運動会の宿題
あんなに朝になるなと願ったのに、カーテンの外は仄かに明るい。私は神と太陽を恨んだ。
どんなに祈ってもこれは現実で、残酷に時計は時を刻み、それでも私は抵抗して布団を被った。
どれだけ耐えただろう。遂に母の足音が聞こえる。
コンコンとノック音。
母は遠慮深くドアを開け、
「詩織ちゃん?」
と私の名を呼んだ。が、私はそれを無視した。
「起きないの?」
反抗。動くのを我慢。
「今日の朝ご飯、フレンチトーストよ」
くそっ、卑怯だ。食べたい。
「結構上手くいったんだけど」
限界だ。折角上手くいったのなら母を悲しませたくないし、好物を食べないのは惜しい。
私は無言で布団を捲った。母はほっと息を漏らした。
「良かった生きてた。お弁当も頑張って作りようよ~」
作りようよ、とは、作っているところだという意味の方言で、父の故郷の言葉だ。いつからか母はそれを使うようになったようで、父もその方が情緒があると感じるらしい。
朝食を食べる前に、私は両親の寝室に行って、ベッドの中の父に話しかけた。父は朝寝をするのが好きなのだ。
「お父さん、おはよう」
「ん~」
「お父さん、走るの速かった?」
「速くはなかったなあ。運動会、嫌いだった」
私は期待以上の答えを聞けてにんまりした。
徒競走は例年通り可もなく不可もない順位で、私は大した感情も顔に出さずに自分の順位が書かれた旗の後ろに座った。やっとプログラムの真ん中かあ、と思いながら移動し、見慣れた我が家のシートの上で家族3人重箱をつつき、そして―――
事件は起こった。
おかしいと思ったのだ。いつももりもり食べる母が今日の昼食は控えめだったから。いや、もっと前から、母は随分日焼けしていた。
午後の最初のプログラムは、保護者によるリレーだった。そして緊張しているのか真剣な顔でフィールドにいるのは、我が母ではないか。それも紅一点ではないか。あれほど普段運動しない父兄が昔のように動けるつもりで参加すると危険だとテレビで報道しているのに、母は大丈夫なのだろうか。
負けず嫌いなのは知っているが、兎に角転ばないように、怪我をしないように祈った。母はオリンピック選手の真似かと思われるような準備運動をしている。
事もあろうに奴はアンカーだった。こちらの心臓がもたないほどにバクバクする。アンカーの独り手前にバトンが渡った。自分の心音が五月蝿いほどに聞こえ、手には汗が滲む。母の目付きも鋭く、彼女は徐々にリードを始めた。その足腰の姿勢、右手の出し方は、練習したのか、昔取った杵柄か。少なくともリレーを一度も走ったことがない私にはできない芸当なので、目が覚める思いだった。
バトンは無事渡った。前の走者は崩れ落ちたが当然目もくれずに彼女は駆ける。
速い。彼女は15メートルは離れていたであろう前の走者を追い上げた。声援が盛り上がった。
惜しくも彼女は順位を上げることは出来なかったが、周りが
「詩織ちゃんのお母さん足速いねえ」
と声を掛けてくる。少し恨めしい。
「詩織ちゃんのお母さん、朝公園で練習してたんだもんね」
私は母の躾を忘れて思わず
「は!?」
と言い返した。
「あれ、内緒だったのかな?うちのお父さん家出るの6時なのに、毎朝詩織ちゃんのお母さんが公園でダッシュしてるって」
ダッシュってお母さん、あなた40歳なのよ。引き締まった小麦色のふくらはぎしてますけど。
最早母と比べるのは諦めて自慢するか、母に足が速くなる秘訣を聞くか。来年の運動会までに考えよう。