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透明な甲子園  作者: ミキ
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スタートライン

鶴見川の河川敷にかかる黄色い橋の下、支柱に寄りかかるようにしてひとりの少年が立っている。その数十メートル先の向こうからエナメルバッグを肩から下げ野球のユニフォーム姿の少年が歩いてくるのに気づき、橋の下の少年は右手をあげた。

「体験入部おつかれ、澄人」

澄人、と呼ばれた少年は肩から下げたエナメルバッグを地面に降ろし、ふたりは河川敷の傾斜になっているコンクリートの部分に腰を下ろした。山に落ちる夕日の色が反射して、目の前の水面がキラキラとオレンジ色に光る。

澄人はそこに向かって、小石をひとつ投げた。

一瞬水面が跳ね川の形が歪になったが、すぐに何事もなかったようにながらかな表面に戻る。

「義光。俺、落ちたかもしれない」

何に落ちたのか。それはつい先ほどまで澄人が受けていた、私立紅明高校野球部の入部試験を指していた。紅明高校は神奈川県内では甲子園出場回数最多を誇る野球の名門校で、野球部は一般入部ができない。ほとんどの選手が監督からのスカウトを受け推薦で入部し、全体の2割に満たないほどの選手たちが体験入部という名の入部試験、つまり、セレクションを通過して入部することができる。

ユニフォーム姿の澄人は、その入部試験を受けてきた帰りだった。

「いつもの調子を出せなかったのかい?」

落ち込む澄人をなだめるように、隣に座る黒田義光が優しい声色で問う。

「いや、調子はよかったさ。投球テストでも、お前と練習してきた通りの実力を出せたと思う」

幼馴染であり、同じシニアチームのチームメイトである黒田義光は、小学生の頃からの澄人の練習相手だ。今年の夏に引退したシニアでは強豪校の3番手投手だった澄人は、公式戦ではほとんど出番はなかったものの、エース以上に投げてきた自負があった。

「緊張したけど、本調子で投げれたのは、引退した後もずっと、この河川敷で練習に付き合ってくれた義光のおかげだよ」

一方で、超中学生級スラッガーであり、関東1・2を争う強肩の持ち主である黒田は、今年の春の段階で既に特待生で紅明高校に入学することが決まっていた。けれども黒田は普段の練習だけじゃなく、オフの日は必ず澄人の投球練習に付き合ってきたのだ。紅明高校野球部に推薦が決まる前から、そして決まった後も変わらず、ずっと。

それなのに、俺は。

澄人は唇を噛み締めた。つい先ほどの投球テストでの出来事を思い出す。紅明高校の監督、前澤仁が打席に立って、体験入部生の投手候補が、受けた投手テストのことを。

「5球しか投げられなかったんだ」

握りしめた拳が小刻みに震える。震えていたのは拳だけではない、その声もまた力なく震えていた。

「他の投手陣は10球は投げさせてもらっていたのに、俺は5球。5球投げたところで、『もう、いい』と言われた」

思い出す、バッターボックスに立った前澤監督が、6球目のモーションに入ろうとした俺を止めたときの言葉を。「朝霞くん、君の能力は十分わかったよ」。あの人はそう言った。そう言って、俺をマウンドから優しく降ろした。

そこからの記憶はあんまりない。どうやって練習が終わって、どうやってここまで来たのかも。あのとき頭が真っ白になってしまったのだ。

そして今、じわじわと襲ってきた不甲斐なさに澄人はうな垂れる他なかった。

「体験入部には50人以上の中学生が来てたんだ。神奈川、東京、千葉、埼玉…東北や関西から来ていたやつも数人だけどいたかな」

黒田は黙って、朝霞の言葉に耳を傾ける。

「そりゃ、美輪とかお前みたいな奴はいなかったけど、でもやっぱり紅明を受けようってだけあって、みんな上手かったんじゃないかな。投手テストに参加したのが8人だったんだけど、ひとり、大阪から来ていたやつで140キロ近く投げるやつがいたんだ。美輪の方がよほど速く感じたけど、俺とは球の勢いも全然ちがってて。そいつは俺のひとつ前に投げたんだけど、もしかしたら前澤監督の心は、俺が投げる前から決まっていたのかもしれない」

