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宵闇の下に一層暗く佇む廃工場、その扉の前に招かれざる客が二人。
二人はその闇の傍で隠しきれない輝きを放っていた。
それもそのはず、彼らは神の使いぱしり、言ってしまえば肉体を有した天使である。
その天使の中で男の姿をした方、つまりは向井は廃工場の中を覗いていた。
中はやはり静寂と暗闇に支配され、ぼんやりと伺えるのは人ほどの大きさの金属加工機械が左右に三つずつの計六つ。
あれは遮蔽物に使えるな、そんなことを向井は考える。
しかしネックなのは、工場故に大扉から応接室兼社長室まで何もない空間が空いていて身体を隠す場所が無いことか。
「そういえば白石、俺って銃の撃ち方とか知らないんだけど…これって引き金引けば撃てるんだよな?」
「ん、まだ埋め込まれた戦闘の知識が完全に解放されてないのね。説明するのも面倒だしポテトマッシャー使う?」
「使ったところでどうなるんだよ…」
そう文句を言いながらも向井はポテトマッシャーを受け取り、異変が起こる。
それは例えるなら、彼の脳内に潜む知識と記憶の海、そこに揺蕩う流氷が溶け出すような、そんな感じ。
凍結されていた記憶が解放され、自らに溶け込んでいく。
ポテトマッシャー、正式名称はM24型柄付手榴弾。二十世紀を代表する歩兵用兵器で先に詰まった大量の火薬による爆圧により相手を殺傷する。
有効範囲は半径10m、柄の先にある安全装置を外し、中にある紐を引っ張れば約五秒後に爆発する。
「おお…なんか思い出したわ。これの使い方知ってるぞ」
「よし、それじゃあ持ってるサブマシンガンは?」
「これはセレクターがアイコンだし銃床が伸縮式…MP5A5…かな?」
「うん、大丈夫そうね。さて…対象は悪魔の守護を得ているから中々死なない、さあ遠慮なくマッシュポテトにしておやり!」
「ヤヴォール!!」
向井はポテトマッシャーの柄の先から飛び出した紐を手首に巻きつけ、中田のいる社長室に投げつけた。
数秒の後、全てを揺るがす爆音とともに黒煙が大扉から吐き出される。
それは戦闘の合図、向井が生涯で一番恐怖した時間へのカウントダウン開始の合図である。
爆風によって巻き上げられた黒煙には人のシルエットが映し出されていた。
おそらく今回の対象である中田であろう。さすが悪魔の加護、本当に死んでいないようだ。
「やっぱりこれ位じゃ死なねえか…おい向井! お前は処女なんだから後方支援に回れ!」
「ヤヴォール!」
白石って引き金に指をかけると人が変わるんだな、そんな呑気なことを考えていた時、向井は本能的に命の危険を感じてしゃがんだ。
刹那、見るからにヤバそうな漆黒のレーザーが向井の頭スレスレに薙がれた。
そのビームは触れた箇所を音も無く消失させ、彼方へと飛んでいく。
射出源はあの人型のシルエット、未だ立ち込める黒煙の中から対象がゆっくりと現れた。
先程のポテトマッシャーのおかげで彼の服は所々破け、流血している。
しかし対象は痛そうだとか、辛そうだという表情を伺わせていなかった。彼の作る影だけが苦しそうに動いているのだ。
よく見なければ気付けない、だが一度気付くととてつもない違和感に向井は肩を震わせる。
「おい白石! なんだよ今のレーザーは!」
「あんなの雑魚中の雑魚なんだから少し黙れ! お前には予知能力があるんだから適当に隠れて適当に撃ってろ!」
そんな言い合いの中再びレーザーが飛翔し、向井と白石はそれぞれ左右の遮蔽物へと慌てて身を隠した。
「くっ…人外相手なんて聞いてないぜ、ああ悪魔が憑いてるから言われなくても人外なのか」
遮蔽物に背中を預けながら、向井は脳内で開放されていく知識を掘り起こしていく。
白石の言う通りあの対象に憑いている悪魔は低級もいいところだ。そのため人間の動きも完全には操れず動きが鈍い。
その欠点を補うため先程のような遠距離型の攻撃を備えるがネックはどれも射出に五秒ほど時間がかかる。
