傷み
「王が帰ってこられたそうだ」
机の横の椅子に座って、入り口の方に顔を向けていたフォルビィの首が、く、と傾げられた。
「ん、どうした? ……っ!?」
目の隅に、戸口の柱に背中を預けた人影を捉えて、思わず飛び退き、籠を落としかけて慌てて抱え直す。城門をくぐってから直接やってきたのだろうか。鎧は着ていないが、身にまとった服は薄汚れたまま、返り血は見えないが、血の匂いは漂わせたままの男。
「王!?」
籠を急いで床に置き、その横に跪く。
「我が妻の世話、ご苦労だったな」
ミューザに労いの言葉をかけられて、ロフォラは、は、と深く頭を下げる。
「フェロもなかなか役に立った。奴もおもしろい。奴は人を斬ることを何とも思うておらぬらしいな」
「それは……、戦士とは、そのようなものでしょう」
「そうとも限らぬさ。並みの者は少なくとも、生きた同類と戦っているという意識を、常に持っている。奴に比べれば、人など虫けらと変わらぬと言う俺など、優しいものだ」
口元を歪める。
「それは奴自身のせいではあるまい。奴を育てた者が、そう奴に刻み込んだものかな」
ロフォラは、上げかけた視線を逸らせた。ミューザの言っていることは、おそらく正しい。幼子を毒で育てようという者達が、人を人としてみているはずがない。
「いつまでそうしている。踏み潰されたいか」
いつまでも側に跪くロフォラが目障りだったのか、ミューザが言った。わずかに機嫌がよさそうだったのに、既にそんな気配はない。
慌てて立ち上がって、洗濯物をどうしようかと迷った。それも束の間、フォルビィの背後に進んで、そこに立つ。そして初めて、ミューザの胸元から白い布がのぞいていることに気がついた。
「お怪我をされたのですか?」
ロフォラの問いに、フォルビィが、え、と声を上げ、右手をミューザに差し伸ばしかけて、思い止まる。そのかわりに、ロフォラを振り仰いだ。
「ロフォラ、お願い。治してさしあげて」
ロフォラは迷った。ミューザの様子からすれば、それほど大きな怪我ではないのだろう。しかし、軽い怪我でも膿んだりすれば生命にかかわることもある。王には専属の治療師もいるだろうから、まさかそのような事態にはならないだろうが、ならば怪我をしてすぐに治してしまえばいい。戦場では万全を期するべきだし、怪我をしたままというのは、万全とは言えない。それなのに治療していないということは――
「かまうな」
やはりわざと治療を受けていないのだ。
「でも」
「痛みは必要だ。たまにはな」
その話を続けるつもりはない。ミューザはそう首を振る。しかしフォルビィは食い下がった。
「だったら、ミューザ様は痛みを知っておられるのでしょう?ならばどうして――」
「どうした?」
ロフォラがフォルビィに問うた。ミューザの帰還をとても心待ちにしていたのに、様子がおかしい。
「ミューザ様は、戦でとてもたくさんの人を殺したと……、とても嬉しそうに」
ロフォラは怪訝な顔をした。ミューザは以前――
「たしか、人は虫だと、殺しても汚らわしいだけだと、そう言っておられたはずでは?」
「駆除が終われば、少しは心も晴れる」
ミューザはまた口元を歪める。それがこの男の笑いなのだと、ロフォラにはもうわかっている。王はめずらしく、戸口の横の定位置を離れ、窓際に進み、窓を塞ぐ簾に触れた。
「お前も虫が嫌いなのだろう?」
簾を少し押し上げて、フォルビィの横顔に声をかける。
虫の意味が違う。ロフォラは思うが、口を挿めない。
「虫は、私に近づくだけで落ちます」
顔を戸口の方に向けたまま、フォルビィが言った。それは彼女にとって当たり前のことなのに、それでも彼女の表情が沈む。
「毒虫でさえ、私を刺せば死んでしまう」
くっくっと、ミューザの方から嗤うような声が聞こえた。口元ではなく、頬に笑みが浮かんでいる。空気が凍りつく。
「だから虫を遠ざけるのか? 虫を殺したくはないと? お前に近づく虫が死ぬのは、近づいた虫が悪いということか?」
くっくっという音に合わせて、肩が揺れる。
「お前が蟻を踏み潰せば、足元にいた蟻が悪い。当然だ。お前は殺したくないんだからな」
「……何が言いたいのですか」
「お前にその意志があろうがなかろうが、殺すのはお前だ」
だがそれは、彼女のせいではない。
「だがそれでいいではないか。どうせいくらでも湧いてくる」
王の笑みが、薄まった。
「俺がなぜ、大陸の統一を目指しているのか、教えてやろう」
ミューザが囁くように言う。
「大陸を統一するのは、すべての民を従わせるためではない。蟻をすべて踏み潰すよりは、牛を一匹殺す方が簡単だからだ」
「あなたはどうして……どうして生命を拒むのですか!!」
「お前がそれを言うのか?」
「私だから――! 私だから言うんです!」
すべての生命を拒まざるをえない彼女だから、言える。それが伝わったのか、王は戸口の横の柱に、また背中を預けた。簾にかかる陽の光の照り返しが、少し薄れてきた。日蝕が、今日も始まる。
お付き合いいただき、ありがとうございます。
今回のタイトルは「痛み」の誤字じゃありません。
ありませんってばっ!
「ねえ、あたしのためだったら死ねるって言ってくれたわよね」
「ああ、もちろんさ、ハニー」
「じゃあ、今死んでっ!」
……イマイチ(泣)
次回予告っ。
少年は、かけがえのない時を過ごしていた。
傷口に感じる、温かな癒しの光。
だけどそれは、悲鳴とともに切り裂かれる。
一幕第十一話「鍵」
7/28 更新予定!
彼の心は、傷んでいた……そんな感じで^^;