-3- 領主の館
エルの歌は踊りに比べて拙かったが、それでも人々は新しい出し物を喜んだ。酒場に呼ばれ、踊りとリュートを披露し、観客たちに愛想を振りまき、翌日にはまた別の酒場へと出向いた。
一度は町の広場を使ってもよいと言われたので、市で賑わう日中、吟遊詩人の音楽と歌に合わせて舞うような機会もあった。
半ば人生を諦めてから景気がよくなるというのも皮肉な話だ。そのうちエルの踊りが領主の目に留まったらしく、使いが来て城館に招かれた。領主とその客人たちの前で踊りを披露せよとのお達しだった。
招聘は名誉なことに違いなかったが、エルは舞い上がるような気持ちにはならなかった。専属の芸人として雇われるというなら別だが、大抵の場合、一晩彼らを楽しませれば、それで終わりだった。また権力者の中には無礼で強引な者もいるので、手放しで嬉しい機会というわけでもない。
招かれたエルはいつものように踊り、そこそこの好評を博した。金払いや態度は悪くなかったので、エルにとっては当たりの客と言えた。
宴に参加したあと、エルは館への滞在を勧められた。与えられた部屋のベッドは柔らかく、寝間着は滑らかなシルク製だった。一介の踊り子にしては、歓迎されてすぎているような気がした。
来るものが来るのだろうか、とエルは少々身構えたが、領主や客人に肉体関係を要求されるようなことはなかった。しかし翌日の朝、エルは使用人に呼ばれ、領主と朝食を共にすることになった。
「昨晩の踊りは見事だった」
「恐縮です」
やけに大きなテーブルの上には、肉やチーズや果物、さっき焼いたばかりの白いパンなどが、食べきれないほど並んでいた。鷹揚な仕草で食事を勧められたエルは、目の前にあったブドウを一粒口に入れた。
「実のところ、君を呼んだのは、踊りのためだけではない」
次にどんな言葉が放たれるのだろうか。エルは領主の目をじっと見つめた。
「君はこの町をどう思うかね」
エルは質問の意図を咄嗟に測りかねたが、ひとまず率直な感想を言うことにした。
西方の人々に比べ、この町の町人は気取らず、自分のような人種にもさほど嫌悪感なく接してくれる。山の近くにあるということも、故郷に似ていて好ましい。おかげで、この町に来る前は精神的にかなりまいっていたが、今はほんの少し落ち着きを取り戻した。
領主は一つ一つの言葉に対して深く頷いた。しかしエルの答えは、領主が話したいこととは少し違っていたようだった。
「この町は国境に面している。しかし隣国の町に行くのに、今は馬車で四日かかる。竜の住む山地を大きく迂回しなければならないからだ」
エルはこの町に着いた日に聞いた山羊飼いの話と、竜の巣にあった財貨のことを思い出した。隊商を襲うのが野盗や普通の獣なら、金で護衛を雇えばいい。しかしあの竜が相手では、どれほどの金を割いても安全な通行など保障できない。
「もしあの山の竜を討伐し、交易路を整備できれば、隣国まで一日半で辿り着くことができる。町はより活気づくだろう」
「だから、これまでにも勇者を送り込んできたのですね」
エルが言うと、領主は少々意外そうな顔をした。
「よく知っているな。そうだ。私の代になってからは、竜の首に金貨千枚の賞金を懸けた。しかし未だ誰一人として、討伐に成功した者はいない」
金貨千枚というのは、エルに限らず庶民にとって途方もない金額だった。エルがこの町で芸を披露すると、投げ銭を含めて銀貨四枚から八枚になる。金貨一枚には銀貨十枚分の価値があるから、エルが金貨千枚を稼ぎ出すためには、五年の間、一日も休まず踊らなければならない。
「踊り子よ。君は竜を見て、生きて帰ってきた。あの竜について教えてほしい」
これが歓待の理由か、とエルは思い至った。彼はエルからなにがしかの情報を引き出したうえで、竜退治に本腰を入れるつもりなのかもしれない。
エルは特別竜に恨みがあるわけでもないし、単純にあの美しい生き物が殺されてしまうのは嫌だった。しかし、竜の存在が町の不利益になっているのは明らかで、為政者として竜を退治しようとするのは当然のことだった。
