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透明な甲子園  作者: ミキ
2/2

透明な朝

まだ慣れないブレザーに身を包みながら澄人は憂鬱そうに廊下を歩いていた。廊下の方がよほど気持ちが落ち着くのだ。

「あの、野球部の朝霞くんですよね?」

ふと後ろから、呼び止められて振り向くと、名前も知らない女子生徒が立っていた。

「はぁ、そうだけど」

またか。と、澄人は頭を抱えたくなる。こちらの憂鬱とは対照的に女子生徒の表情は血色がよく非常にイキイキしている。

女子生徒は胸ポケットからケータイを取り出した。

「あの、美輪くんの連絡先」

「美輪なら教室、女子に囲まれてる」

女子生徒が言い終わらないうちに澄人は模範解答を述べた。本人に直接聞いてくれ、と付け足して。

澄人の返事に女子生徒は一瞬で表情を曇らせ、数メートル後ろで彼女の様子を見守る女子生徒の集団の中に踵を返した。

感じワル!

背中でそんな声を聞く。

感じ悪いのはどっちだよ、と心の中で毒づいた。入学してから1ヶ月、その間に何度このやりとりをしただろう。

美輪斗馬と接点を持ちたい女子との仲介役。クラス内唯一の美輪と同じ野球部員である澄人は、女子生徒の期待を一身に背負っていた。

中学時代も美輪を観に球場に来るファンの女の子はいたけれど、高校はその比にならない。それがこの国の高校野球の位置付け故なのか、紅明高校が野球の名門校故なのかわからないけれど、美輪斗馬が類を見ない美貌の持ち主であることが大前提での話であることを澄人はよく理解していた。

トイレで用を足し、手洗い場の鏡の前に立つ。

俺にもあいつと同じように目鼻口はついてるんだけどな。

なんて、一瞬思ったけれど、アホくさくなってすぐに鏡から視線を落とし、蛇口を捻った。

ふと、教室で自分よりもよっぽど憂鬱そうに女子をあしらう美輪の姿を思い出す。

休み時間にも関わらず、机の周りに毎日知らない女の子たちが群がり、連絡先を聞き出したがる。中には、美輪が中学の頃から食事に人一倍気を使っていることを知らずにバターと砂糖がたっぷりの手づくりのお菓子なんかを持ってくる女子も。

机の上にはいつも文庫本が伏せて置かれてある。美輪は、休み時間でさえ、彼の趣味である読書に勤しむことすらできないのだ。

ちくしょう、なんで俺があいつと同じクラスなんだよ。

澄人は蛇口を乱暴に閉め、早歩きで教室に向かった。美輪斗馬に出会ってから、俺はついてねえ。ちくしょう、何が天才だ、手がかかるヤツめ。

ガラッ。

教室のドアを開けると案の定美輪はいつものように女子生徒に囲まれていた。その中にズカズカと入っていき、澄人は自分の右手を音を立てて机の上に叩きつける。クラス中の視線が澄人と美輪に集中する。

澄人は、息を吸い込んだ。そして、

「ひどいよ美輪! ふたりで甲子園行くまでは彼女作らないって約束したのに、こんな素性の知れない女子たちに連絡先を教えるの!?」

クラス中に流れる、沈黙。

いいぞ、引け。もっと引け。

しかし、俺の迫真の演技にいちばん引いてたのは、他でもない美輪だった。

「朝霞......お前、大丈夫か」

「え?」

「ココ」

コンコン、と美輪は自分の頭を人差し指で二度と叩いて見せた。




アスファルトをかける足音と短く息を切らす音が何重にもなって聞こえる。言葉を発している余裕なんてない。ただひたすらに山道を走る。先頭に15人、自分のすぐ後ろに5人ほどが一列になって歩道を走る。進めば進むほど建物が低くなっていく。

神奈川にこんな自然があったのか──なんて思えたのは、ひとつ学年が上の先輩に連れられてこの道を初めて歩いて通った日だけだった。悠々たる自然に目を向ける余裕なんて微塵もない。


