………盾の三
「ところで」
果汁でべとべとになった手を、ももの辺りで拭きながら、レイスが訊いた。
「ロイズラインに行くのはいいけど、それからどうするのさ」
「……どうするって」
三つめの果物の種を吐き出しながら、聞き返す。
「だってほら、ぼくたちは今、誰とも主従契約を結んでいないから。このままじゃ、何にも出来ないよ」
「そんなことはない。少なくとも、なぜ王を死なせたのか、それだけでもわかる。それに……」
「それに?」
グルオンは、しばらく口をつぐんだまま歩き続けた。空はますます暗くなり、一時耳を聾するほど騒いでいた鳥や虫達も、今はほとんど静まり返り、たまにぎゃあぎゃあと叫び声を上げるのみになった。あれだけ蒸し暑かった空気も、少しずつ涼気をはらみだしている。
「なあ、私は契約した主をなくしたのはこれが初めてだが、他の奴らは一体どうしてるんだろうな」
「どうしてるって、そりゃみんな新しい主と契約をするんじゃないの」
城主を失った城兵は、通常新しい城主にそのまま仕える。新しい城主も、まわりの勢力から攻め込まれないためにも、一刻も早く戦力を整える必要があり、敵であったからといって、区別することはない。それどころか、手強かった兵ほど、進んで迎え入れる。そうしなければ敵に回ってしまうのだから当然だ。また敵に降った兵が殺されてしまうこともない。そのようなことをすれば、その城主と契約を結ぼうとする戦士がいなくなってしまう。契約を結ぶということは、双方の自由意思に委ねられているので、城主自身の評判というのも重要なのである。
「王の最後の時にいた奴らは、何人か生き残ったんだろう。あいつらはどうするんだろう」
「そりゃ、サリーンが本当に裏切ってなかったら、かなり厳しいことになっているだろうから、好き好んで負ける側と契約を結ばないだろう。サリーンが破れるのを待って、ロイズラインの新しい城主と契約するか、ランデレイルに向かってあそこの城主と契約するか……。あそこの城主はなんていったっけ」
「味方を見捨てるのか。それに自らの仕えた、護らなくてはならない王を殺した奴に仕えるのか」
「うーん。それが嫌なら、アデミア王の支配下にあった、他の城にいけばいいよ。それか、ラルカ地方もミューザと敵対してるから、そっちでもいいかもね。うまくすれば王の仇も取れるかもしれない」
「……」
グルオンは、うつむき、自分の前に続く道を見た。昨日王が駆けていったであろう道。だが王の足が蹴散らしていったはずの雑草も、わずか一日足らずで見分けがつかぬ程元通りになっている。
このアロウナでは、植物の生育が非常に早い。陽の差し込まぬこの道でも、種が落ちてから膝ほどの丈に伸び、そして花をつけるまで十日とかからない。人が死んでもその日のうちに獣に食い尽くされ、骨は鼠や虫にかじり尽くされ、土に流れた血さえも木や草に吸い尽くされてしまう。
この道の先に倒れた王の身体も、すでにこの大陸から消えてしまっているだろう。
すでに太陽は完全に月に隠れ、見上げれば淡い光の輪が、木々の隙間からわずかにのぞくのみ。先を急ごうと駅を立ったものの、さすがに足元も暗く、月が太陽を吐き出すまで、足を止めざるをえない。
「……レイス。おまえは、王を失って何も思わないのか」
レイスは暗闇に沈んだ妻の顔を見る。
「そうだね。ぼくは君と違って、主を失ったのは初めてじゃないし」
「そうだったな……。しかし、慣れればこの気持ちは、感じなくなるものなのか」
その表情を見ることは出来ないが、レイスにはグルオンがどんな顔をしているのかはよく分かった。二人が婚姻の契約を結んでから二年あまり。幾人もの親しい戦士を失うたび、必ず見せてきた顔だ。常に最前線に立つ王を護る親衛隊はもっとも消耗の激しい部隊だから、戦友の死は珍しいことではない。それでも彼女は悲しみに慣れることはなかった。
それでもいつもなら、一日落ち込めば次の日にはなんとか気を取り直していたが、命を懸けて護ると誓った――契約だけではなく血にかけて誓約した――王の死は、彼女の心に、決して小さくない傷を付けたようだ。
彼女の心は、戦士として生きていくには優しすぎることを、レイスは知っている。生まれながらの戦士たるキシュは、戦友の死を悲しむのはもちろんだが、それ以上に自分が生き残ったことを喜ぶ強さを持っている。しかしグルオンの魂は、友人たちの死によって、大きく傷ついてしまう。しかし、このアロウナの草木のように、どんな傷もいつかは癒される、それだけの強さを持っているということも、彼は知っている。
彼女の心が、いくら闇を見ていても、それは夜の闇ではない。今この密林を包んでいる、少し待てばすぐに明るくなる月の陰なのだ。
