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竜の待ち人  作者: 黒崎江治
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-1- 踊り子と竜

 近ごろ、エルは酷く憂鬱な気分だった。


 踊り子として街から街を渡り歩き、男たちに媚を売る生活に嫌気が差していた。優しそうな男に騙されて有り金を取られたり、冷酷な男に翻弄されて傷ついたりしているうちに、自分の人生に良いことなどなに一つないのだ、と思うようになっていた。


 若さも美貌もすぐに失われる。そうなればあとは野垂れ死にを待つだけだ。


 いっそ死んでしまおうか。そう考えることが多くなった。ただ、エルに暴力的な死を選ぶ勇気はなかった。ナイフで首を切るとか、崖から飛び降りるとか、縄で首を括るとか、そういう方法で死ぬのは恐ろしかった。


 特に最近は、自分がまるで幽鬼になったかのような、虚ろで現実感のない状態が続いた。それでいて、都市の賑やかさがいちいち神経に障った。


 そこでエルは、とにかく人の多い場所から逃げ出すことにした。さしたる考えも計画もないまま、乗合馬車に身体を押し込み、数日の旅を経て、国境に近い山麓の町に辿り着いた。


 このまま山を越えて、見知らぬ異国に行ってしまおうか。いや、とてもそんな元気はない。エルはここが自分の旅と人生の終着点だろう、と考えた。


 エルの故郷はここよりずっと西にあるが、そこもまた山麓の村だった。遠い記憶の中で誰かに連れられ、少し高いところまで登っていったような気がする。父親だった気もするし、違う誰かだったかもしれない。


 町はずれで馬車を下りたエルは、東方に聳える山々を眺めた。植生は貧弱で、赤茶けた地肌と灰色の岩肌がまだらに分布している。四つほど連なった峰は、どれもさほど高くはない。平均的な体力と気力、そして準備があれば、歩いて越えることも十分できそうだった。


「あんた、この先に行きなさるのかね」


 エルがぼんやり佇んでいると、山羊飼いと思しき老人が声をかけてきた。山羊と同じような白く長いあごひげを生やし、持ち手の曲がった樫の杖を握っていた。


「いえ……」


「あの山には昔から竜がおってな」


 話好きらしい山羊飼いは、エルの答えを無視して続けた。


「山を通る旅人を喰う。隊商も喰っちまう。だからみんな、わざわざ山地をぐるっと迂回して、隣の国まで行くんだ」


「竜ですか」


 竜というものが本当にいるのかどうか、エルは知らなかった。竜殺しの英雄譚は少なくない。エルも酒場で吟遊詩人が歌うのを聞いたことがある。しかし実際に、あそこに竜がいるぞ、と聞くのははじめてだった。


 本当に竜なのだろうか。盗賊かなにかが人を襲っているだけなのではないのか。エルがそう尋ねると、老人はやや憤慨したように言った。


「そりゃ、あんた。何日かいればすぐに分かるよ。町の上を飛ぶことだってあるんだから。ほら、山のあのあたり。あのあたりに巣があるんだ」


「はあ」


 山羊飼いは山の中腹を指さした。エルはそのあたりに目を凝らしたが、竜の姿は見えなかった。


「そうですか。どうも親切にありがとう」


 エルはまだ話したそうな山羊飼いを適当にあしらい、踵を返して町の中心部に向かった。


 素朴な建物の多い町並みは、都市のそれよりも神経に優しい。エルは適当な安宿に目星をつけ、そこを当面のねぐらと決めた。


 明日からのことは、明日考えよう。部屋に入ったエルは荷物を放り出し、固いベッドに身を横たえた。長い間壁や天井を眺めながら意識が凪ぐのを待ち、やがて質の悪い眠りに落ちた。


 ◇ ◇ ◇


 エルはその町で何日かを過ごした。町は大体千人ぐらいの規模で、盛り場のようなところもいくつかあった。エルはそういった場所を借り、きわどい衣装で踊りを披露して、とりあえずは食っていけるだけの銀貨を稼いだ。


 この辺境では踊り子など珍しいのか、芸の評判は悪くなかった。しかし歓声や称賛を浴びても、エルの心は浮かなかった。気安く声をかけてくる男もいたが、エルは一度も誘いに乗らなかった。