紅明高校野球部の練習は、1年生は毎日グラウンドまでの10キロラン二ングから始まる。

先頭を走る1年生は、御子柴翔(みこしばかける)。千葉のシニアで1番センターを守っていた俊足の外野手だ。

「おいおい、御子柴のやつ最近どんどんペースが上がって来てるんじゃねえか」

すぐ後ろで、寮での部屋割りが同室の迫田徹さこたとおるが嘆いた。だいぶ息が上がっているのだろう、まだ言葉を発する余裕はあるそうだが、その声はだいぶ苦しそうだ。

「御子柴は、中学の頃は800m走で関東記録を更新してるんだぜ。あいつにとっちゃこのくらいのペースで完走することなんか朝飯前なのさ」

「バケモンじゃねえか。てか澄人、まさかお前も朝飯前とか思っちゃいないだろうな」

「んなわけあるか、クソきちいよ」

「安心したぜ、そういえば澄人」

「お前もう話しかけんな!体力が削られるだろ」

紅明高校の練習がこんなに過酷なものだとは知らなかった。体験入部という名のセレクションに受かってから入学するまで、澄人は黒田と一緒に体力づくりに勤しんできた。紅明高校の練習についていけるように、同期を一歩でも出し抜けるように。アップ程度で息が上がらないように。

それなのに。

「想像以上だ......」

グラウンドに到着した澄人は、その場に立ち止まり膝に手をついた。周りの1年生もほとんどが同じような状況で呼吸を整えたり水を飲んだりしている。1週間経ってもこのアップに慣れない。慣れないどころか、御子柴が最初よりペースを上げるせいで日に日にきつくなっている気さえする。

立ったまま地面と向き合うように膝に手をついて呼吸を整える澄人の視界に、細い足首が現れた。

「水くらい飲めよ」

見上げると美輪斗馬が紙コップをふたつ持っている。

なんて涼しそうな顔してやがるんだ。

「......ありがと」

澄人はひとこと礼を伝えると顔を上げ、受け取った紙コップの水を一気飲みした。

10キロラン二ングのあとは、高校野球界の一流選手が集う紅明高校と言えど、非常に基本を大切にする練習が始まる。

体全体を使ったダッシュ、時間をかけて肩をならすキャッチボール、体の中心で打球を捉えるためのトスバッティング。どれもこれも、中学時代、美輪や黒田と一緒に所属していたシニアで経験してきた練習内容だった。

「うわ、わりい」

「ちくしょう、どこ打ってんだよ」

澄人が打ったボールはペアである迫田が精一杯腕を伸ばしても届かないほど横に逸れ、迫田はボールを追いかけて芝生の方へかけていく。

澄人は周りの上級生の動きをぐるりと見渡した。

ワンバウンドで相手にまっすぐ打球を返すトスバッティングひとつとっても、やはり上級生は格が違う。

“すべての好プレーは基本の上に成り立っている"

野球に限らず、どんなスポーツにおいてもよく聞く言葉だ。

甲子園で大活躍の紅明の選手たちが普段は基本に忠実な練習に徹しており、またその基本を正確にやってのける能力を見れば、この言葉が真実であることは自明だった。

「次はまっすぐ打てよ」

ボールを片手に迫田が戻ってきた。

基本に忠実に、ボールは体の正面で捉える。澄人は心の中で野球の教えを反芻する。

キィン。

軽い金属音が響く。ボールは──。

「だから、どこ打ってんだよ!」

またも迫田の遥か右サイドを通り抜けていった。バッティングにおいて、どうやら自分は基本の「き」すら程遠いらしい。

基礎練習が終わると今度はひたすら打撃練習に入る。150キロオーバーを計測するバッティングマシーンがズラリとグラウンドに並べられ、それぞれ対角線上にホームベース、その後ろにバックネットが運ばれる。

ここから毎日3時間、3年生から1年生までの60名の選手がローテーションで打撃練習をするのだ。

打席に入ってない選手は何をするのかって? もちろん黙って指をくわえながら外野の方で「さぁ、こい」などと叫んだりしない。素振り、ウエイトトレーニング、坂ダッシュ。すべての時間を有効に使い、限界まで己を酷使するのだ。

