優しい選択
私は生まれたときから、いつも大勢の大人達に囲まれていました。
自分の母親と会った最初の記憶は、たぶん四歳の頃のことです。
まわりの大人はみんな肌が白か茶色だったから、自分の肌が黒いのは、毎日飲んでいる灰色のミルクのせいなんだと思っていました。
(灰色のミルク? なんだそれは)
(毒を混ぜてあったのでしょう。こどもは薬を好みませんから)
フォルビィ。と、私を呼ぶ声がしました。
その時にはもう、目があまりよく見えなかったから、ていうか、よく見えたことはなかったけど、だから、いつも一緒にいる大人の声はよく覚えてる。いつも四人か五人。ずっと私に癒しをかけつづけなければいけないから、ちょっとでも休んじゃうと私が死んじゃうから、みんな疲れて次々に入れ替わるけど、それでも私の部屋に入ってくるときと、出ていくときには優しく声をかけてくれるから、みんなの声を知ってた。
でも、その女の人の声は知らなかった。
ふざけて自分の鼻をつまんで出す声のような、でもちょっと掠れた、聞いている私の方が苦しくなるような声。
今ならわかる。泣いていたんだ。
(ようすがおかしいな)
(薬には、罌粟などもずいぶん含まれていますから、服んだあとはいつもこうです)
お母さまよ。と、癒しをかける以外の、いろんな世話をしてくれる人が、教えてくれた。その人の名前は……知らない。話し掛けて応えてくれるのは、いつも一人だけだったから。人は違うけど、いつも一人。ねえ、って言えば、なに?って応えてくれる。
それで、はじめて私にむかって伸ばされる手を見下ろした。私と同じ色をしていた。
お母さまだから黒いの?
そんなことを訊いた気がする。
そうじゃなくて、お母さまが黒いから、私も黒いんだって教えてくれた。この国にはいろんな色の人がいて、リーズには、あまり黒い肌の人はいないけど、海の方には多くて、それでここにも少しはそんな人がいて、それが私のお母さまだということだった。
目が見えないの?
押し止める腕を振り切って、お母さまの手のひらが、私の頬を挟み込んだ。
びっくりした。直接触られたことは、憶えている限りなかったから。でもあったかくてきもちよかったから、他の人は、騒いでいたけど、頭を振って答えた。
見えるよ。お母さまの髪は黒いんだね。
すぐ目の前だったし、それでも暗いとよく見えないんだけど、午後の光が、広い窓から射し込んでいたから、よく見えた。
そうしたら、両腕を首に回して、頬をすり寄せてきた。
くるしいよ。
あんまり強く締めつけるから、でも、離れてほしくなかったから、笑いながら言ったけど、でもまだ締めつけてくるから、力一杯突き飛ばした。
そうしたら、そのまま倒れて、動かなくなった。
(死んだのか?)
(毒に対する訓練を受けた癒し手が、大勢いたはずですから、大丈夫だったろうと……)
だから、お母さまに会ったのは、この時が最後なの。
幸せそうな顔で、安らかな寝息をたてている女を見下ろして、ロフォラは溜め息を吐いた。その白い頭を撫でてやろうと手を伸ばしかけ、思いとどまる。
「毒に罌粟が混ざっているのは、なぜだ?」
部屋が変わっても、相変わらず戸口の横に身をもたせかけたままの王が訊いた。
「罌粟だけではありませんが……麻や仙人掌や古柯や麻黄や、致死性のものを除いても、それだけで普通の人間なら、悶死してしまうくらいは含まれています」
寝台の横にある椅子に、腰を下ろす。
「目的はふたつあります。習慣性のある薬物を入れることで、リーズを離れても薬の服用を続けさせること。そして、服用をやめた場合に、禁断症状によって、彼女の生命を奪うこと、です」
「禁断症状で、人は死なんだろう。特に我が妻は――」
「彼女が毒で死ぬことがないのは、ヨウシュの癒しの力を、常に無意識に彼女自身に向けているからです。月の力が彼女の身体に降り注ぐかぎり、眠ろうが薬のもたらす夢に浸ろうが、毒が生命を奪うことはありませんが、禁断症状が出れば、おそらく癒しを続けることが出来なくなるでしょう」
「お前が癒しをかけても駄目か」
ロフォラは首を振る。通常の中毒症状ならばともかく、彼女の場合は、身体の隅々まで毒が行き渡っている。いや、彼女が自分で言ったように、毒で身体が出来ているといってもいい。毒を毒でなくすこと、それは彼女を彼女でなくすこと。解毒をした結果、死に至るのでは本末転倒だ。
そう言うと、王の口元が歪む。
「わざわざ俺を殺そうというんだ。どれほど正義に凝り固まった国かと思ったが、そうでもないようだ」
「統一法を護ることが、すべてですから」
「法を犯した覚えはないが――法が人間よりも大事か」
「それゆえのリーズ法国です」
「なるほどな。まあいい。俺は明日からしばらく戦に出る。妻の世話はまかせる」
ロフォラが頭を下げている間に、王は出ていった。
深く息を吸い込み、余計に息苦しくなって、法術師は窓際に歩み寄る。
フォルビィの吐息に含まれる毒程度なら、吸い込んだとしても解毒は容易だが、力を使えば疲れるし、やはり息は詰まる。
彼女の希望どおり、大きな窓が三面に開いている広い部屋。その窓に虫除けの簾が掛かっている。簾の目が細かいから、窓の大きさのわりには、風が入ってこない。簾を上げようか迷って、やはりやめる。彼女は、虫が嫌いだ。
「あの人は……?」
寝台の上から、声が聞こえた。
「なんだ。目が覚めたのか。王は出ていかれた。明日から、戦だそうだ」
「そう。せっかく来ていただいたのに――」
フォルビィは、上半身を起こした。
「私、何か変な話をしなかった?」
丁度夜の分の薬を服んだときに、王が訪ねてきたから、途中までしか自分の話したことを憶えていない。ほんの少しでも眠れば、すぐに意識ははっきりするんだけど。
たしか子供の頃を訊かれて、自分のことを訊かれたのが嬉しくて、張り切って話したような気がする。そう、たしかお母さまと最初に会ったときの話を――最初に会ったとき?最後に会ったとき……
よく思い出せない。
「あの人は、戦に出るの?」
「心配なのか?」
ロフォラは笑った。
「陛下は誰にミューザ王を殺せと命じられたんだ?」
「……私……」
「だったら、お前が殺すまでは、あのお方は死なない。そう決まっている」
「そうよね……」
安心したように、フォルビィは微笑んだ。身体をもう一度、寝台に横たえる。
目を閉じたその顔を見て、ロフォラは首を振る。
違う。お前が殺すはずの人間を心配してどうするんだ。俺が言いたかったのはそういうことだ。だけど、言えない。
現実を思い知らせることと、現実から目を背けさせること、どちらが優しいことだろうか。
「おやすみ」
わからない。
いつもお付き合いいただき、ありがとうございます。
早速次回予告〜。
「あなたはいい。そんなに綺麗なんだから」
キリルの陰気な視線が、ロフォラの全身を舐める。
「だけど、知ってるよ。君たち兄弟の姿は、作り物なんだって」
一幕第八話「法の子」
7/17更新予定!!
あとがきの路線変更を考えている台風前夜……