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三幕・剣の四


   剣


 暗く翳っていた視界が、少しずつはっきりとしてくる。彼女には、なじみぶかい匂いが、土と草の薫りとともに、鼻孔の中に入ってくる。

 この匂いは――

常に悪夢とともによみがえってきては、彼女の心を苛んできた。闇とともに、赤い色とともに、そして、命の尽きる、最後の吐息とともに。

 まだ暖かい、人の体から、吹き出したばかりの、血の匂い。

――やめて。殺さないで。私は要らない。

 彼女は、悪夢でうなされることはなかった。なぜなら、いかなる悪夢も及ばない記憶があるから。しかし、悪夢はその記憶を呼び覚まし、記憶が風化してゆくことを許さない。

 うぅぅぅ

 幼い女の子のすすり泣きが聞こえてくる。まだ少し霞む目を開き、土のついた手で体を少し起こすと、泣き声の聞こえるほうに目を向けた。ペグが両手を赤く染めて、金の毛並みのほとんどを血に濡らした豹にすがりついて、泣いている。

「豹……」

 思わずつぶやいた声が聞こえたのか、豹の顔が彼女の方を向く。そして、そのまま体を起こすと、ペグをすがりつかせたまま、体を舐めはじめた。

体についた血の量からすれば、かなりの怪我だったはずだが、そのほとんどが返り血だったのか、案外平気そうな動きで、前足を舐めている。

 そこから視線を横に移すと、ロウゼンが最後に見た位置にそのまま立っていた。気を失っていたのは、それこそほんの一瞬だったらしい。何が起きたのかわからず、茫然と辺りを見回している。

 呆気に取られたその姿と表情がおかしくて、思わず吹きだしそうになったとき、辺りの景色に、そして匂いの原因に気がついた。

 決して狭いとは言えないこの広場を埋めるように、たくさんの死骸が折り重なって倒れている。首や腕を断たれたもの、肩から脇にかけて切り下げられたもの、額が割れているもの、胴体が真っ二つに別れたもの、それらはロウゼンが斬り殺した死体。

 近くに倒れている、喉首から血を流しているものは、豹が噛み殺した死体。

 そして、まったく外傷の無いまま倒れているもの、広場に倒れているものの半分以上をしめるもの、それは――

「また……」

 赤い光の玉に触れて――

「私のせいで……」

 命を失った死体。

(マ、タ、ヒ、ト、ガ、シ、ン、ダ)

 ふらつく躰を、それでも立ち上がらせ、密林に向けて歩きださせる。

 何の感覚も伝えてこない足が、地面に投げ出され力を失った腕につまずき、そして倒れこむ。

無意識についた手のひらに、赤い血が絡み付く。それをちらと見て、拭いもせずにまた立ち上がる。

なにか軟らかい音が、足の下でうずく。それも耳には届かない。

 早くここから去らなければ、こことは別の所に行かなければ、誰も死なない所へ、あの男の手の届かない所へ、あいつが殺したんだ、あいつがいなければ、あいつが死ねば、私も殺した、私がいなければ、私が死ねば――

「マーゴ!」

 銀の瞳が、声のするほうを向く。

 そこには、体中を返り血と自分の血に染めたロウゼンが立っていた。

 一瞬の驚きから立ち直ったのだろう。あれだけの兵を金縛りにした、あの恐怖と畏怖をもたらす威圧感は決して失われてはいない。その証に豹は今、頭を下げて不安そうにしている。その背中にはペグがしっかりとしがみついている。

 しかしマーゴの心には、何の影響をももたらさなかった。ここから立ち去らねばという観念が、彼女の心を縛っていたからだ。

 彼女は瞳を戻し、再び一歩を踏み出そうとする。

「どこへ行く!」

 ロウゼンはその場に立ち尽くしたまま、マーゴに呼び掛けた。その声には、マーゴがロウゼンと出会ってから、初めて聞く響きがあった。厳しいが、決して冷たくはないその声。その響きが、マーゴの心を縛る鎖を、ほんの少しだけほどく。

「どこへ行く」

 重ねての呼び掛けに、マーゴもまた、振り向いた。その瞳に、今はまだ、何も浮かばない。しかし、その視線は、しっかりとロウゼンをとらえていた。

「おまえはオレの娘だ。その娘がどこへ行く」

 ロウゼンの表情が動いたわけではなく、口調が変わったわけでもない。しかしマーゴの表情は明らかに変わった。

「私は……家に帰ります」

「……」

「私は、ここにいたらいけないんです。ここにいたらみんな死んでしまいます。あの家を逃げ出さなければよかった。――逃げ出すくらいなら死んじゃえばよかった!」

 凍り付いていた感情が涙になって溶けだした。

 ロウゼンがゆっくりと歩み寄り、マーゴの傍に膝をついて、くしゃくしゃになった少女の顔を覗き込む。

「……おまえを泣かすのがその家なら、俺が壊してやろう」

 涙でかすむ目に、ロウゼンの顔が見える。優しい笑みを浮かべるどころか、赤子が見ればひきつけを起こして、呼吸すら止まってしまうような形相は変わっていない。かける言葉も相変わらず、ぶっきらぼうなだけでなくむちゃくちゃだ。

 自分と親しくなった人は、みんな目の前で死んできた。もちろん自分が手を下したわけではない。それどころか、なんとか助けようとした。それを殺していったのはあの男。そして自分が人の命を奪ってしまうようになったのも、あの男の仕業。でも――

 この人なら――圧倒的な力を持ったこの人なら、あの男から私を解き放ってくれるかもしれない。

 そんな打算も、本当の家族を見付けたという思いにかき消され、涙の色も明るくなった。

 スコールに濡れた顔に、太陽の光が差し込むように。



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