「く、黒田......お前、そんなの持てるのかよ」

ウエイト道具がズラリと並ぶ室内練習場。

35キロの鉄の重りを左右につけたバーベルを持ってきた黒田に澄人は驚愕した。

「ああ、一昨日60キロでやったとき、もう少しいける気がしたからね」

黒田はさらりと言い退け、仰向けでベンチに寝転がる。

あまりにも身近な存在で忘れかけていたが、同じ1年生では美輪だけじゃなく黒田もバケモノだった。ひと学年に数人しかいない特待生組の中でも黒田は、美輪に匹敵する天才なのだ。中学時代にはあの清原の再来とまで言われた黒田は、色白で端正な顔立ちには似合わない軍人のような筋肉のつき方をしている。

コイツはきっとここを卒業する頃には、子どもの頃観た『ターミネーター2』のアーノルド・シュワルツェネッガーのような肉体になってるんだろうな……。

頭上でバーベルを上げ下げするベンチプレスに勤しむ黒田を横目に、澄人も自身のウエイトトレーニングを再開した。



打撃練習とウエイトトレーニングが終わったあとは、選手たちはライトをつけての守備練習に入る一方で、この間投手人は、学年関係なく平等に投球練習をする。

神奈川県大会や甲子園を沸かせる主力投手陣以外の投手陣、入部したての澄人でさえ投球練習の場がしっかりと与えられるのは、未来の主戦力を現在の主戦力と並行して育てるという前澤監督の哲学が反映されていた。それが上の代が引退したあとも、紅明高校が勝ち続けられる理由となっているのだ。

「よし、ベンチ入りメンバー以外の投手はポール間ダッシュだ」

しかし紅明高校が抱える10人の投手陣が平等に投球機会こそ与えられてはいても、平等な投球数と指導を受けることはできない。

元DeNA投手であり現在は紅明の投手コーチである萩元の指示に、6人の「ベンチ外投手」が返事をする。もちろんその中には新入部員の澄人とそれから美輪も含まれていた。

全体で30分程度投球練習をしてからは、ベンチ外メンバーは投手としての体づくりのメニューに回されるのだ。主力メンバーは投げ込みを続け、その後実践を踏まえた投球練習に移る。

俺ももう少し投げたいな。

そう思っているのは澄人だけではないはずだが、しかし紅明のキャッチャーはピッチャーの数ほどいない。

他の高校に行けば1年生の頃から即戦力のような投手もここに来れば平気で5番手、6番手である。澄人も含め、主力でない彼らは言われぬもどかしさを抱えながら、ブルペンから一足上がり、主力投手陣になることを夢見てひたすらに走るしかないのだ。

しかし、入部してから2週間。この日、萩元コーチはいつもと違う指示を出した。

「待て、美輪」

他のベンチ外メンバーと一緒にポール間ダッシュに向かおうとする美輪を、萩元は呼び止めたのだ。

上下関係という言葉を知らない美輪は、「はぁ」とマヌケな返事で振り返る。しかし萩元は美輪のこの態度については一切触れず、続けた。

「お前は今日からベンチ入りメンバーと同じ投手メニューだ。あと30球は投げ込みなさい」

その言葉に驚いたのは美輪だけではない。夏の大会の前哨戦である春季大会。そのベンチ入りメンバーがつい2日前に発表されていたからだ。もちろん、入部から2週間の1年生で名前を呼ばれたものなどいない。あの美輪でさえ、ベンチ入り18人の中に入ってはいなかった。美輪はまだ、こっち側の人間だったのだ。

萩元の言葉の真意がわからないまま困惑する投手陣の中、ご通達を受けた美輪は怪しく笑う。

「それって、春季大会のベンチメンバーに入れてもらえるかもしれないってことですか?」

バカ、なんてことを。

澄人は恐る恐るブルペンに残る紅明の主力投手陣──つまりベンチ入りをもぎ取った先輩たちの顔を伺った。さすが天下の紅明、後輩の挑発に乗っかるような安い真似はしないものの、その顔にはやはり美輪の発言を面白く思わない微妙な表情を浮かべている。

