深夜に・改訂版
書き直しました。恥ずかしいので。
霧崎九郎が剣を振り始めた理由は多々ある。それは例えば現実に対する逃避手段としての意味合いもあるだろうし、ただ単純に筋力を鍛えるためだったのかもしれない。
しかし、それは剣を振り続ける根源的な理由になりはしない。過酷な現実は眠りが癒す。筋力の養成はもっと効率のいい手段に替えられる。
何時だったか、ずっと昔のことだった気がする。
「剣の才能あるんじゃない」
この一言だ。
腕相撲が強くなったとか、気配を察知出来るようになったとか。木刀で木刀を圧し折れるようになったとか。思い返して根源を探ればそれらはただの結果だ。砂場を引きづり回された磁石が砂鉄をびっしりとくっつけるように、付随してきたものであって理由にはなりえない。
記憶も定かでない耳が受け付けた彼の一言は、その後に霧崎の生活の基盤となっていた。
強くなりたい、というのは当然霧崎の中に存在する本能的な暴力衝動だ。自分が誰よりも優れていることを腕づくで判らせて、いやもっと直接的に言えば授業中に気に喰わないことを言った教師をひっぱたき屈服させ全裸で土下座させたい。
あるいは誰よりも美しくありたい。容姿に恵まれている方ではない自分が注目を集める為に剣を振るというのも当然理由の内に入ってくる。
けれども、そんな下らない欲望の全てを捨て去って、剣に我が身を捧げたいと聖人のように願うときもある。
そして今のところは、まるでぐちゃぐちゃの安定しない、生活するうえで上下左右四方八方に跋扈する感情を整えるための呪具として、ただ一本の木刀に己が身を委ね切る。
そんなことを高校生になっても望む霧崎にとって、田舎の街の夜の公園はおあつらえ向きの場所だった。人に見られる心配はほぼ皆無と言ってよく、持ってきた懐中電灯を消せば下弦の月の薄明かりはただ一つの照明として優しく霧崎を見守っている。
他の一切の光源が存在しないこの場所は、街の北東に位置する齋上神社の境内に存在した。主神は武御雷で御本尊は一本の古びた直刀だと初詣の時に年老いた神主が説明していた。御年七〇の老爺は足腰も壮健で一向に衰える気配を見せず、口から泡を飛ばして観光客の相手をしていたものだ。
そうだ、あの時は最高だった。
後ろから袴を引きづり下ろしてやった時の顔ときたら傑作で、今でも朝食の味噌汁を咽喉に詰まらせることが―――いやいや、今はそんなものなど必要ない。
剣を持ち上げる。力に頼らずに念動力のように想うことで、柔らかく最短の動きで切っ先は天を衝く。
ここまでの動きで霧崎はもう満足している。ここから刀を下ろすのは硝子の城を叩き壊すように何とも口惜しく―――
―――胸が躍ることだった。
一閃した切っ先が夜気を斬り裂いて、霧崎の内に木霊した。まるでその様は雷だ天と地を結ぶ大いなる力の導管となった体を錯綜し、足の裏から入った力が切っ先から天に駆けいく。あるいはその逆もしかり。
感覚が拡張され大気の揺れが肌を愛撫する。一太刀斬り付けるたびにやがて足元の大地が消える。
揺れた。そう思ったら前後左右がまるで判らなくなった。あるいは空気になるというのはこういうことなのかもしれない。ただ、霧崎の思考とは関係なしに体が機械のように正しく動作し続けている、ということは判っていた。
消えてしまいそうだ、と思う。
我が身は既に蜃気楼と化して、霊魂のみが地表を彷徨っていると他人に告げられても、何ら不思議に思わなかった。
ただひたすらに気持ちがいい。きっと雲にたゆう竜はこんな気持ちなんだろう。五里霧中の世界で瞼が落ちるのが判る。
眠い、
底知れない暗闇は愛しげに霧崎を捕まえていた。