 空虚なエルの心の片隅には、この町にはじめて着いたときに聞いた、竜のことがあった。エルが知る英雄譚の竜は恐ろしく残忍だったが、美しく賢い生き物でもあった。そのような存在が、本当にあの山にいるのだろうか。


 もしそうであるならば、死ぬ前に一度見てみたい。


 出会った竜が自分を殺すならばそれも悪くない。大きな牙や鋭い爪で一思いに殺されるならば、さほど苦しまずに済むだろう。それは汚らしい野盗や森の狼に襲われるより、ずっとましな死にざまであるように思えた。


 エルは次の何日かで、踊りで得た稼ぎの一部を使わずに取っておき、それで短い旅の準備を整えはじめた。


 腐りにくい食料、水を入れておく革袋、火を起こすための道具、小さな鉄製の鍋。今は暖かい季節なので、服と毛布はさほど分厚いものでなくてもいい。エルは調達した二、三日分の物資を小さくまとめ、使い込んだ自前の布袋に入れた。


 そして山麓の町に来てから七日目の朝。エルは再び町はずれにいた。先日山羊飼いが指さした、竜の巣があるらしい場所を眺める。


 山肌は変わらず不毛だった。もしかすると、火山なのかもしれない。だとすれば、竜が棲むには似合いの場所だ。


 町の領域を出れば、すぐ山の斜面である。エルは荷物を背負いなおし、中腹にあるという竜の巣を目指して出発した。町人には特になにも告げなかった。告げたところで、馬鹿なことはよせと言われるだけだ。


 エルは歩いた。旅の進みはとてもゆっくりだった。エルには人並みの体力があり、大きな病気もなかったが、とにかく近ごろは気分が落ち込んでいたし、守らなければいけない予定もなかったから、普通の人が一刻(二時間)かけて進むところを、二刻かけて進んだ。


 道のようなものがなくはなかったが、少なくとも数十年は使われていないだろうと思われた。苔むした標石や、朽ち果てた木片が、辛うじて通行に安全な場所を示すのみだった。エルは途中までそれに沿って進み、やがて竜の巣に向かって道を逸れた。


 ゆっくりと歩き、頻繁に休む。ときおり麓の方角を見下ろし、再び歩き、首筋を流れ落ちる汗をぬぐい、パンをかじりながら休む。道中何度か遠い峰々に目を向け、四方の空を眺めたが、竜の姿を見かけることはなかった。


「……疲れた」


 太陽が高く上り、中天に達し、西に少しだけ傾くころ、エルはこれまでの山肌に比べてさらに荒涼とした景色を目にした。そこにはやや急な岩の斜面があり、その中ほどに大きな洞窟が口を開けていた。きっとここが竜の巣だろう、とエルは見当をつけた。


 辺りの地面をよく見れば、焦げたように黒ずんでいる岩や、動物のものと思しきバラバラの骨があった。


 エルは斜面に目を戻した。今立っている地面から洞窟までは、建物三階分ほどの高さがある。突き出ている岩を手で掴めば、道具を使わなくてもたどり着けそうだ。転がり落ちれば無事では済まないが、エルは職業柄、人一倍身軽だった。


 最初の岩に手をかけたとき、エルはふと冷静になった。


 一体、自分はなにをしているのだろう。ここひと月ほどは食事を摂るのすらおっくうだったのに、わざわざしなくてもいい旅の準備をして、手足がすりむけるのも構わず岩の上を這いずっている。後ろから敵に追われているわけでも、先に愛する人が待っているわけでもない。


 目指す場所に竜がいるかもしれない、というだけだ。竜は今の自分にとってのなんなのだろうか。エルは心の中で問うてみたが、答えは出なかった。


 よく分からないなにかに突き動かされ、エルは斜面を登る。岩は案外安定していて、動いたり崩れたりすることはなかった。淡々と手足を動かしていたエルは、洞窟の入口までたどり着いた。


 腕で身体を持ち上げて洞窟の縁に立ち、傷つき強張った手の指をさすりながら、エルは洞窟の内部を見やった。洞窟は入ってすぐの部分で曲がっていて、奥を見通すことはできない。中からはわずかに風が流れてきて、汗に濡れたエルの頬を冷やした。温泉の近くに漂うような、硫黄ガスの臭いもする。