「そんなことは」

黒田は思わず反論した。

「澄人、君の投球を見て、何も思わない指導者なんていないよ。168センチの君が、130キロのストレートを投げることができる──その上にどんな努力があったのか、想像しない指導者はいない。そんなことは、君の鍛えられた下半身を見れば、誰でもわかることさ」  

絶望の中に差す一筋の光、それはいつも黒田の言葉だったように思う。

「結果がわかってから落ちこもう、どうするべきかはその後に考えればいいさ」。中学時代、名門シニアに所属していた頃、幾度となく感じたベンチ入りの不安を前に、いやもっと言ってしまえば、自分の野球能力に対する不安を前に、何度黒田の言葉に救われただろう。「いいかい澄人。君が感じている不安は、何も悪いことじゃない。不安というのは勝算があるときに持つものさ。本当に絶望的な状況下で人は勝算を持つことはできない。つまり君が今感じている不安は、君にはまだ可能性があることを指しているんだ。だったら今、君がやることはひとつだろう? 誰の言葉なのかって。セーレン・キルケゴール、哲学者さ」。

顔を上げると、黒田の真剣な瞳と視線がぶつかる。

「前澤監督や紅明のコーチ陣は、きっと君のピッチングをちゃんと見ていたよ。決して君の能力が、他の投手と劣るという理由で、マウンドを降ろさせたわけじゃない」

美輪という天才投手の正捕手を務めながら今日まで、澄人の投球練習に嫌な顔ひとつせず付き合ってきた黒田の言葉には、妙な説得力があった。

「……そうかな」

「そうとも!」

力強い返事が返ってくる。

「君は今日までよくやったさ。12歳のときに僕と一緒にシニアに入ってから、球速は20キロアップしたし、変化球も一つ覚えた」

「最初から最後まで3番手投手だったけどな」

「そんなふうに言うなよ。その3番手投手が、全国大会で完封しちゃったんじゃないか」

「初戦だったけどな」

「めんどくさい奴だな」

呆れたように言う黒田とは対照的に、照れ臭そうに澄人は鼻の下を指でなぞった。

「ありがとな、義光」

さっきまで泣きべそをかきそうだった少年はもういなかった。夕日のせいだろうか、朝霞澄人の顔にはいつもの血色の良い色が戻っているように感じた黒田は、ホッとしたように微笑んだ。

「よし、義光!今からキャッチボールしようぜ」

いつまでも終わったことをくよくよしても仕方ない。

澄人は、腰を上げた。

「今からって、君、練習帰りだろう?」

つられるようにして、黒田も立ち上がる。

「あのくらいの練習じゃ、へばんないよ。それに、もし紅明にはいれなかったら、俺がお前や美輪を抑えられるような投手にならないといけないからな」

澄人の言葉に黒田は一瞬、驚いたような顔を見せた。それから、すぐに笑んだ。

「やっぱり、君はそうでなきゃ」

そのときだった、澄人の右ポケットが電子音を発したのは。小刻みに振動する右ポケットから澄人は、ケータイ電話を取り出した。

「誰からだい?」

「さぁ……知らない番号だ」

通話ボタンを押す。

もしもし、朝霞澄人くんですか。と言う知らない声、大人の男の声だ。

「はい、朝霞澄人ですけど、どちらさま」

澄人が言い終わるのを待たずして男は、名乗った。前澤です、紅明高校監督の前澤仁です、と。

この世に神様がいるのなら、きっとそれは野球帽にユニフォーム姿をしているに違いない。

電話を持つ、澄人の手が震えた。

「はい…はい…!」

一体何が起こっているのかわからない黒田は、訝しげな顔で興奮気味に電話越しの相手に返事をする澄人の様子を見つめている。

「ありがとうございます!失礼します」という挨拶を最後に、1分程度の会話を終えた澄人はゆっくりケータイを耳から離し、通話終了ボタンを押した。

「誰からだったの?」

「……受かった」

「え?」

放心したように呟く澄人に、黒田は聞き返した。すると澄人は瞳孔を開いてもう一度、今度は先ほどよりも大きい声で言った。

「受かっちゃったんだよ、紅明高校の野球部に!」


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