まさに今も、頭上の光の輪の片隅が、強く輝きだし、空も青さを取り戻しはじめる。まだ道の上は暗かったが、静まっていた鳥達もさえずりはじめ、密林はそれが包み込む命を、あらわにしていった。
しばらく立ち止まっていた二人も、闇に慣れた目に足元がはっきりすると、再び歩き始めた。
「待て」
グルオンがレイスに声をかけたのは、すでに太陽がその姿をすべて取り戻し、日蝕後のスコールをもたらす雲が、木々の梢を揺らす風とともに空を流れてきたときだった。
一度明るさを取り戻していた道も、また薄暗くなってきている。その道の向こうから、明らかにキシュとわかる足取りで、数人の兵士が疾走してくる。グルオンはレイスを背後にかばうと、こちらに向かってくる一団をにらみつけた。
「何者だ」
そのそろいの頭冠をかぶった一団は、二人を取り囲み、誰何する。
「グルオン。アデミア王の親衛隊長だ」
二人を取り囲む顔が、揃ってけげんな表情になる。レイスもグルオンの後で顔をしかめている。仕えていた主が亡くなり、契約が失われれば、もとの地位も失われる。普通はそれを名乗ったりしないものだ。
「おお、昨日の殿を努めておった。よく生きておったな」
頭立った兵士が、にこやかに応じる。
「傷も大したことがなさそうでよかった。我らの目をごまかすとは、よほど死んだふりがうまいと見える」
「――!」
しかし、瞬く間に嘲りに変わる。
「まさかあの程度で我らを止められると思っておったとはな。まあ、あの王の命じたことであろうが、気の毒なことだ」
「黙れ」
グルオンの手が剣の柄に掛かる。
ランデレイル兵は一斉に飛びずさり、剣を抜いてグルオンに突き付ける。
「駄目だよ!」
レイスが、グルオンの腕にすがりつき、兵士たちに訴える。
「申し訳ありません。彼女はアデミア王と個人的に友誼を結んでおりましたので、まだ気が動転しているんです。いずれランデレイルかロイズラインでまたお目にかかろうかと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「何を言っている。こいつらは……」
はっとして、グルオンは自分に腕にすがりついたレイスの手を見る。半分抜き出された剣の刃をレイスはつかみ止め、その掌から、真っ赤な血が滴り落ちている。無理に剣を抜こうとすれば、レイスの指はすべて落ちるだろう。
「今は主を持たぬ、流れの戦士でございます。どうぞお見逃しくださいますよう、お願いいたします」
レイスが必死に言い募る。ここで戦いになれば、間違いなく命を落とす。グルオンひとりで、なおかつ体調が万全であれば、アデミア配下随一の腕を持っていた彼女のこと、逃げ延びることぐらいは、もしかすれば出来るだろうが、今は足手纏いの自分がいる。しかもグルオンは血が足りず、満足に戦えない。今戦うわけにはいかないのだ。
「ふんっ。ヨウシュにかばわれるか。どうもアデミアの配下の奴らは腰抜けばかりだな」
「なにっ」
「ロイズラインの城主――サリーンといったか。二百に足りない我らに対して、城の中に隠れおって、結局配下の者に討たれよった。我らも数多くの城主と戦ってきたが、そのような奴は初めてだ。とんだ臆病者よ」
「……馬鹿な」
グルオンの腕から力が抜ける。それを見てランデレイルの城兵は、行くぞ、と声を掛け合い、また走りだす。離れぎわに、鼻先で笑うことを忘れない。
しかしグルオンはそれにも気づかず、茫然と立ち尽くしている。レイスはしがみついていた手の力をやっと抜く。
「駄目だよ。主を討ち取られた以上、彼らはもう敵じゃあないんだ」
「敵は敵だ!」
グルオンはかっ、となって言い返す。
「だったら、君はぼくの敵だね。ぼくの前の主は、アデミア王に討たれたんだから」
決して我を失うことのないレイスの目を見つめ、そしてグルオンは我に返る。
「おまえ、手は……」
「大丈夫だよ。これくらい」
レイスは血を流す左の掌に左手をかさね、口の中で小さく呪を唱える。淡い光が手の間からあふれ、みるみる傷をふさいでいく。
「すまない」
グルオンは、傷の癒えた夫の左手を取り、両手で包み込む。
「私の剣は、人を護るためにあるのだと思っていたのに……、誰も護れない。それどころかおまえに護ってもらうばかりで……」
うつむくグルオンの肩が震える。
二人の頭上を厚い雲が覆い、太陽の光ではなく稲光が、木々のすき間から二人を照らす。スコールが密林の大地を叩きつけ、滝のように二人を濡らした。
「さあ行こう。サリーンはいけすかない奴だったけど、少なくとも臆病じゃなかった。彼の名誉を護ってあげられるのは、君しかいないよ」
グルオンの濡れた顔があがり、そしてうなずく。
「そうだな。せめてそれ位は護らなければ。これ以上何も失いなくない」
二人の向かう先は、強い雨に煙っていた。