 エルは洞窟の天井を仰ぎ見た。頭上を塞ぐ岩までは、跳び上がって手を伸ばしても届かないだろう。


 エルはしばらく巣への侵入をためらい、洞窟の入口周辺を観察したり、さっき登ってきた斜面を眺めたりしていたが、やがて覚悟を決めて、洞窟の内部に足を踏み入れた。靴の裏で表面の粗い火山岩がこすれ、ごりごりと音を立てる。


 当然のことながら、洞窟の奥に光は届かない。エルは手探りで先に進んだ。


 竜が暗闇から襲ってくることはあるだろうか? エルは自分で考えて、すぐにそれを否定した。エルが想像する竜は、もっと堂々と狩りをするはずだ。


 空想を膨らませながら暗闇を進んでいたエルは、やがて道の先にわずかな光を感じ取った。多分、途中のどこかに穴が開いていて、日が差し込んできているのだ。


 そして曲がりくねった道をさらに二、三十歩行ったころ、エルは広い半球状の空間に辿り着いた。天井は入口付近よりもさらに高い。半球の頂点あたりに穴が開いていて、そこから日光が降り注いでいた。


 暗闇に慣れかけた目に光を浴びて、エルは目をしばたたかせた。


「……今度は魔術師を寄越したか」


 そのとき半球の奥にある陰の部分から、低く唸るような声が響いた。


「なんとも間抜けな面だが、正面から堂々来たのは悪くない」


 エルの目が光に慣れてくる。声の主はゆっくりと身を起こし、その姿を露わにした。


「度胸があるな。え? うす皮(、、、)よ」


 まず見えたのは大きな顎と、顎に備わった牙の列だった。ひとたびそれが開けば、馬や牛だって咥えられるほどの幅があった。どんなに重厚な鎧を身に着けた戦士でも、鎧兜ごとばりばりと噛み砕けそうだった。


 踏み出した爪は鋭く、一本一本が大人の腕ほどもあった。エルはそれが人間の肉に食い込み、そのまま柔らかいパンのように引き裂く様子を想像した。


 これが竜だ。エルは思わず息を呑んだ。目の前にいる生き物は、エルが事前に膨らませていた空想と同じくらい強大で、同じくらい恐ろしげだった。


 そして、想像を遥かに超えて、美しかった。


 体表を覆う鱗が、差し込む日光で煌めいていた。その深く滑らかな赤は、瑪瑙やルビーをどれほど磨いたとしても、永遠に出し得ない色だった。それが数万枚、数十万枚、一つの欠落も歪みもなく並んでいる。


 前脚から胴体にかけての曲線は、優美な彫刻のようだった。背には無駄なく折りたたまれた翼。それ自体が一個の生き物かと思うような太く長い尾。すべての部位が荒々しくも、極めて緻密に造形されていた。


 エルは随分久しぶりに、心の底からなにかを美しいと感じた。それどころかほとんど完全に放心してしまって、竜が近づいてきているのも意識しなかった。


 気づけば、竜の顎がエルの鼻先まで迫り、細い瞳孔がこちらを見据えていた。口からはわずかに、硫黄ガスの臭いがした。


「魔術師ではないな。頭がまともかどうかも怪しい」


 竜の声は頭の中に直接響いてくるようだった。多分、人間のように唇を動かしていないからだろう。竜は口の中にある膜と舌を動かして喋るのだ。


「あの」


 エルは話そうとして声が詰まり、二、三度口をぱくぱくさせた。


「私、魔術師じゃありません」


 竜はわずかに目を細め、呆れたような口調で言った。


「……気の狂った哀れなうす皮よ。ここはお前の家ではないぞ」


 自身の正気についてはエルも疑問を持っていたが、竜は竜で少し誤解しているように思える。しかしとにかく幸か不幸か、竜が今この場でエルを喰い殺すことはなさそうだった。もしかすると、少し前に食事を済ませたばかりなのかもしれない。


「家は、ないです。旅の踊り子なので」


 エルは言った。それを聞いた竜は喉の奥でくぐもった音を出すと、すっかり興味を失ったような様子で元いた場所に戻り、巨体を音もなく横たえた。


 竜はそれからしばらくなにも言わず、なにもしなかった。エルはひとまず荷物を降ろして壁に寄せ、地面に毛布を敷いてそこに座り込んだ。


 エルは改めて巣の中を見渡した。そこは縦横百歩以上もありそうな、がらんとした空間だったが、まったく物がないというわけではなかった。


 端に寄せられた白い小山は、動物の骨が積み重なったものだった。しかし竜の巨体に比べると、その量は少ないように思えた。多分、ほとんどは骨ごと食べてしまうのだろう。


 別の一角には、もっと雑多な物品が置かれていた。剣や槍、金属でできた盾や兜などの武具。鉄や銅のインゴット。金貨や銀貨、燭台や宝飾品などの貴重品。旅人や隊商を襲った際に強奪したものだろうか。一部でも持ち帰れば、そこそこの財産になりそうだった。