「調子にのるな。お前に春の大会はない」

萩元は言い切った。その言葉に、美輪以外の全員がホッとする。特にベンチメンバーに選ばれた先輩投手陣は、さっきの萩元コーチの発言にはさぞ肝が冷える思いをしただろう。

「春は、ダメなのね」

「春はな、そのあとはお前次第だ」

萩元コーチの言葉に、再び主力投手陣が困惑の表情を見せる。

当の本人はその状況を可笑しそうに、一度離れたマウンドの方へ歩みを進めた。

明らかにアウェーだ。

それでも澄人は、美輪に同情する気なんか微塵も起きなかった。

美輪がブルペンに戻ったのを確認してすぐに、未だ困惑気味のベンチ外メンバーの横を通り抜けて澄人はズンズンと歩き出す。

「おい、朝霞。どこ行くんだよ」

同じ1年投手が問う。

「ポール間ダッシュだよ! 一秒入魂、紅明のモットーどおり動いてるだけだ」

先輩後輩が混在するベンチ外の投手メンバーに向かって、澄人は声を荒げた。

萩元コーチは基本、投手の技術面についてのみ指導する。誰を起用するのか、誰をベンチ入りさせるのか、具体的な指揮は選手の能力や試合の調子を見て前澤監督が決めているのだ。

ポール間をダッシュしながら、澄人は考えていた。

美輪が1年で唯一、ベンチ入りメンバーと一緒に投球練習をする。それがつまり何を指しているのか。

夏の大会だ。

前澤監督は、夏の大会に向けて、美輪を育てる気なんだ。

「おい、朝霞!タイム落ちてるぞ!」

ちくしょう。

ポール間を走りながら澄人は唇を噛んだ。

ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう。

4月の夜の風が、汗にまみれた澄人頬を冷たく掠める。

美輪、またお前のひとり舞台にさせてたまるか。俺がいることを忘れるな、最後にエースナンバーを奪うのはお前じゃなくて俺だってことを忘れるな。


大浴場に白い湯煙が立ち込める。高級旅館のような綺麗で露天風呂つきの温泉が、日々過酷な練習メニューをこなす野球部員の唯一の癒しだ。

ゆっくり浸かろう、少しでもゆっくり浸かって明日に疲れを残さないようにするんだ。ここで長く生きていくためには、少しでもストレスや疲労から離れた方がいい。

澄人は談笑する先輩や同期たちとは少し距離をとった大浴場の隅の方で、ゆっくりと腰を下ろし、瞼を閉じる。けれどまだ3分も浸かってない頃、すぐ横で水が小さく跳ねる音を聞いた。それは美輪と同室の御子柴が、その引き締まった体を水面に沈めた音だった。

閉じた瞼を開けると、夏の日焼けがまだ薄く残ったままの色黒の男が、「おつかれさん」と爽やかに笑った。

「御子柴……お前、いい体してんな」

澄人の発言に御子柴は吹き出す。

「お前は、可愛い顔して言うことがまるで親父みたいだな」

女子にも言われたことないぜ、とわざとらしく距離を置いてみせる御子柴に、こちらも自然と顔が綻ぶ。

「中学の頃から鍛えてたの?」

「ああ、ウエイトトレーニングは中学の頃からやってたな。あんまり重い筋肉をつけすぎても速く走れないからバランスを見ながら」

「さすが800メートルの記録保持者だな」

「大したことねえよ」

「陸上の方を続けようとは思わなかったの?」

「向いている方を選びたかったんだ」

御子柴の言葉に澄人は首を傾げる。向いている方? だったらお前はどっちも向いているだろう。中学時代、御子柴は野球で15歳以下の日本代表選手に選ばれるほどの名外野手だったが、彼が高く評価されていたのは打球の落下点に誰よりも速く追いつき、豹のように塁間を駆け回るその俊足だったのだ。

