-2- かつて勇者がいた
「竜に咥えられて戻ってきたなんて、信じられないな」
翌朝、エルは宿屋の一室にいた。傍らにいて話しかけているのは、草原に倒れていたエルを見つけ、町に連れ帰った若い兵士だった。彼は竜が不審な動きをしていることに気づき、飛び立ったあと馬で様子を見に来たのだった。
「死んでないのはもっと驚いた。一体どんな手を使ったんだ?」
宿屋で医師の診察を受け、特に治療の必要なしと判断されたエルは、そのまま一晩泥のように眠った。しかし起きてから微熱が出ているようだったので、今は簡素なベッドに身を横たえたまま、兵士と話していた。
「私が変なことを言ったから、気持ち悪く思ったのかもしれない」
エルは竜と交わした言葉を思い起こした。内容は噛み合わなかったが、少なくとも話をすることができた。
竜は旅人や隊商を襲うと聞いたが、実のところ、そこまで残忍な生き物ではないのかもしれない。しかしそんなことを言うとまた変に思われる気がしたので、エルは無難な推測を述べるに留めた。
「武器を持ってなかったからかもしれないな」
エルの気持ちを知ってか知らずか、兵士は軽い口調で言った。
「ごくたまに、竜がいると聞きつけてやってくる命知らずがいるんだ。領主さまが呼びつけるようなのもいるけどね。町のみんなも勇者さま勇者さまって持て囃すんだけど、俺はあんまりいいことだとは思わないな」
「その人たちはどうなったの?」
エルは尋ねた。答えは大体想像がついた。
「大半は戻らなかった。皆が皆、殺されたわけじゃないと思う。生き残って逃げた人もいるかもしれない。送別の品をせしめるだけの詐欺師だっていただろう。
実際に凄そうな人はいた。身長ぐらい大きな剣を持った戦士とか、信じられないくらい強い弓を持った達人とかね。でも知っての通り、誰も竜を殺せなかった」
エルは巣で見た竜の巨体を思い浮かべた。その力強い顎と、太い前脚や爪を思い浮かべた。どんな剛腕や技量の持ち主だとしても、そもそも人間に殺せるような生き物とは思えなかった。
「たくさんの兵士を送り込んだことはある?」
エルが言うと、兵士は笑った。
「恐ろしいことを言うね。確かにそういう話もあるみたいだけど、俺は一番に逃げ出すかもな」
もしあの鱗を貫ける弓があり、それで百本の矢を射かければ、竜を殺すことも不可能ではないのかもしれない。しかしそのためには、矢が届く場所まで近づかなければならない。竜には翼があり、天空高くからものを見ることができるから、大勢で行動すれば、遠くからでもすぐに分かってしまう。
山肌をのろのろ進む軍勢を見た竜は、ひらりと逃げてもいいし、油断したところを空から襲ってもいい。それを考えると、兵士をたくさん送ればどうとでもなる、ということでもないのだろう。
「幸い、町を襲うことはないみたいだから、君は安心して休むといい。また踊りを見せてくれよ」
兵士はそう言って、食事と、エルが町で数日過ごせるだけの銀貨を置いていってくれた。竜に咥えられて帰ってきたとき、荷物のほとんどを巣に置いてきてしまったので、エルは今、ほとんど無一文だった。
少なくともあの兵士に借りを返すまでは、生きていなくてはならない。エルは置かれた食事に口をつけ、再び枕に顔を埋めた。
◇ ◇ ◇
もう一晩寝ると、少なくとも微熱やふらつきはなくなった。エルは宿の亭主に礼を言い、また生きるために踊りをはじめた。
エルが竜に遭い、生きて帰ったことは、多くの人に知れ渡っていた。その噂が人を呼んだのか、踊りは相変わらず盛況だった。エルに竜のことを聞きたがる者も多かった。
竜のことをぺらぺらと喋るのはなんとなく気が引けたので、とても恐ろしかったとか、信じられないほど巨大だったとか、そういった月並みな感想を言うに留めた。
「俺のひいばあさんに聞いた話だがね」
踊りを伴った宴のあと、町の皆が帰った酒場でエルが休んでいると、普段は不愛想な亭主が、思い出したようにぼそぼそと話し始めた。
「竜はひいばあさんが子どもだったときから、ずっとあの山にいるんだそうだ」
亭主の年齢を考えれば、百年以上前の話になる。あれだけ大きな竜だ。きっと寿命も長いのだろう。
「けど、そのころ一人の旅人が来て、竜を殺したらしい」
「竜は生きてましたよ」
「ああ。でも実際にそのあと十何年か、竜は姿を現さなかったんだ」
「なら、今の竜はその子どもなのかも」
「かもな」
亭主は甕に貯めた水で、食器を洗い始めた。
「旅人の名前は?」
「知らん。でもひいばあさんによれば、そいつは勇者って呼ばれてたらしい。だからこの町の人間は、竜に挑む人間を勇者って呼ぶんだと」
「はあ」
「それはそうと、あんた、歌は歌えないのかね?」
「歌えます。楽器があれば」
そう答えてから、エルは自分の小さなリュートを、竜の巣に置いてきてしまったことに気がついた。
もし高価な楽器を買い直すのではければ、また巣に行って回収してこなくてはならない。しかしその行程を想像したとき、エルは不思議と抵抗を感じなかった。