それに、この場所で竜について話すのを拒めば、どんな印象を持たれるか分かったものではない。
エルは頭の中で慎重に言葉を選んでから、口を開いた。
「入口から少し奥に行くと、この城館がすっぽり包まるくらいの、とても大きなドーム状の場所があります。ドームの天井には穴が開いていて、竜はそこから出入りするようです」
「ならば、中に大勢が入るのは下策だろうな」
「そうかもしれません」
「続けてくれ」
「竜の顎は家畜を簡単に咥えてしまえるほどでした。全身は赤くて硬そうな鱗に覆われています。剣を持って戦うならば、鋭い爪と、太くて長い尾をも掻い潜らなければならないでしょう」
「弓や弩が必要だ。……それから、火も吹くらしいな」
「私は見ていませんが、どうもそのようです」
改めて考えても、とても人間に太刀打ちできるような存在ではない。
「言葉を交わしたとも聞いている」
「ええ、話しました。竜は人間を軽蔑し、冷淡な態度を取りますが、誇り高く、賢い生き物であるように思えました」
「誇り高く、賢い」
領主はゆっくりと繰り返した。その言葉はあまり気に入らなかったようだ。
「竜は私を傷つけませんでした。その、意図的には」
「理由に心当たりは?」
「私には武器もなにもなかったので、でしょうか」
領主は考え込むような様子を見せた。
「なにか弱点はありそうかね。たとえば美しい女性とか」
エルはその言葉が冗談なのかどうか分からず、あいまいな表情で肩をすくめた。
「そういう感情はなさそうでしたが」
エルは高価そうな銀の杯から水を一口飲んだ。領主の表情を見るに、あまり期待に応えられてはいないようだった。しかし自分は斥候ではなく、ただの踊り子なのだ。弱点を教えろと言われても困る。竜の鱗に槍の刃が通るのかも分からない。
「まあいい。なんにせよ、近日中に兵を出すつもりだ。我々にも豊かに生きる権利がある。神話や英雄譚の時代は終わったのだ」
領主はそう言って、杯で力強くテーブルを叩いた。
◇ ◇ ◇
領主と食事を終えた直後から、エルは気分が悪かった。食べ慣れないものを口にしたからではない。孤独で美しかった竜の存在に欲深い人間の影がちらつきはじめ、自分がその先鋒になりかけたことに対して、言いようもない嫌悪を覚えたからだった。
人間が欲深く卑怯であることはエルも理解しているし、そう在るのは仕方がないと思っている。しかしその謀に巻き込まれるとなれば話は別だ。
なぜよりによって自分がいるときに、大きな争いが起ころうとしているのか。あるいは自分が町を訪れ、竜に会ったせいで、微妙な安定が崩れてしまったのか。そう考えると、エルはいてもたってもいられない気持ちになった。
城館を出たエルは、その足で竜の巣へと向かった。
◇ ◇ ◇
エルが三度目に巣を訪ねたとき、竜は不在だった。広いドーム状の空間には、乾いた沈黙だけが横たわっていた。
なぜ竜はこの場所を、長い間巣と定めているのだろう。確かに珍しい地形ではある。しかし人間が住むにはあまりに殺風景で、特に居心地がいいとも思えない。もしかすると、地熱の具合がよかったりするのだろうか。
エルは巣の中央に進み出て、おもむろに寝転がり、手足を広げて仰向けになった。天井に空いている穴から差し込む光が眩しい。地面は温かくも冷たくもなく、ごつごつした石が背中に当たって痛かった。
エルはしばらくの間、そのままの姿勢で目を閉じていたが、不意に差し込む光がなにかに遮られ、瞼の裏がさっと暗くなった。
「忍び込んだ先で昼寝とは、肝の据わった盗人よな」
エルが目を開けると、天井に空いた穴の縁で、竜が翼を折りたたんでいるところだった。
「すみません」
「そこを退け。汚い染みになりたいか」
エルは竜の足に踏みつぶされないよう、起き上がって巣の端に移動した。竜はその巨体からは想像もできないほど優雅に、静かに地面へと降り立った。もっとも巻き上がる風は如何ともしがたく、エルは顔を腕で覆って飛んでくる砂礫を防いだ。
「今度はなにをしに来た。踊り子よ」
竜はいつもの一角に腰を下ろし、口からなにかをぺっと吐き出した。壁に当たって砕けたそれは、動物の骨のようだった。