「御子柴は、高校陸上でも絶対にすごい記録を残していたと思うけど」

「ああ、ちがうんだ、そうじゃない」

御子柴はゴツゴツした厚みのある手をグーにして、鍛えられた自身の胸をトントンと叩いた。

「向いているっていうのは、ココがさ」

胸、心臓がある場所にあるのは、心だ。御子柴は恥ずかしそうに短髪の頭を掻いた。身体中がじんわりと温かくなるのを感じる、湯船に浸かりすぎたのだろうか。それでも澄人はもう少し、御子柴と話していたかった。この桁違いに足の速い黒豹の見る世界を、もう少し一緒に覗いてみたくなったのだ。

気づけば周りにいた部員たちも数少なくなっていた。そろそろ上がろうか。澄人は湯船から腰を上げた、そのとき、カララ、と大浴場の扉が開いた。

御子柴とは打って変わって薄く肉のない白い肌の少年が、タオルを一枚持って大浴場のマットに立っている。

美輪の髪は、これから湯船に浸かろうというのに既に濡れていた。

「お前、どこ行ってたんだよ。夕飯終わってからずっと部屋にいなかっただろ」

同室の御子柴の言葉に「ポール間ダッシュ」とぶっきらぼうに答えて、美輪は大浴場の石畳の上を歩き、シャワー台のシャワー蛇口を捻った。

走り込み?夕飯を食べてから今までずっと、まだ練習場にいたというのか。これまで2週間、美輪はそのような行動はしていなかったはずだ。悔しいが美輪はその細足のどこにそんな力があるのか分からないほど、脚が速い、少なくとも1年の投手陣よりはかなり速いのだ。それなのにどうして急に練習が終わってからの走り込みなんか……。

澄人はハッとした。

そうだ。コイツは今日から、主力投手陣に混ざって投球練習をしていたから、俺ら主力外投手陣より走り込んでいないんだ。

美輪は、中学生になりたての頃から一級品の投手としての頭角を現してきたが、脚力やスタミナに関しては卒業する頃も普通の中学生並だった。体の使い方が抜群に上手いが故にスピードボールを放ることができるが、球にイマイチ重さがない。本人もそれを気にして中学時代は誰よりも走り込んでいたが、中学3年生の夏の大会で膝を痛めてからは、脚に負荷をかけるトレーニングは極力さけていたことを、元チームメイトの澄人はよく知っていた。

高校球児らしからぬ襟足まで伸びた茶色の髪がシャワーの水に濡れ少し暗い色に変わる。アメリカ育ちで風呂文化のない美輪は、湯船に浸かりたがらない。それどころか風呂椅子に座ることなく、立ったまま、走り込みによる汗で濡れた髪を洗い始めた。

その様子を黙って見つめる澄人の横で、御子柴がポツリと呟いた。

「たぶん、ああいうやつが、プロになるんだよな」

御子柴は美輪を称賛しただけであって、決して誰かと比較したわけじゃない。 それなのにどうしてこんなに胸が痛いんだろう。澄人は肩まで浸かった湯船に鼻先まで頭を沈めた。彼の鼻から出る小さな気泡が、言葉にできない澄人の対抗心をささやかに表していた。