山道を登り、気狂いと侮辱され、大顎で凄まれ、乱暴に運ばれはしたが、あの場所には不思議な落ち着きがあった気がする。エルはその理由を考えた。
踊り子は、どこに行っても侮りと好奇の視線にさらされる。表向きは退屈な日常に華やかな風を吹き込む者として歓待されるが、所詮は色街の娼婦より素性の卑しい人間であって、誰もが心の内に軽蔑を秘めて彼女らと相対する。
エルにはその表裏の色の違いを感じるたび、喉の奥に腐汁を流し込まれるような気持ち悪さを味わった。
しかしあの竜はそうではなかった。竜は裏表なくエルを侮り、軽蔑していたが、それはエルが踊り子だから、というわけではなかった。竜は人間すべてを侮っていた。竜の瞳と、牙と、爪の下では、エルもほかの人間と同様だった。
もっともそれは、あくまでもエルが抱いているだけの幻想で、実際に竜がどう思っているかは、誰にも知れないのだった。
自分はきっと、そういう変な思い込みをしやすいせいで、人に騙されやすいのだろう。しかしともかく、荷物は取りに行ってみよう。エルは決意して、その日からまた登山の準備をはじめた。
◇ ◇ ◇
「楽器を取りに来ただと?」
侵入を咎められ、正直に再訪の理由を白状したエルは、また竜の冷ややかな視線に晒された。そのとき、竜は巣の中央で日に当たっていた。見事な鱗がきらきらと光り、空間に一種神聖な雰囲気を醸していた。
「この間は、私だけで帰ってしまったので」
「では、それを持ってさっさと帰れ」
竜は気だるげに身を横たえたまま、その長い尾で巣の一角を指した。そこにはエルの荷物がほとんどそのまま残されていた。エルはそれに歩み寄り、袋の中から自分のリュートを取り出した。
この硬い木でできた小さなリュートは、エルが財産と呼べる数少ない物品の一つだった。芸に使うこともあるが、寂しい夜、自分の無聊を慰めるために弾くことも多かった。
ぽろん、とエルはリュートの弦を弾く。壊れてはいないようだ。ぽろん、ぽろんと旋律を奏でていると、竜が声をかけてきた。
「踊り子と言っていたな」
「エルです。あなたの名前は」
「教えるつもりはない」
竜はそっけなく言った。しかし前回に比べて、機嫌はいいように思えた。
「なぜ人間のことを、うす皮と?」
エルは尋ねた。
「毛皮も鱗も持たない、か弱い存在。だから鉄を鍛えて鎧を纏う。爪と牙の代わりに剣や槍を持つ。なんともいじましい生き物よな」
ふん、と鼻から息を吐く。嗤ったのかもしれない。
「おつむは多少発達しているようだが、それも下らない争いの種にしかならん。相手を陥れることだけを考えている。策略、嘘、罠、闇討ち、毒」
「以前あなたに挑んだ勇者のことでしょうか」
「勇者!」
竜は声を荒げた。勇者という言葉に、なにがしか思うところがあるようだった。
「我が見たのは勇者とは名ばかりの卑怯者よ。皆一息で消し炭にしてやったわ」
エルは巣の一角にある武具に目をやった。この中の一部は、自称勇者たちの装備品なのかもしれない。
人間は卑怯。確かにそうだ、とエルは心の内で竜に同意した。エルにしたところで、別に誠実な性質ではない。それでも、人が卑怯になるには理由がある。
「皆、生きるのに必死なんですよ。だから卑怯なこともする」
竜のように堂々と生きられるほど、強くはないのだ。
「そんな中、竜の巣に来る阿呆もいるがな」
「もう少し、人里から遠ければ来なかったかもしれません」
なぜこんな場所に住んでいるのですか、と遠回しに聞いたつもりだったが、竜はエルの言葉を無視した。竜ほど強い生き物ならば、どこでも暮らしていけそうだが、巣を移すのは人間に負けたようで、沽券に関わると感じるのかもしれない。
竜はもぞりと姿勢を変え、身体の別の部分を日に当てた。
「我はこれから午睡に入る。町に帰ってせいぜい武勇伝でも語るがよい」
「もう少し休んで行ってもいいですか」
「外でせよ。それとも、また町までひと飛びしたいか」
「帰ります」
前回のような酷い体験をするのはごめんだ。次こそは苦しんだ挙句心臓が止まるか、頭の中身が鼻から出てしまうだろう。エルは荷物をまとめ、そそくさと洞窟を出た。
今は午後の早い時間だが、エルは朝からずっと歩き通しだった。日暮れまでに町へと戻るには、疲れた脚のまま急いで山を下らなければならない。エルには別段予定もなかったので、その日は山中で野営することにした。
竜の巣に近い場所ならば、獣も野盗も寄りつかないだろう。エルは風の防げる岩陰を探し、小さな火を焚いて温かい食事を摂った。少しリュートを弾いて歌を歌い、長い時間ぼんやりしてから、巣で回収した毛布にくるまって眠った。
エルが夜中に一度目を覚まして空を見上げると、冷たい闇に無数の星が煌めいていた。竜も巣の天井に空いた穴から、同じ星空を眺めているだろうか。そんなことを考えながら、エルは再び眠りに落ちた。