 エルは竜に目を戻し、飽きずにその美しい身体を眺めた。今のエルにとっては、どんな宝も竜ほど魅力的には映らなかった。


 竜との遭遇で昂ぶった神経が徐々に静まり、エルの意識に山歩きの疲労が忍び寄ってきたころ、竜が腹を膨らませて大きく息を吐いた。


「おい、そこのうす皮」


「はい」


「いつまでいるつもりだ」


「……」


 町を出発したときは、なんとなく竜の巣で死ぬものと思っていたので、エルにはこれからどうしようという考えがなかった。


「決めてないです」


 エルは正直に言った。言葉を聞いた竜はゆっくりと身を起こし、その爪で足元の石を砕きながら歩み寄ってきた。はじめに比べ、明らかに機嫌を悪くしているように見えた。竜はその鎌首を高くもたげ、エルを威圧的に見下ろした。


 睨まれたエルは、竜を見上げるような格好のまま、麻痺に近い感覚を味わった。エルは身体を動かすことができず、竜の瞳に捉えられたような気持ちで、それを見つめ返した。竜の瞳は人と随分違う。見る者の洞察を拒むような、硬い光を帯びた瞳だった。


「ここへは、死んでもいいと思って来たから、決めてなくて」


 ようやく喉の呪縛が解けて、エルの口からはそんな言葉が漏れた。


 竜は動かず、一言も発しなかった。


「七日前に、麓の町に来て、竜がいると聞いたので、その」


 竜は黙ったままだった。


「竜が私を、食べるかなと」


 ごう、と竜が吠えた。


 開かれた上下の顎と、そこに生えた牙がエルの視界いっぱいに広がった。咆哮が全身を震わせ、両の耳を突き刺すように苛んだ。


「戯言を吐くその愚劣な頭、もぎり取ってくれようか」


 エルは頭全体ぐわんぐわんと細かく振動しているように感じ、危うくそのまま気絶しそうになった。思わず口から謝罪の言葉が出た。


「すみません、すみません」


 竜が再び口を開き、今度こそエルにかぶりついた。エルはぐえっと声を出し、ああこれで死ぬのだなと目を閉じた。最期の言葉になるのなら、もう少し気の利いたことを言えばよかった。


 しかしエルは死ななかった。竜の牙はエルの服と肉に食い込みこそしたが、皮膚を突き破りはしなかった。エルは竜の口の中で舌に巻かれ、完全に動きを封じられた。頭だけが辛うじて外に出ていた。


 次の瞬間、巣の天井が猛烈に近づいてきた。内臓が体の中で潰れたようになり、エルは息ができなくなった。竜が自分を咥えたまま飛び上がったのだ、と理解した。


 巣の天井に空いた穴から、竜が野外に飛び出した。エルには夕日で朱に染まりつつある空が見えた。身体を動かせないので地面を見ることはできなかったが、竜はぐんぐんと高度を上げているようだった。


 エルの精神は限界を迎えつつあった。物理的な揺さぶりも加わって、頭からは急速に血の気が引いていった。エルは気絶と覚醒を行き来しながら、半死半生の状態で大空を舞った。


 一息に噛み砕かれた方が余程ましだった。エルが耐え難い苦痛に強く後悔し、殺してくれるよう誠意を込めて懇願してみようかと思い始めたころ、竜が土塊を飛び散らせながらどこかに着地した。


「家に帰って頭を冷やすがいい」


 巻かれていた生温かい舌が解かれ、エルは乱暴に地面へと投げ出された。草がちくちくと頬に痛い。全身が竜の唾液でじっとりと濡れている。


 竜が翼を広げる音がした。再び土が巻き上がる。エルは全身に風を感じた。


 そして竜は去り、エル一人が残された。


 だから私に家などないのに。そう思いながらエルはゆっくりと身を起こした。とたんに酷いめまいがして、エルは盛大に嘔吐した。


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