開眼、改訂版
戦闘シーンが気にいらなかったので書き直したバージョン。例によって内田先生のお世話になっている模様。
「これは、」
吐露された声は情けないほどに震えていた。鳩尾の辺りが強張り息を吐くのにさえ披露する。内臓が腹直筋の下で震え上がり、足は棒のように固まって動かない。
大蛇。
霧崎の目の前にいる蛇を端的な語句で評すればそれだけのことだが、明らかに「大」のスケールがちがう。まずもって胴回りがいかれている。例えるなら家庭用冷蔵庫、と言えば判りやすいだろうか。いやここは古典に習って松の老木だろう。
「……道成寺じゃねえんだぞ」
やっとこさ、絞り出した言葉がそれだった。
来る。
わざわざ見届けなくとも解るものがある。物事の予兆、人が怒る手前の空気しかり、足音だけで背後の人間の慌てぶりが判ってしまうという経験しかり、人間には目に見えない前触れを察知する力が存在する。その力は人間がまだ太古の闇と向かい合っていたころの名残。危機的状況を捉える野性的な直感ともいうべき力。
鎌首が高く持ち上げられる。本当に高かった。霧崎の身長の二倍は持ち上げられた。唯一の武器であるはず木刀の感触はとうの昔に消え失せている。
目の前の蛇が己を喰らうためだけに存在していることがようやく理解できた。
目を瞑る。
呼吸が止まる。
その時足の裏が感じ取ったものが何なのかは今をもって判らない。ただ経験したことをありのままに信じるのならば、大地が脈打って霧崎を放り投げたというより他にない。
闇の中から光の世界に出る時のように、霧崎は恐る恐る目を開く。
死んでない。そして、次が来る。
ゆっくりと蛇は鎌首を持ち上げた。遅々としたその動きは俊敏に走り逃げる獲物を追うためのもの、ではまさか無い。恐怖し、怯え、身を縮こませた食料を前にしたものだろう。
ゆっくりと、
ゆっくりと、
いたぶる様に蛇は霧崎と距離を詰めてくる。
「……うう、」
本当は全力で逃げ出したかった。ただ、その行為が、地を蹴り、転身し、加速するという行為が、高くもたげた大蛇の鎌首が霧崎に到達するよりも速いなどということは、あり得ないとわかっている。
だから動けないのだ。
早く動いても殺される。ゆっくり動いても瞬間的に蛇は反応するだろう。
ふと、緊張状態の霧崎の目の前を一匹の虫が横切った。蠅である。この世界では何と呼ばれているか知らないが、夏場によく現れては専用の器具で幾百の屍を晒していくあいつに他ならない。
(…蠅か、)
そう、蠅だ。
んん、
いや、
待てよ、そうか!
解った。
蠅は叩こうとすれば叩けない。何故なら蠅を追う「私の手」は一寸前の「蠅の影」を追うことになっているのだから。私の手は永遠に真実に到達することは無い。
これなら勝てると確信した。
だからつまり、
私が蠅になればいい。目の前の蛇に追わせればいいのだ。ただし、その対価は命。我が身を差し出すことがこの術の骨子である。
つん、と鼻の奥に独特の香りが咲く。血流が激しく流れ、筋肉は限界まで温められて、それでいて全身から無駄な力が消え、頭は病が落ちたかのように爽快だった。そうして、全ての準備を終えて覚醒した肉体でようやく霧崎は蛇を真正面に見据えられた。
黄色い眼光、深く裂けた咢は恐竜のそれを想起させるサイズで、霧崎の身など一口に飲み干たとしてもなんら疑問に思うところは無い。
ただし霧崎に脅えはない。もう、身を縮こまらせる必要など何処にもないのだ。
蛇の頭が落下する
前の、
その長胴の筋肉が収縮し、ゆるみを持つ
前の、
運動神経が筋肉に指令を与える
前の、
蛇の脳が霧崎を食うために想いを浮かべたその時を。
捉える。
まさにその時、追う者と追われる者の立場は逆転する。一連の流れ魚釣りによく似ていた。即ち、我が身を餌に敵との関係を逆転する。捕食されるものから、捕食させるものへと。これぞ死中に活を求めるということ。
我が身の横を赤褐色の蛇の鱗が流れていく。この今こそ攻撃の時。を感じたとき動作は既に完了しかけている。
刹那、霧崎が感じたものは圧倒的な力。大地から頭頂まで全身を満たし、上段に構えた木刀の切っ先から天に向かって迸る圧倒的な力の奔流。
振り下ろす。いや、違う。剣が俺を導き、身体が理を体現する。びしりと蛇の頭と胴の境目あたりに丁度一本、白い薄紙を差し込める程度の線が引かれる。
最後まで剣に導かれ、霧崎は全動作を完了する。木刀越しにごきょっ、と凄まじい感触が伝播してくるがまだ安心は出来ない。致命打を与えた感触はあったとはいえど、これほどの生命体がそう簡単に死ねるわけがないのだ。
命の尽きる最後の一瞬まで暴れ狂るう大蛇から、霧崎は即座に距離をとる。
「終わったな」
そうして約一時間が過ぎたころ、ようやく大蛇の狂乱は止み霧崎は安堵の息を吐いた。