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 やばいっ!! 本能的に危険を察知して、体をひるがえし、奥へと引き返す。

「ねえ、なに? どうしたの?」

 不安そうに訊ねてくる少女を、二段になった粗末な寝台の向こうへ押し込む。

「いいから隠れてろ!」

 小さく悲鳴を上げる少女に、敷布を被せておいて、戸口を振り返る。

「てめえら、師匠がいねえ時に! 卑怯者!」

 少年の罵声を受けて、戸口に姿を現した、抜き身の剣と丸い盾を持った男が、笑った。影になった顔に、白い歯が浮かぶ。

「卑怯者は、お前のお偉いお師匠様だろう。城主の権力の影に隠れやがって」

 少年はその声を知っている。統一王派の錬成館で師範代を務めている男だ。

「何をしている。ここにもいるのか?」

 さらにもう一人顔を出す。この男は見覚えがない。無頼の輩を雇ったものか。

「外は大概終わったぜ」

 もう、悲鳴も怒鳴り声も聞こえない。はじめの男が外に気をとられたその隙を狙って、少年は飛びかかった。

 あいつだけは逃がさないと。誰にでも噛みつき、狂犬のように嫌われていた少年に、あの少女だけは差別せずに接してくれた。

 この寮から飛び出せれば、そしてこいつらが俺を追いかけてくれば、あいつは逃げることが出来る。

 稽古用の木剣を、男の眉間目掛けて大上段から振り下ろす。たとえ布を厚くまいたままの木剣とはいえ、まともに当たれば、熟した果実のように頭蓋は弾けるだろう。だが――

 男は余裕で盾をかざし、その攻撃を受けとめた。

「ぐぅ」

 その衝撃が、治療が不完全なままの右腕を襲い、木剣が手から飛ぶ。

 そしてゆっくりと、男の剣が少年の腹に差し込まれた。それを抜くために剣を引く代わりに、男は少年の腰に足を当て、蹴り飛ばす。

 宙を舞い、そして壁に叩きつけられるまでのほんの僅かな時間、少年の耳に少女のあげる悲鳴が聞こえた。

――ばか。逃げろ――

 そして意識が、薄れていった。

 だが、傷が急所を外れていたのか、それとも男がわざと外したのか、少年が命をすぐに失うことはなかった。

 たえまなく襲う灼熱の痛みと、断続的に喉にこみあげてくる血液、それらがきれぎれに少年の意識を引き戻し、少女の悲鳴と泣き叫ぶ声、そして男共の嘲笑い、嬲る声が、彼の心を切り刻む。

 そしてついに力尽き、少年の意識を深い闇が覆い――

 微かな、本当に幽かなぬくもりが、灼ける痛みとは別の、優しいぬくもりが、傷を包んだ。

「動いちゃ……駄目だよ」

 霞む目と、開ききらない目蓋の向こうで、乱れた髪に顔を隠した少女が、少年の傷口に手を当てていた。

 自分の腕だと確信が持てないまま、それでも力を込めて左手を少女に伸ばす。だけど、彼女は頭を振り、その手を避けた。

「お前……」

 燭台の微かな明かりに、彼女の簡素な服が引き裂け、黒く汚れているのが見えた。

 少女は、もう一度頭を振る。彼女が吹き消したかのように、明かりが消えた。常に天頂から動かない月の青い光は、部屋の中まで届かない。ただ、少女の手に灯る赤い想いの光だけが、息づくように、淡く、薄く、脈動していた。

――……い、し……りしろ……きているか――

(つめたい)

「おい、しっかりしろ」

 少年を覗き込む大人達がかける声は、少年には届かなかった。

(どうしてつめたいんだ)

 大人達が持つランタンの明かりに、少年の腹に顔を埋める、少女の姿が浮かび上がった。

 たしかに意識と繋がった左手を伸ばし、彼女の頭を撫でる。その小さな頭が力なく転がり、殴られた痕だろうか、半ば以上が青黒く変色した少女の顔が、少年を向く。唇は醜く腫れ上がり、そのまわりに乾いた血がこびりついている。二度と微笑むことのない目が、光を失った瞳が、少年を見つめる。

 少年は――絶叫した。



「彼女の仇を討ちたいわけではない。その時から人が人ではなくなっただけだ」

 フォルビィが、ミューザのいる辺りに顔を向け、口を開こうとしている。

 ミューザは、口元を歪めた。いろんなヨウシュの女に、何度もこの話をしてきた。だから、フォルビィが何を言いたいのか、聞かなくても想像がつく。

(その人は、あなたが幸せに暮らすことを望んでいるはずです)

(彼女はきっと、悲しんでいます)

 確かなことがひとつある。死んだ人間は何も望まない。悲しむこともない。

 自分が今のような人間になったのは、あの経験のせいだとは、ミューザは思わない。もっと悲惨な経験をした者も、無数にいるだろうし、彼はその手で更に残酷な所業を重ねてきた。だが、そのせいで彼のようになった人間は、多くはいないだろう。少なくとも彼は知らない。

 ならば、すべての人間に対する怒り、世界に向けられた憎悪、その身に絶え間なく沸き立つ苛立ちは、彼が生まれ持っているものなのだ。彼女の死は、きっかけにすぎない。ただ彼女によって閉じられていた扉が、開放されただけだ――

「あなたが死ねばよかったのに」

 フォルビィの小さな声が、うるさいくらいに響いた。ミューザは顔を上げた。今、なんと言った――

「あなたが死んでいれば、その人は自分を癒すことが出来たはずなのに」

 ミューザは、妻と呼んだ女に向かって、足を踏みだす。

「あなたが死んでいれば、私はあなたに逢わなくてすんだ……生まれてこなくてすんだのに!」

「フォルビィ……王……」

「お前の言うとおりだ」

 ミューザは、フォルビィの真っ白な髪を掴み、力ずくで椅子から立ち上がらせる。

 この女の言うとおりだ。俺は世界が滅べばいいと思いながら生きている。せめてこの大陸のすべての人間を殺し尽くしたいと思っている。だが、俺が死ねば、俺にとっての世界は消える。たしかにこの女の言うとおりだ。

「やはり、お前は俺の妻に相応しい」

 フォルビィは初めて、自分を妻と呼ぶ男の顔を、はっきりと見た。そんな距離にまで他人の顔が近づいたことなど、長い間なかった。

 肩まで伸びた鋼の色の髪に焼き鋼の色の瞳、眉間に深く皺の刻まれた精悍な、そしてそれ以上に冷酷な顔は、意外なほど整っている。しかし、その青白い顔の下に、暖かい血が流れていようとは、とても思えない。その代わりに、体中から立ち上る生臭い血の匂い。

 フォルビィは目を閉じた。その唇に、生まれて初めて、人のぬくもりを感じた。




いつもお付き合いいただき、ありがとうございます。


今日も今日とて小走りホラー


僕の腕に蚊が一匹止まった。

そのときの僕は、とても優しい気持ちだったので、微笑みながら言ったんだ。

さあ、好きなだけ飲んだらいいよ。


『○○さんが、死体で発見されました。不可解なことに、その体には一滴の血も残されておらず……』



次回予告。


お前は、王を弑する気があるのか。

その問いを、ロフォラは発することができなかった。

なぜならそれは、彼自身に返ってくる問いだから。


一幕第十三話「中毒」

8/4更新予定


って、もう八月?

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