは兵士の身体を挟んでその瞳を見た。見る者の理解を拒むような、硬い光を帯びた瞳だった。しかしエルはその中に、わずかな哀愁の色を見た。
その孤独な生き物は、鎌首をもたげて遠くを見、大きな翼を広げて羽ばたいた。
強風が起こり、地面の石がカタカタと鳴った。竜は再び空に舞い上がり、ぐんぐんとその高度を増した。しかし今度は、エルたちの上空に留まらなかった。竜は三度大きく旋回したあと、山地の遥か北方に飛んでいった。
竜は去った。急速に小さくなっていくその姿を見つめながら、エルもまたその場に座り込んだ。しばらくそうしてから、負傷者の存在を思い出した。
エルは若い兵士と、幸運にも軽症で済んだ二、三人の者とで負傷者の手当てをした。馬も死んだので町まで運ぶことはできず、その場で救助を待つしかなかった。
結局、隊長以下九十二人いた討伐隊はほぼ全滅した。応援の助けを借りて、なんとか生きて町まで帰ったのは、エルを含めて八人だけだった。