「兵が来ます」
エルは言った。
「それがどうした」
竜は答えた。
「領主が兵を出します。どれくらいかは分かりませんが、十人や二十人ではきかないかもしれない」
「うす皮が百人来ようが二百人来ようが、我の知ったことではない」
竜はあくびをした。心の底から、人間を取るに足らないものと思っているようだった。エルは竜に危険を伝えるため、あれこれと言葉を重ねた。自分が領主に呼ばれたこと、領主から聞いた交易路と、そこから得られる利益のこと、自分が領主に伝えたこと。
竜は黙ってそれらの話を聞いたあと、目だけを動かしてエルを見据えた。
「お前は、自分が卑怯者だと分かっておらぬな」
「……え?」
エルは一瞬、なにを言われたのか分からず、間抜けな声を出した。竜は愚者を見る目でエルを見た。
「お前は後ろめたいのだ。内通しているという意識を持っている。そしてそれに耐えられない。だからここへ来た。我にも情報を漏らせば公平だ。あとはなにが起ころうとも知らん顔で、血生臭い円の外におればよい」
「そんなことは……」
エルは反射的にそう言ったが、竜の言葉が的を射ていることは否定し難かった。
「ひと所に立っておられぬ。腹の中に積もる澱を留めておけぬ。だから町を離れてここに来て、我に洗いざらいを話している」
「……」
エルはしばらく黙っていた。なんと言っていいのか分からなかった。
「だが、卑怯には理由があるのだったな」
それまでエルを責めるような口調だった竜は、声の調子を落とした。
「踊り子よ。強い人間などそうはおらぬ」
竜に卑怯さを指摘されるのも意外だったが、慰められるのはもっと意外だった。その言葉を心の中で反芻しているうちに、エルはあることを聞いてみたくなった。
「私は弱い人間だから、ひと所には立っていられない。ではあなたはどうですか。なぜここに住み続けるんです」
竜は目を細めた。生意気な口を叩くうす皮だ、と思っているに違いない。
「我がこの場所を住処と決めたからよ。それ以外に理由があるか?」
「本当にそれだけ?」
「なにが言いたい」
「誰かを待っているんじゃないですか」
特段根拠のある発言ではなかった。ほとんど勘によるものだった。しかしエルのそれは、ときに不要な労苦を招くくらいには鋭かった。
竜は黙ったまま、目を剣の切先ほども細くした。なにを考えているのかエルには分からなかったが、エルは自分の言葉が、硬い鱗の奥にあるものに触れたような気がした。
「それが自分だったとでも言いたいか?」
「そんなわけはないでしょう」
竜は起き上がり、ゆっくりとエルに歩み寄った。鼻と鼻面が触れそうなほどの距離に来てから、竜は雲の中で鳴る雷のように低い声で、ゆっくりと、噛んで含めるように言った。
「……出て失せよ。二度とここへは来るな。互いのためにならぬ」
「随分、優しいのですね」
「次に姿を見せたら消し炭になると思え。よいな」
エルが不承不承頷くと、竜は顔を離した。五、六歩あとずさり、翼を広げて羽ばたいた。強い風が起きて、砂礫が飛ぶ。
竜が少しだけ脚を曲げ、勢いよく踏み切った。巨体が一息に穴の縁まで昇り、もう一息のうちに天高くまで舞い上がった。
それを眺めながら、エルは大きく息を吐く。
「消し炭か……」
エルはしばらくそのまま佇んでいたが、やがて踵を返し、置いておいた荷物を背負った。
記念に財宝の一つでも貰って帰ろうか。いや、町で見つかれば厄介なことになる。
結局、エルは財宝に手を付けなかった。竜の巣を出て、岩肌を慎重に下り、山の斜面を歩きはじめた。心の中に強い悲しみはなかったが、空虚さは残った。
乾いた風に背中を押されながら、麓にある領主の城館や、町人の家々や、周囲に広がる畑や、遠く西に延びる街道を見た。
空を見回せば、きっとどこかに竜が見えただろう。しかしエルはそうしなかった。人間の世界に帰らなければならなかった。
エルははじめて山に来たときと同じくらい、ゆっくりと時間をかけて帰路を進んだ。町の近くまで戻るころには、宵闇がすっかり空を覆っていた。