そして次は対象から見る未来だ。
対象は先ほどの場所から動かず、今から三秒後に座っている向井の盾に先程のレーザーを照射する。その隙をついて白石が遮蔽から飛び出し、正面から銃弾をぶち込むも死なない、こんな感じか。
「(俺も動かなきゃダメなパターンのやつか…まあ死んでも転生すれば…いやいや、どうすればこのピンチを乗り切れるんだ?)」
とりあえず自分が動かなければ行き着く先はまさにデッドエンド、ふと壁を見てみれば先ほどのレーザーで空いた穴があった。
自分に当たればああなるのか、嫌なことを想像して向井のサブマシンガンを握る手に一層の力がこもる。
「(とりあえず落ち着こう。まずは耳栓、そして畳まれた銃床を伸ばして、セレクターレバーを連射に合わせて、コッキングレバーを引いて、後は引き金を引くだけだ。
なるべく未来を変えないようにギリギリまで耐えて………よし!)」
向井は対象がレーザーを撃つよりも、そして白石が飛び出るよりも数十ミリ秒早く遮蔽物を転がるように飛び出した。
通常の人間にとっては誤差のような時間だが、彼は未来を覗ける超能力者だ。その誤差こそが計算され尽くした奇跡を生み出す。
飛び出した彼は全てを消し去る黒いレーザーを交わし、飛び出してきた白石に踏まれず彼女の足の間、長いスカートの下に腹ばいで滑り込み――二人同時に引き金を引いた。
その間およそ二秒、上下それぞれ三十発のうち半分近くが満遍なく全身にぶち込まれた対象は人間のものとも思えない、怒りとも苦痛ともとれる音を発しながら仰向けに崩れ落ちるも未だ死ななかった。
そんなことは百も承知な二人の次の行動は早い。
白石は歩きながらスカートを揺すり弾倉を床に落とし、それを予知していた向井は回避行動をとりながら弾倉をキャッチしてそれぞれが再び左右の遮蔽物へと身を隠す。
そんな最高の連携プレーにより対象が苦しみながらも放ったレーザーは虚空を貫いた。
「(体は案外着いてくるな。それにしても銃声は耳がぐわんぐわんする…次の相手の出方は………また俺の方にレーザーを撃ってきやがるのか…)」
ああ神よ、向井はそんなことを考えつつも記憶を掘り起こす。
人間に憑く悪魔は強弱を問わず、人間が一定以上の怪我を負うと身体の再生を始める。
それ故に攻撃の間隔は約二倍に広がり、先程よりも猶予ができる。
だがしかし彼の予知によれば対象は既に身体の再生を終え、立ち上がろうとしている。
向井は今にも飛び出しそうな白石を"待て"のハンドシグナルで呼び止めた。
"俺が正面に飛び出したら回り込め"
そんな指示に白石は、目つきのせいでただでさえ歪んでみえる顔をさらに歪めるも"了解"のサインを向井へ送った。
「(残り猶予は五秒ってところか。リリースボタンを押してマガジンを外して装着、後はさっきと同じ………今だ!)」
向井は今度も最高のタイミングで飛び出した。
遮蔽物に撃ち込まれるレーザーをギリギリで交わし、白石の囮として最高の役割を果たす。
右肩に銃床を、左手はハンドガードに、脇を締めて、なんて一々考えずに身体は勝手に衝撃を受け流す最善の構えをとり、そして引き金を引く。
向井が放つ9ミリパラベラム弾は対象の肩や脇腹、太腿に風穴を開け、その衝撃によって対象は再び後ろへと倒れこみ、そして――右方から回り込んできた白石による不意の鉛弾に頭を吹き飛ばされた。
ヘッドショットを食らった対象は再び動こうともせず、身体をだらしなく伸ばした。
戦闘の終わりを確認した向井は極限の緊張から解放され、腰を抜かしたようにその場にへたり込む。
「ふう………おい向井、良いもの見せてやるからこっちに来い」
対象の生死の確認をしていた白石に唐突に呼ばれ、向井はガタつく足で死体の元へ向かった。
「良いものってなんですか………あっ」
向井は死体を見てあることに気付く。
アパートから見えた腕の刺青や切り傷の後が消えていたのだ。
「刺青が消えたっていうことは、こいつが悪魔に憑かれてたって証拠だよ。それより…」
