ひとつの契約
二人は主殿を囲む廊下を渡り、中庭に続く通路に出た。泥濘るんだ地面に飛び飛びに丸太が埋め込まれているのを、一歩一歩渡っていく。そしてすぐに、大地を揺らし、風を裂く音が聞こえてきた。
「なんだ」
二人に気づいたのだろう。膝から下を泥だらけにしたロウゼンが、剣を両手に下げ、いつもと変わらぬ仏頂面で二人の方へと歩み寄ってきた。
わあ、めずらしい。剣の練習を途中でやめるなんて。いつもだったら、お肉の焼ける匂いがしても絶対にやめないのに。
グルオンの少し後ろで二人の様子を見守っているマーゴの口元が、少しにやけている。
「この剣を使ってみてくれ」
グルオンは、右手にずっと持っていた剣を差し出した。ロウゼンはそれを黙って受け取り、鞘を払う。
「重い」
「ああ、元打ちの剣は、今まであなたが使っていたものよりも、多くの力を使うからな。私もそうだったが、少し使っていれば、慣れる」
「そうか」
ロウゼンは剣を鞘に戻し、また無言でグルオンを見た。
グルオンはその視線を怯むことなく受けとめる。最後まで太陽を遮っていた、スコールの名残の雲が、ついに吹き払われる。一気に射し込む光を受けて、女戦士は口を開いた。
「あなたの、今朝の申し出――受けるよ」
一瞬目を伏せ、もう一度、ロウゼンの目を見つめる。赤い筋の刻まれた頬が、少し上気している。
「今日、この時より、私はあなたの妻となり、あなたを私の夫としよう」
その言葉にロウゼンは、ただ一度首肯き、そして背を向けた。
グルオンも、一転して穏やかな笑みを浮かべ、踵を返す。
えーーーー!?
両手を握り締め、固唾を呑んで二人を見ていたマーゴが、心の中で悲鳴を上げた。
これだけ?
「もういいんですか!?」
すでに来た道を、ふわふわした足取りで引き返しているグルオンに、走って追いついた。
「何がだ?」
問い返す声にすら、達成感と幸福感が満ちあふれている。
「だって、もっと、こう……抱きしめあったり――」
口づけしたり。大人の恋愛などというものを経験しようのないマーゴにとって、家族のことなどいろんな事情を差し引いたとしても、二人の関係はすごく興味深くて。だから邪魔は承知で、グルオンの後をわざわざついてきたのに。
「……な」
仄かに上気していたグルオンの顔が、一気に紅潮する。
「何だそれは。出来るか、昼間っから。――だいたい、あの人がそんなことをする人かどうか、マーゴもよく知っているだろう」
「う……」
たしかにロウゼンにそんな雰囲気を要求するのは、無理を通り越して無謀かもしれない。
「でもロウゼンさん、せめてもうちょっと何か言えばいいのに」
「いいんだ」
今朝、あの人が言ってくれた言葉を、忘れない。微笑むグルオンの背後から、ロウゼンが修練を続ける音が聞こえてきた。
「……あ、そうだ。契約書は交わさないんですか?ロウゼンさんがシュタウズだから?」
結婚も契約の一種だから、婚姻契約を結ぶのならば、契約書を作らなくてはならないはずだ。だけど森の民には契約という概念がないから、グルオンが言いださないと……
しかしグルオンは首を振った。
「なんだ。統一法には載ってないのか? すべての契約の中で、婚姻契約だけは、契約書が必要ないんだ。どちらかが結婚を申し込んで、もう一方がそれを受け入れれば」
「そうなの?」
「だって、契約書では、心は縛れないからな」
「ふーん」
見上げるマーゴの視線に、照れる。そのグルオンの足が急にとまった。
「どうしたんですか?」
「思い出した…………私は、交わしていないんだ」
「何をですか?」
「城兵としての、主従契約だ」
城兵として城に仕えるには、城主と主従契約を結ばなければならない。これには契約書が必要となる。だが、ランデレイル城に乗り込んで以来の混乱で、契約を結ばないまま今日まで来てしまった。
「……いいんじゃないんですか?誰も気にしませんよ」
思わず狼狽えるグルオンを、不思議そうにマーゴは見上げて、なだめた。
「そういうわけには……」
「契約書で、心は縛れないんでしょう?」
「…………」
契約書を交わさなくては私を信頼できないというのならば、あの人は最初から私を妻にしようなどと思わないだろうし。それに、一体何と言って、いまさら契約を結ぶんだ?
「……そうだな。森の民の戦士達も、契約を結んでいないしな」
なんとか立直ったグルオンの背中を見つめて歩きながら、マーゴは溜め息を吐く。こんなんじゃあ披露もしないんだろうなあ。一度見てみたかったんだけどなあ。せめて宴かなんかひらけないか、管理官のサムジィさんに訊いてみようかしら。
「あ」
グルオンが、また立ち止まった。
「どうしたんですか?」
「コクアの契約解除を、ロウゼンに伝えるのを忘れた……」
いつもありがとうございます。
今日の更新で、ロウゼンの周りの人間関係が、一区切りつきました。
あとは、あの親子かぁ。
ストック切れを目前に控え、まったくプロットが立っていない今の状況を小走りホラーに代えて……
次回予告!
「私は、盛り場が……」
そんなところに治療院を開きたいというトワロを、
ラミアルが疑惑のまなざしで見つめた。
二幕第九話「蛙の子は?」
9/22◆更新予定。
(泣)