「ん、澄人。お前そのカッコ、どっか行くのかよ」

風呂上がり、ジャージの上からウィンドブレーカーを被った澄人に、同室の迫田は二段ベッドに寝転がったまま不思議そうな顔をした。

「外だよ」

「外ぉ? うちは夜間の外出禁止だぜ。つってもこの辺り、横浜だと思えないくらい山奥だからコンビニくらいしか行くとこないけど」

「コンビニまでも4キロあるしな」

そう言ってグローブ袋を持った澄人に、迫田は目の前の少年の思惑に感づき、それから驚いたような顔を見せる。

「おいおい、風呂上がりだろ? 体が冷えて風邪ひくぜ」

「かもな(笑)」

パタン、とドアが閉まって澄人が出て行った8畳一間の空間の中、迫田の声だけが静かに響く。

「ここは困るね、野球バカばっかりで」

迫田の二段ベットには、中学の頃の監督からもらった野球本が数冊積まれてある。迫田はその一冊に手を伸ばし、ペラペラとページをめくり始めた。


あいつ、何してるかな。

寮の廊下を歩く澄人は、ジャージのポケットからケータイ電話を取り出した。時刻は22時30分を回ろうとしていた。

今さらだけど、遅いよな……。

廊下を歩く、足が止まる。やはり部屋に戻ろうか。いや、でも。

廊下を右往左往する澄人の横を、先輩や他の1年先の集団が不思議そうな顔で通り過ぎていく。

「なにしてんの?」

背後からの声に、肩が跳ねる。野球部の厳つさとは程遠い、どこか女性らしさすら感じる艶やかな声を、澄人はよく知っていた。

「風呂上がるの早くないか、美輪」

思わず手に持っているグローブ袋を背中の方に隠す。後ろめたいことはない、ただ反射的にそうしてしまったのだ。

「浸かってないからな」

「疲れもとれないぜ」

「あいにく俺はお前と違って繊細なんでね。15分も浸かるとふやけちまうのさ」

「はは、それアメリカンジョーク?」

美輪は、澄人の格好を上から下まで見る。

「自販にでも行くのか? なら、俺にも無糖のストレートティーをひとつ」

「行かねえよ、なにちゃっかりパシろうとしてんだよ」

「なんだよ。てっきり外に行くのかと思ったぜ」

「俺は、ただ、黒田に課題のわかんないところを聞こうと」

背中に隠したグローブ袋を握りしめながら、苦し紛れに嘘をついた。

「黒田? その格好で?」

「悪いかよ。もういいだろ、お前も早く部屋戻れよ」

「ふうん、ウィンドブレーカーで勉強会ね」

しつこいな。眉をひそめる澄人とは対照的に美輪はなにが可笑しいのやら、ははは、と声を上げたあと、ニッコリと笑った。

「黒田は学習室。あいつはいつもそこでお勉強してるぜ」

それから、

「じゃあ、お勉強頑張れよ。入学テストの数学が36点の朝霞澄人くん」とたっぷりの嫌味を残して、美輪は自室の方へ歩いて行ったのだった。


シンプルな灰色のトレーナー姿の少年が、誰もいない学習室の机で素っ頓狂な声を上げた。

「今から!?」

「ああ、その、無理ならいいんだけど……」

澄人はグローブ袋を机の上に置き、黒田の座る席のすぐ隣に腰を下ろした。黒田もまた、握っていたシャープペンシルを机の上に置く。

やっぱり無理かな。澄人の心に暗い雲が差し掛かる。

「そんな顔するなよ。驚いただけさ、まさか『今からピッチング練習に付き合ってくれ』なんて言われると思ってなかったから」

澄人は気まずそうに俯いた。

「それにしても、どうして急に?」

澄人は学習室にかかっている時計を見た。時刻は22時32分、テレビの野球中継もとっくに終わっている時間である。

「中学生の頃はさ、投球練習なんていつでもできるって思ってたんだ」

澄人はゆっくり、自分の気持ちを話し始めた。

「シニアの練習は週に4回だったし、日が暮れる頃には練習は終わっていたし、だからそれ以外の時間でいつでも好きな練習ができた」

「ああ、そうだね。もう懐かしいな、あの河川敷。最後にあそこで君のボールを受けたのはたった2週間前のことなのに、遠い昔のようだ」

あの河川敷というのは、澄人が紅明高校野球部のセレクションの合格通知を電話で受けた、鶴見川の河川敷を指していた。川を挟んだ先の住宅の景色は時とともに少しずつその様子を変えていったが、澄人と黒田が小学生の頃からずっと河川敷のにかかる黄色い橋下の支柱をバックネットがわりに投球練習をしていたという事実だけは、小学生時代からつい2週間前まで変わらなかった。

「好きなときに投げられて、好きなときに終えられた。あのときは」

時計が秒針を刻む音が、周りの色に意識が集中しないからだろうか、無機質な白の部屋ではやけに鮮明に聞こえる。澄人は続けた。

「でも今はちがう。毎日8時半前に寮を出て授業を受け、15時から21時まで練習をし、夕飯、風呂を終えたら22時半。くたにくたになって眠りにつく。毎日6時間の練習の間の投球練習時間は30分、それは俺が1年生だからじゃない、紅明高校の主力投手陣じゃないからだ」