白石はそこまで言うとガタガタ震えている向井の足を思いっきり蹴飛ばして倒し、その胸を右足で押さえつける。
「お前、マガジン受け取る時に転がって仰向けになったよな。スカートの中見ただろ?」
「へ、み、見てないですよ?」
白石からの不意の質問に向井は身体を強張らせる。
どう答えればいいのだろうかと彼女の未来を探ろうとするもやはり覗けない。
そんな思考をする向井の顔がよほど面白いのか白石は口裂け女も真っ青な笑みを浮かべる。
「さあ、どう答えればいいか決まったかな向井君?」
「えーっと………その、意外に白かった、です」
「はい、よく言えました。そんな正直な子にはご褒美をあげないと、ね?」
「いやいや、そんな気を使わなくても…し、白石さん? なんでマガジンを交換してるのかな?」
その時が向井の人生で一番恐怖した時間の始まりだった。廃工場には余分な銃声がただひたすら響いた。
「やーおかえり二人とも、やっぱり雑魚相手だったから怪我はなさそうだね」
地神は相変わらず豪華な部屋に帰ってきた二人を呑気に迎え入れるも、反応を示したのは白石のみだった。
それもそのはず、彼の聴覚は、先程白石がサブマシンガンを耳元でぶっ放したことによりほぼゼロになっていた。
それをなんとなーく察した地神は向井の元へ歩いて彼の耳に手を当てる。
「ほら、これで聞こえるようになったか?」
「はい、ありがとうございます………じゃないですよ。なんですかあの化け物は?」
「白石ちゃんから聞いてないのか? あれは悪魔だよ」
「だから、悪魔ってなんですか?」
「うーん、まあそれを説明すると長くなるから、覚悟して聞けよ?」
本当に地神の話は長かった。さしずめ五時間、過度の恐怖と緊張により疲れた身体には辛いのだが自身から言い出したので中々それを切り出せなかった。
要約すると、地神曰く、神がいるんだから悪魔もいるだろ、ということであった。
だがその悪魔の定義がややこしい。
人間にとって悪い方向に働く力も悪魔だし、神様やその宗教が勝手に定義する悪魔もある。
でも悪魔はどちらにせよ悪い奴だし、出てきたら始末しておいた方がいーじゃん☆ということらしい。
それなら神様がやれよ、という話になるのだが、あくまで神様は天界にいて現世にいるのはその力の極々一部でしかないのだそうだ。だから人間に力を与えて人間によって始末しよう、そんな発想らしい。
と、たった数行で終わるのだが、どうして五時間もかかったかというと地神の長ーい長ーい昔話を聞かされていたからだ。
そんな地獄がようやく終わり、気づけば夜中になっていた。
「………というわけなんだけど、向井君さっきサインしたよね? あれって要は『私は悪魔と戦います』って誓約書なんだけど…」
「はーん、そうだったんですか。それより家帰って寝てもいいですかね、話なら明日聞くんで」
ようやく昔話が終わったので普通に地神の話を遮った向井。
この辺りで既に向井の心身は限界を迎えていた。どうでもいいから早く寝たいな、向井の頭にはそれしかない。
しかし、やはりそれも地神の仕掛けた原始的かつ巧妙な罠であった。
本来地神の話は「誓約書はサインして半日以内なら取り消せるよ」、と続くはずだった。
その反応を満足そうな顔で聞いた地神は言う、
「そんなに疲れたなら今日は私の家で寝ていくといい。空き部屋だけは多いんだ」
「えーっと、じゃあそうさせていただきます」
その返事に地神はニヤリと笑う。
「じゃあそういうことだから白石ちゃん適当に連れてってあげて…って寝てるし」
気がつけば向井に巻き込まれて昔話を延々と聞かされていた白石はソファの上で爆睡していた。
地神はため息を一つつくと、胸元からやはり名刺を取り出し、爆破する。
「は、はい地神さん! 何でしょう?」
「おねむな向井君を空き部屋に案内してやってくれ」
「空き部屋…例のアレですね?」
「そう、例のアレだ。よろしく頼んだぞ」
こうして向井は彼女らの策略にずぶずぶと引き摺り込まれていった。
その様はまるで蜘蛛の巣にかかった蝶のようである。