澄人は、一緒にポール間ダッシュをする上級生の投手陣を思い出した。

「紅明高校には10人の投手がいて、その中で満足に投球練習ができるのは主力投手陣だけだ。学年は関係ない、能力のあるやつが、実践練習、公式戦で投手として経験を積むことができる。けれど、能力のない奴はその舞台にすら立たせてもらえないのさ」

「それはキャッチャーの僕も痛感しているよ」

「機会を与えられない先輩たちはこう思ったりもするだろう。『ああ、もっと自由な練習時間があれば。夕飯を食べ終わる時間が太陽が沈む時間だったら。そうすれば自分も投球練習ができるのに』。でも現実はそうじゃない、練習が終わる頃には毎日くたくたで、時計の短い針は9を指している」

澄人は顔を上げた。

「このままみんなと同じ練習だけをしていたら、俺はベンチ入りすらできない。残っているわずかな時間で、一歩でも二歩でも先に行かないとダメなんだ」

「だからこんな時間に、投球練習に付き合ってくれって言ったんだね」

黒田はその長い指を顎に手を当て、黒く長いまつ毛を少し伏せた。迷っている、澄人は黒田の表情から察した。今の話を聞いて、頭のいい黒田はおそらくこれが一度きりのお願いだとは思っていないだろう。週3、いや4は投球練習の相手をしてほしいという澄人の考えを理解しているからこそ、黒田は悩んでいるのだ。

机の上には、数学の問題集と解答が途中まで書かれてあるノートが広がっている。テストも近くない4月の下旬に、黒田がこんなふうに勉強に勤しむ理由を澄人はよく心得ていた。「紅明の野球部、許してもらえたよ!」「ほんとうか!よかった、ああよかった。そうだよ、お前が大人しく医者になるなんて似合わないよ」「でもひとつ、条件を出されたんだ。成績を落とさないこと、進学クラスに入ること。それが親から出された、僕が高校で野球をやる条件だ」

紅明に特待生が決まったとき、黒田の口からこんな話を聞いたことは忘れていない。医者家系の黒田の家は、息子の野球の才能を決して軽んじていたわけではなかったが、野球だけやっていればいいという方針ではなかった。

黒田のノートを目の前にして、澄人の胸はズキズキと痛んだ。

あの練習のあと、毎日こうやって机に向き合ってんのか。野球だけやっていればいいという考えの俺とは違って、黒田は限られた時間で野球以外のこともやらないといけない。

自分より制約された環境下で野球に食らいつく親友を、己の独りよがりで邪魔していいものなのか。なかなか言葉発しない黒田に、澄人はすでに自分のした提案を後悔し始めていた。

「夜は、付き合えない」

ごめん、と黒田は頭を下げた。

「君の頼みなのに、聞いてやれなくて本当にごめん」

「いや、いいんだ、俺のわがままだ。こっちこそ、お前の事情をわかってるくせに無茶なお願いをした」

悪かった。立ち上がり、澄人はもう一度謝ろうとした。しかし、黒田の方が早かった。

「夜は無理だけど、朝はできる!」

「朝……?」

「そうだ、朝に投球練習をするんだ。僕はいつも12時に就寝するから5時起きとかはさすがにキツイけど。でも君が5時半からアップして、僕が6時半に屋外ブルペンに向かう、30分投球練習をしたあとにシャワーを浴びれば、7時半の朝食時間には間に合うさ」

「義光、お前いいのか」

突然の提案に戸惑う澄人に、黒田は「どうかな? 君が、早起きになっちゃうけど……」と遠慮がちに聞いた。

さっきまで、無理なら仕方ない、シャドウピッチングでもしよう。ひとりでもできることはある。そう思っていたのに。

「早起きなんていくらでもしてやるよ。5時でも4時でも、いくらでも」

「すっぽかしたら承知しないからな」



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